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第十一章 現実との戦い(4)
ブックカフェで二時間ほど、お茶を飲みながら本を読んだ俺は、そこから何処にも寄ることなく帰途に就いた。
俺としてはもう少し遅くまで真優との時間を過ごしたかったのだが、気絶から回復したばかりな上に、園崎さんを相手に泣きじゃくった後だ。真優としては結局心配が勝ったようで、「今日はちゃんと休みなよ」と、俺を自宅まで送り届けると、和香子さんに栄養のあるものを食べさせるようお願いまでして去っていった。
お陰で夕食は大変だった。
ほうれん草のおひたしに厚揚げと根菜の煮たの、鰤の照り焼きときて、麩のたっぷり入ったお吸い物に筍の炊き込みご飯。こう聞くと、一般的な夕食のメニューに思えるが、どれも量が普段よりも多く盛られていて、前世の俺ならまだしも、食の細い望海の胃袋に収めるのにはかなりの根気がいった。どのくらい大変だったかというと、食べきるのに一時間近くかかったほどだった。
「坊ちゃんは年齢の割に食べる量が少ないとは思っていたのですよ」
俺の体調が良くないと真優に聞いた和香子さんは、少しだけ目を吊り上げながらそう言った。
「暫くは量を多くしましょう。きちんと食べないと、良くなるものも良くなりませんからね」
幼い頃から両親の代わりとして望海を見守ってきた和香子さんは、それだけに望海の為と決めると譲らないところがある。それが彼女の望海に対する愛情のなせる業であるのはわかるし、俺としては有難いと感じるのだが、望海としては無理を押して食事をしなければならなくなったことが気に入らないようだ。心の片隅に感じる違和感。不貞腐れているような感覚に、贅沢者だよなあ。と、思う。
和香子さんとふたりきりで留守番ということも少なくなかった望海は、和香子さんには我儘だった。両親の前ではいい子を演じて甘えることもあったが、和香子さん相手だと本音もぽろりと口を衝いて出る。そういった意味で、望海にとって和香子さんは家族以上の存在であるのだろう。だから自分の意に沿わないことをさせられると、不満を覚えてしまう。
とはいえ、体力を付けるのは早急の課題だ。きちんと食べて、きちんと運動しなければ。食後の風呂を終えた俺は自室で日課の筋トレをしてから、姉に教えてもらった番号に電話を掛けた。
「姉さん、今大丈夫?」
「勿論よ、瑞樹」
丁度、お風呂から上がったところだったらしい。「後は寝るだけだから」と、俺を気遣う台詞を吐いた姉が、早速本題を切り出してくる。
「でね、瑞樹。あなたに聞きたいのはこの世界のこと。この世界はどうなってるの? 私、一応イベント起こさないように頑張ってたんだけど、それにしては何も起こらなさ過ぎると思ってて……」
「あー、姉さんの立場だとそう思うよね。俺もここ、絶対公式の『エンジェルスフィア』の世界だと思ってたもん」
「そうなのよ。でもそうじゃないんでしょ? だってあなたの周り凄いじゃない。一成と一臣はあなたの傍につきっきりだし、相馬様はあなたに滅茶苦茶距離が近いでしょ。眞と真優もそうよね。あなたと大分親しくなってる。対して私はどう? 理事長よ」
迷惑しているのに違いはないようだが、面白がってもいるようだ。笑いながら言う姉に、俺はこの世界が『エンジェルスフィア』を下敷きにしたBL同人誌の世界であることを説明しようとした。
とはいえ、自分が主人公の立ち位置にあるBL物語の話である。
乙女ゲームを嗜む姉はその半面、腐女子でもあった。忌避感を覚えることはないとだろうとは思うものの、流石にその当事者が弟であるとなると思うところが出来るのではなかろうか。だから俺は、この現実をソフトな表現で伝えられる言葉を探した。
「姉さん、俺に『感動巨編』だって言って、読ませてきた同人誌があったの覚えてる?」
「やっぱり! なら、この世界は『秘密の花園』の世界なのね!」
姉は俺のその一言で全ての事情を察したようだ。恐らく、姉なりに色々と推理していたに違いない。さらりと俺が思い出せずにいた同人誌のタイトルを口にしてみせると、「今までの努力は何だったのよぅ」と、姉なりに苦労と努力をしてきたことが知れる台詞を吐く。
「姉さんはいいじゃないか。いいイベント満載で。俺は戦々恐々としてたよ。断罪イベント絶対回避しなきゃって」
「そうは言ってもねえ。私だって恋愛イベントは避けたかったのよ」
「えー、いいじゃん。ハイスぺ男子たちとの華やかな恋模様。姉さん、全ルート攻略するって凄い周回プレイしてたでしょ」
「ああいうのはゲームだから楽しいのよ。現実にあんなハイスぺと付き合うなんてことになったら大変よ。瑞樹はいいわよ。お坊ちゃんの城石望海なんだから。でも私はどう? 前世は言うに及ばす、今世も庶民。生活レベルどころか、そもそもの常識が違うのよ。そんな人たちとは付き合えないわ」
どうやら姉は、あれだけ『エンジェルスフィア』に熱中していた割には、攻略キャラたちとのルートに入るのは嫌だったらしい。きっぱりと言い切ると、「ああ、良かった。この世界が原作の世界じゃなくて」と、他の攻略キャラたちが聞いたら愕然とするような言葉を口にする。
「それでイベント回避しようとしてたの?」
「そうよ。だから、神代学園に来ないように頑張ってたのに」
「そこから?」
「当たり前でしょ。イベントを起こさない為には、入学しないのが一番。なのに有栖のスペックが高過ぎて、落ちこぼれ作戦は失敗するし、なら上位校を目指してやるかと思ったら、理事長が家にやってくるしで」
「理事長が家に来たの? それは初耳だ」
十年ぶりの特待生として神代学園に入学した以上、園崎有栖にはそれなりの経緯があったのは間違いない。だが、俺はその『設定』を全く知らなかった。学園の噂話としても耳にしたことがない。まあ、これは、俺が園崎有栖を避けていたからというのもあるのだろうけれども、ゲーム『エンジェルスフィア』になかったイベントは、俺にそれが物語の強制力であるのではないかという疑惑を生じさせた。
そう、俺の中にある眞との性行為の印象と現実に起こったイベントの齟齬。消えた過激な性描写はどこに行ったのか。ひとつの結末に向かって物語が進んでいるだとしたら、俺と姉は勿論のこと、そこに関係してくるキャラクターたちも、その未知なる力に巻き込まれ続けることになるだろう。それは俺たちの意志や行動が、何ら未来に影響を及ぼさないということだ。どうしてその現実が恐ろしくない筈があるものか。
それとも、同人誌『秘密の花園』における園崎有栖は、そういった経緯で神代学園に来た少女として描かれているのだろうか。同人誌の内容を思い出せない俺としては、どちらであるのかがまるでわからない。そう俺が言うと、姉は「公式設定集の理事長の項目にそれっぽいことは書かれてはいるのよ。『園崎有栖を学園に入学させた張本人』って」と前置きした上で、こう言葉を継いだ。
「私、県央の大井川女子高等学校を狙ってたのよ。女子高のトップ校を狙っているってなったら、流石に神代学園とはレベルが違うでしょ。理事長も出て来られないんじゃないかと思って。で、一学期の判定も良かったし、絶対受かれるって受験に向けて意気込んでたら、夏が終わった頃に理事長が家に来て、是非神代学園に入学して欲しいって言うじゃない。しかも授業料免除どころか、制服代などの入学にかかる費用も全額負担しますって言い出したものだから、親はもう大喜びで……」
姉の話を総合するとこういうことらしい。
姉が自我を取り戻したのは俺よりも遥かに早く、小学校入学直後。海で溺れかけたのが原因で、前世の記憶を思い出したのだという。
特徴的な名前の少女に生まれ変わったことで、ここがゲーム『エンジェルスフィア』の過去であることに直ぐ気付いた姉は、恋愛一色の高校生生活なんぞ送ってなるものかと、有栖のステータスを神代学園基準より落とすことに力を注ぐことにしたそうだ。
勉強も運動もさぼりにさぼった小学生時代。「馬鹿みたいに毎日遊びまくったわ」とは姉の弁だ。
ところが有栖の素のステータスの高さは、姉のマイナス方向への努力を容易く裏切った。問題を見るだけでわかってしまう答え。何と言っても、姉は三十歳のキャリア構築中の会社員である。小、中学校ぐらいの勉強は学ばなくともお手の物。だったらわざと答えを間違えればいい。答えがわかってしまうことを武器に、姉は自分の成績を平均値以下に落とそうと目論んだ。ところが困ったことに、見えた答えと異なる答えを書こうとすると、中にいる有栖の抵抗だろう。意識が落ちるようになったのだという。
無論、テストの点数は毎回満点。
怖くなった姉は有栖との共存を考えるようになった。有栖のステータスの良さを活かしつつ、自分が望む未来に進むにはどうしたらいいのか。そのひとつの答えが大井川女子高等学校だった。神代学園よりも上位ランクの学校を目指しているとくれば、さしもの理事長も容易には手出しを出来まい。しかも、女子高である。男子との接触が減る=恋愛イベントからも逃げられるとくれば言うことなしだ。
幼少期から可愛さが際立っていた有栖は、異性絡みのトラブルが多かったらしい。愛情表現の下手な男子に絡まれることは勿論、不埒な考えを持つ男性に付き纏われることもあったのだとか。だからだろう、有栖も姉のこの発想を面白く感じてくれていたようで、中学校に上がった姉が真面目に学校生活に励むようになると、姉の意識を落とすことはしなくなったのだそうだ。
ところがそうした苦労は理事長の登場で無に帰す。
一般家庭である園崎家からすれば、上流家庭の子息子女が通う神代学園は、特殊なカリキュラムも手伝って、将来のキャリア形成に有利に働くと認識されていた。とはいえ、煌びやかな学園だけにかかる費用は半端ではない。制服ひとつとってもブランド志向で、そこいらの公立高校の五倍ぐらいの値段がする。そこに授業料だけでなく、かかる費用の全てを免除された状態で通えるのだ。園崎家の両親が喜ぶのも納得である。
かくて退路を塞がれた姉は、本人の意志とは裏腹に神代学園にやってくることになった。
ところが待てど暮らせど、本人が絶対にフラグを立ててなるものかと意気込んでいたイベントが起こらない。これはおかしいと思っていたところに夏の事件である。他にも共通イベントがある筈なのに、何故これだけ発生したのか。大いに訝しんだ姉は、黒幕として名が挙がった『エンジェルスフィア』の問題児、城石望海の調査を行った。その結果、城石望海の境遇に、自分が知っている『設定』の他に、どこかで見た覚えのある『独自解釈設定』が加わっていることに気付いたのだ。
「じゃあ、姉さんは俺と出会った時点で、ここが『秘密の花園』の世界だって気付いていたってこと?」
「そうなんじゃないかとは思ってたけど、確証を得るまでではなかったのよね。『秘密の花園』って、『エンジェルスフィア』の腐向け同人誌の中ではエポックメイキングな作品で、ここから他のサークルに派生していった設定が結構あるのよ。望海をハーレムの中心にするような文化が出来たのも、この同人誌以降だったし。だからそういった作品の中のひとつなんだろうなとは思ったのよね。ただ、理事長の扱いが『秘密の花園』は独特だったから……」
「そうだよ、それ。俺聞きたかったんだけど、理事長は何なの? 何か理由がなきゃ、姉さんのことあそこまで囲ったりしないと思うんだけど」
思いがけず理事長問題に及んだ話に、俺はスマートフォンを片手に身を乗り出した。
相馬の調査力をもってしても未だ解けていない謎。他の生徒を蔑ろにしてでも、園崎有栖を庇い見守る理事長の思惑は何処にあるのか。その真実を『秘密の花園』を俺に貸した姉はちゃんと『覚えて』いたようだ。
「でしょ。だから私、そのイベントが起きるのを待ってたのよ」
「イベント?」
これがわかれば、俺は少なくとも理事長問題だけは片付けることが出来るのではないか。期待に胸が膨らませながら、俺は姉の続く言葉を待った。
「『秘密の花園』の理事長は、園崎有栖の実の父親なのよ」
「えっ、父親っ!?」驚きに目を瞠る。
俺の予想を遥かに上回る展開に、俺は言葉を失った。と、同時に、理事長の園崎有栖に対する執着心にも納得がいった。そりゃあそうだ。姉がイベントが起こるのを待っているということは、園崎有栖自身はこの時点では理事長が自分の実の父親だということを知らないということである。事情はわからないが、名乗りを上げられない父親としては、娘を大事にしたい気持ちが先走ってしまったのだろう。
「物語の終盤近くで相馬様が情報を掴む筈なんだけど、まだそこまで進んでないみたいね」
「うん。理事長が昔文部科学省にいたのと、元文部科学省大臣の井之頭恒造と既知の仲だっていうのはわかってるけど」
「なら、もう少しかもね。とはいえ、私たちがこうしてお互いの存在を認識してしまった以上は、物語通りに話が進むとは限らないけど」
「どうだろ。俺、『秘密の花園』の話をあんまり覚えていないけど、その話の通りには物語が進んでいない感じがあって」
「へえ。それ、聞きたいわ」
俺が違和感について口にすると、姉としては興味を掻き立てられたようだ。思いっきり食いついてくる。俺としても、この違和感については早めに片付けてしまいたいところだが、とはいえ、話があちらこちらに飛んでしまうと、どこまで何が判明したのかがはっきりしなくなってしまう。
「その前に理事長の話を聞かせてよ。実の父親なのはいいけど、どういう経緯で今の状態になったの? 原作ではない設定だよね、それ」
だから俺は姉に尋ねた。
「ああ、そうね。話したいことや聞きたいことがあり過ぎて、どこから話を進めたらいいのかわからなくなっちゃう。折角だし、先ずは理事長の話を片付けちゃいましょう。あなたの言う通り、理事長が園崎有栖の父親だっていうのは『秘密の花園』の独自設定なのよ。原作で非攻略キャラだったことから着想を得たみたい。だから、あなたが知らなくても仕方ないんだけど」
「だよね。原作にあったら、あれだけ姉さんがプレイしてるの見たもん。覚えてると思ったんだよ」
姉の話ではこうだ。
文部科学省に入省した理事長こと、灰夜龍己 はそこでひとりの女性と恋に落ちた。その女性の名は井之頭茉莉 。そう、井之頭恒造のひとり娘である。
ふたりは順調に愛を育んでいたが、職場恋愛ということもあり、同僚や上司といった周囲には関係を秘密にしていた。勿論、当時事務次官であった茉莉の父親である恒造にもだ。その結果、ふたりの愛は思わぬ形で破局してしまう。茉莉が妊娠したのだ。
野心溢れる男だった恒造は、この時点で政界進出を目論んでいたらしく、ひとり娘の茉莉にはそれ相応の相手を望んでいた。つまりは政略結婚だ。
案の定と言うべきか、恒造はふたりの結婚に反対した。それだけではない。もう三か月を過ぎた茉莉のお腹の中の子どもも堕胎 させると言い放ったのだという。それだけは許して欲しいとと懇願する茉莉に、龍己は自分が身を引くべきであるという結論に至った。結婚はしないから、子どもの命だけは助けてくれと恒造に取り引きを持ち掛けたのだ。とはいえ、恒造も自身の将来に関わるスキャンダルの芽だ。産まれた子どもを龍己の手元に残してしまっては、いつ自分の身に不祥事として襲い掛かってくるかもわからない。
――産まれた子は里子に出す。それでも君は子どもの命を助けて欲しいのか。
恒造の妥協案に対して、龍己は悩みに悩んだ。だが、自身も子どもに関わる省庁に務めている立場である。未来ある命を、自分たちの都合で失うようなことがあってはならない。恒造の案を受け入れることにした龍己は、極秘出産となった実子に会うこともないまま茉莉と別れ、嫌な思い出から逃げるように文部科学省を辞職 にした。
「それって『秘密の花園』だけの設定なの?」
「私が知っている限りではそうね。っていうか、こんな設定使えないでしょ。流石にパクりだって騒がれちゃう」
「そっか。そうだよね」俺は首を傾げた。「だけど理事長はどうやって園崎有栖が自分の娘だって知ったんだろう?」
「恒造の奥さんが理事長を不憫がって教えちゃうのよ。園崎家に引き取られたって。とはいえ、理事長もただでは起きないっていうか、有栖の存在を盾に神代学園の設立に恒造を噛ませちゃうんだけど」
「茉莉さんはどうなったの?」
「園崎有栖を産んで直ぐ、当時の総理大臣の公設秘書と結婚したわ。今でも婚姻関係は続いている筈よ」
この日に姉と話が出来たのはここまでだった。
話をしようと思えば出来ないこともなかったのが、積もる話に限りがない上に、聞きたいことや知りたいこと、話したいことが山ほどある。その全てを話し切るのには、一晩では到底足りない。だから二十三時を過ぎたのを区切りに、俺は姉との通話を終えることにした。
「じゃあ、また明日電話するね」
「ええ。明日は瑞樹の話を聞かせて頂戴。物語通りに話が進んでいないってあなたが感じる理由を知りたいわ」
昨日の疲れも残っている俺は、そのままベッドに潜って眠りに就いた。それでも直ぐには寝付けなかった。姉がテストを間違えようとすると出てきた有栖。強制的に意識を落とす能力が、オリジナルのキャラクターたちにあるのだとしたら、俺も望海の意に沿わない行動をしたらそうなる可能性があるということである。
何より、昨日の件だ。
俺が意識を飛ばしている間に、望海が表に出てきたのではないか? 聞くも恥ずかしい話ではあるが、相馬たちにはその点を確認しないとならないだろう。俺は明日すべきことを頭の中でリスト化し、忘れないよう繰り返しながら眠りに落ちた。
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