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第十二章 選択のとき(2)
色付いた庭の木々が窓に彩りを添えている。時々、さわりと肌を撫でる秋の風。柔らかな陽光が差し込むリビングで、俺はひとりで土曜日の寛いだひとときを過ごしていた。
一成は今日は和香子さんと一緒にお菓子作りをするとかで、朝からかれこれ三時間ほどキッチンに籠っている。何を作るつもりであるのかは「出来上がってからのお楽しみです」と、教えてもらえなかったのだが、キッチンから漂ってくるバターのいい匂いからして、洋菓子であるのは間違いなさそうだ。
バターの匂いを鼻一杯に嗅ぎながら、俺は物思いに耽った。
明日、もしかすると世界は崩壊するかも知れない。
その覚悟を決めていても――いや、決めているからこそ、ゆったりとした時間を過ごせる最後の日がこれでいいのだろうか? という疑問が浮かんでくる。
父親は取引先の人間とゴルフ、母親はテレビ番組の収録で家にいない。
不在がちな両親とは、今週も短い時間しか顔を合わせられなかった。どれだけ遅くなったとしても必ず帰宅する父親とは夜更かしをすれば話が出来たが、分刻みのスケジュールに追われている母親は、俺が学園に居る間に帰宅して、支度を済ませて仕事に出ていくことも珍しくない。仕事=お金を稼ぐ手段という認識しかない俺はそうした今世の両親の仕事に精力的な姿勢を素直に凄いと感じているが、温かい家庭の記憶に乏しい望海は寂しく感じているようだ。時折、吹き抜ける寂寥の風。明日のことを考えると、せめて今日ぐらいは家族団欒をさせてやりたかったなと思う。
姉の中にいる園崎有栖と異なり、俺の意識を飛ばすことの出来ない望海は、俺と姉の決断を受け入れざるを得ないのだ。
俺が姉と夜に電話をするようになってから、望海はずうっとナーバスだ。べったりとこびりついたタールのように拭い去れない感情が、俺の心に纏わり付いている。それは恐らく、不安と困惑だ。当たり前だ。自分が物語世界の住人であると知って、その予定調和内で生きていると知って、気分がいい人間はそういない。少なくとも俺はそうだ。相馬たちに好意はあるが、自分の歩んできた道が、結局は『秘密の花園』の筋書き通りだったことについては物思うところがある。
だから望海は悩んでいる。自分という存在に、恐らく。
望海は俺と姉の決断をどう感じているのだろう? 世界が終わるかも知れなければ、大きく動くかも知れない決断は、まさしく一世一代の賭けだ。もしかすると、今の望海は、世界が終わるくらいだったら、予定調和の世界で生きていた方がいいと思っているかも知れない。
ごめんな。俺は望海に届いているかもわからない言葉を胸に刻んだ。俺が望海の感情しか感じ取れないように、望海も俺の感情しか感じ取れない可能性もある。それでも俺は、自分の中にいる城石望海に対してこう語りかけてやることしか出来なかった。ごめんな。
姉は今頃、園崎家の家族と水入らずの時間を過ごしている筈である。「最後の一日になるのかも知れないのだもの。有栖の為に、家族と過ごすわ」そう言っていた姉。その一日が、これからも繰り返されることを俺は願っている。
姉の行動を邪魔しなかった園崎有栖は、恐らくは姉の決断を受け入れたのだろう。「何だか清々しい気分でいるようなのよね」とは姉の弁だ。望海とは反応が異なる辺り、園崎有栖という少女は姉と同じように芯の強い――そして自立心の強い少女であるようだ。
だから、俺は申し訳ない気分になった。もしこの賭けが失敗して、この世界が壊れてしまったら。
その責任を俺と姉は負えないのだ。
何が出来るだろう。俺は予定調和な日々の最後の一日をどう過ごすか。今更ながらに考えた。三時間以上もキッチンに籠っているぐらいだ。一成のお菓子作りは相当凝ったものが出てくるか、種類を多くしているかのいずれかだろう。だったらいっそ皆を呼んで、お茶会にしてしまうというのはどうだろう? 俺は自分の思い付きに手を打った。そうしてすぐさまキッチンに向かった。
「ねえ、一成。一成のお菓子をお茶請けに、皆でお茶会をしてもいい?」
「勿論ですよ、望海様。正直、自分でも作り過ぎてしまったと思っていたところでしたので」
一成の許可を得た俺は、早速全員に連絡を取った。
一臣に、相馬。そして眞に真優。仕事の付き合いがあるらしい相馬と、弓道をしている一臣のふたりは参加が遅くなってしまうが、眞と真優は直ぐにこちらに来てくれるようだ。特に眞は、俺の自宅に初めて上がることになるからだろう。聞いているこちらが恥ずかしくなるくらいに浮かれた調子の声を出していた。
良かった。全員に連絡を取り終えた俺は安堵した。
家族団欒の時間は望海にプレゼント出来なかったが、望海が愛した人間たちに囲まれる時間はプレゼントしてやれる。
それが嬉しかったのだろう。俺の中にあった望海の不安が和らぐ。
ああ、もっと前から、こうやって望海の心の声を聞いてやれば良かったな。今更に浮かんできた望海への優しい気持ちに、俺は少しだけ侘しさを感じながらも、これから来る眞と真優の為のお茶の準備を始める為にキッチンに入った。
お茶会は和やかに進んだ。
一成が焼いたアップルパイとチョコレートケーキ、三種類のクッキーをお茶請けに、他愛ない話を繰り広げる。全員が顔を揃えたのは、午後の四時。流石に和香子さんがいるので、相馬のマンションに居るときのようにはいかず、少し距離のある雰囲気のお茶会にはなったが、当たり前の幸福の有難みを噛み締められるいい時間になった。
今日の泊まりの当番である一臣を残して全員が帰宅したのは午後七時だった。別れ際、相馬に明日少しだけ俺が皆に話をする時間が欲しいと伝えておく。相馬はそれを園崎有栖との一件だと思ったようだ。「わかったよ」と、短く頷いて去っていった。
四人も一度にいなくなると、かなり家の中が静かに感じられる。
「静かになったね。寂しいな」
「寂しがり屋ですね、望海様は。私がおりますというのに」
一臣とふたりの食卓。夕食と風呂を済ませた俺は、リビングで父親の帰宅を待った。
父親の帰宅は九時を回ってからだった。早速、一成のお菓子を振舞う。父親は和香子さんから俺が最近デートに忙しいことを聞いていたようだ。「生涯の友を得る為にも、友人付き合いは積極的にするんだな」と、ケーキを頬張りながら、俺の行動を歓迎しているような言葉を吐いた。
「学校はどうだ」
「楽しいよ。毎日、賑やかで」
俺は学園生活がどれだけ楽しいかを父親に語って聞かせた。相馬たちのことは勿論、優しくて気のいい同級生たちのことも話した。俺とあまりそういった話をする時間がなかったからだろう。父親は目を細めて俺の話を聞いてくれた。
「そういえば、望海。例の件だが」
「例の件?」
「大原とか言ったか。その子たちの件だ」
「ああ」
楽しい話で終わりにしたかったが、進捗があったようだ。ついに民事裁判が始まったとのこと。向こうは徹底抗戦する気でいるらしく、それなりに腕の立つ弁護士を立ててきたらしい。「長くなりそうだよ」うんざりとした様子の父親に、「頼りにしてるよ、父さん」励ましになればと声を掛けて、親子水入らずの時間を終える。
少し前に父親から聞いた話だが、大原の父親は大手の広告代理店勤務らしい。それも、青菱財閥が広告展開を任せるほどの。
相馬の前での俺は知らない振りをしているが、そこの広告代理店から、相馬は自分が経営に参画している企業分の広告を引き上げたようだ。情報源は一成と一臣だ。自分たちの父親たちが話をしているのを聞いてしまったのだそうだ。
相馬の担当は大原の父親ではないらしいのだが、きちんとその辺りの事情を話した上で引き上げたというのであるから悪辣である。お陰で大原の父親は左遷の憂き目に合ってしまった。それでは俺たち相手に引けなくなるのも仕方がない。
大原も可哀想な奴である。
悪役としてこの物語世界に生まれた大原は、他の生き方を知らないだけなのだ。だから俺は大原にチャンスを与えた。俺を殴って終わりにしてくれればそれでいいと。だが、今となってはどうしようもない。俺の父親はとことん大原家と戦う腹積もりでいるのだから。
果たして、彼が更生する未来はあるのだろうか。姉に聞くのを忘れていた大原の未来。それが出来れば真っ当なものであることを願いながら、俺はリビングを後にした。そしてキッチンで片付けものをしている和香子さんに、母親の帰りがいつになるかを尋ねた。
和香子さんが答えて曰く、運が良ければ明日の朝に会えるかも知れないとのこと。望海は残念そうだったが、こればかりは仕方がない。俺は自室に戻ってベッドに潜った。明日は運命の日だ。どうか全てが丸く収まりますように。俺は祈りながら眠りに就いた。
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