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第3話

「また来る。そいつは自分で抜け」 洗面所で手を洗い終わった後、藤城はそれだけ言って出て行った。寝室には、帰り際に奴が吸っていたタバコの匂いが、まだ残っている。 宇佐美は、自由になった両手で自分のものをを触ろうとしたが、自然に静まるのを待つことにした。それが今できる、宇佐美の精一杯の抵抗だと思ったからだ。 触っておいて、最後は自分で抜け、なんて、そんなこと誰がするか。 今夜の出来事は、藤城が強引にした事であって、宇佐美にその気はないし、被害者だ。やるならば、最後まで受け身の状態で終わりたかった。記憶の中に、自分が果てたのは、途中まで触れられて、その残った熱で、1人寂しく果てた。ではなく、屈強なヤクザに無理やり触られたが、最後まで果てることはなかった。と残された方が、男の自分にとっての、せめてもの救いじゃないか、と思うのだ。 暫くの間、煙草を吸いながら、落ち着いた時間を過ごしたが、酒が飲みたくなって、何故か中島の顔が脳裏に浮かんだ。 バイトがこんな目に遭ったのだから、もしかしたら、中島先輩はもっと酷い目に遭わされているのではないか? 心配になって、急いで中島に電話をかける。シーツがくしゃくしゃになった寝室で、中島と話すのは気が引けたが、一刻も早く彼の安否が知りたかった。まだ夜の10時だから、バーにいると予想して、店に連絡してみる。 『………………お電話ありがとうございます。こちら歌舞伎町一番街、bar KARAでございます』 安堵の溜息が出る。聞き慣れた、低く、優しい声に安心し、強張ったままの身体が脱力し始めた。 「もしもし、俺です。響です」 『ああ、どうした?』 「あの……実はさっきまで藤城さんが来てて」 『は? どこに?』 「俺の家です」 中島が相当驚いていることに宇佐美は気が付いた。 『何かされたか? 大丈夫か?』 宇佐美はさっきまでの事を思い出し、自分の顔が急に熱くなっているのに嫌気が指した。 「いえ、特には。たまたま会ったので、俺の家でお茶を飲んで帰りました」 『はー、ヒヤヒヤさせてくれるな』 「あの、先輩も気を付けてください。もう遅いですし、なんなら、これから手伝いに行きます」 『いいよ、今日は客足が少ないから、俺1人で十分だ、ありがとな。じゃあ、もう切るよ』 ーープッ 直ぐに電話は切れた。客足が少ないといっても、仕事中の電話は短い方がいい。そんな事は分かっている。しかし、今の宇佐美はなぜか失恋でもしたかの様な気分になった。もっと話したかった。 本当は、お茶を飲んだだけなんて、嘘なんです。 宇佐美は嘘をついた事を今更後悔した。先輩の安否を確認したかったのと同時に、自分に起こった出来事を、中島に聞いて欲しかった。心配して、気にかけて欲しかった。近所の生活音や、話し声。外で仲間たちと戯れる若者の声が耳に入り、その気持ちはより一層強くなった。 情けなくなって、ベッドで身を丸め、まるで、お化けを怖がる女の子の様に、宇佐美はそのまま深い眠りについた。 次に宇佐美が目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。土・日は休日だから、ゆっくり出来る。 でもちょっと長く寝すぎたな。 寝癖のついた頭をかきながら、浴室へ向かう。 浴室の鏡を見て、現実を思い出した。手首には、昨夜、藤城に掴まれた赤い跡が残っており、泣いたせいで目は腫れている。酷い顔だ。 あの男、いい事教えてやる。とか言っておきながら、結局質問ばかりで、肝心のことは一切話さずに帰ってしまった。自分勝手な奴だとは思うが、お陰で、連中には金以外の目的がある、という事が分かった。もし、金だけならば、ショバ代の金額まできっちり要求してきたはずだ。何度も店の事や、中島について質問してきたのは、自分たちの目的が、あの店にあるのか、明確にしておきたかったからだろう。だが、そんな事、宇佐美は知らない。 墓穴を掘ったな。 宇佐美は鼻で笑った、案外間抜けな奴だと。だが、この事を知ったところで、自分がどう行動すべきなのかは、分からなかった。それは、藤城が言っていた言葉が気掛かりだったからだ。 『お前は、KARAと中島 京介のこと、どこまで分かってるんだ?』 店を手伝い始めて三年経つが、今まであの店に特別何かあると思ったことはない。しかし、藤城は、あんな状況で嘘をつく様な胡散臭い男には見えなかった。 宇佐美は色々考えたが、結局、中島を信じ、藤城が言っていたことは、自分の中に留めておくことに決めた。もしも、店に何かあるのだとしても、宇佐美には聞かされていないし、そう判断したのは、きっと中島だ。だとしたら、もう詮索する必要はない。そう思った。 そして、これはチャンスだとも思った。きっと中島は、宇佐美が店の隠し事について知らないと思っている。もし隠し事が無かったとしても、それはそれで、藤城組がショバ代を取りに来なくなるだけだ。 逆に、隠し事があるならば、藤城組の目的が達成されない様、尽力するまでだ。 隠し事が何なのかは少し気になるが、中島が話したくない様な内容なのかもしれないと思い、踏み入れるのはやめよう、と自分で判断した。長い付き合いだが、お互いのプライベート明かしたり、仲の良い友人の様に、休日、予定を合わせて出掛けたこともない。これくらいの距離感が丁度いい。 どちらにせよ、宇佐美がこのまま、KARAで働くことに変わりはない。 きっと、世間は宇佐美の様な人を偽善者と呼ぶのだろう。藤城も同じ様な事を言っていた。自分の考えが甘いのも、現実を受け止めきれていないことも十分分かっているつもりだ。実際、藤城に襲われかけた時にそう思った。自分は注意深い人間ではない。 でも、違う。宇佐美は、自分はもっと重要な事のために動いていると思った。それが何なのかは、考えてみても分からなかった。 「この間は大丈夫だったのか?」 「はい、大丈夫です。心配かけてすみません」 普段は微笑んだりしないが、こういう時は笑ってみせる。 「やっぱり、お前には申し訳ないよ。怖い思いしてまで、ここで働かせるなんて」 中島は、宇佐美と藤城が接触した事に対して、責任を感じている様だ。 店の客足は日に日に遠のいていく。いつもの常連たちも今夜はいない。毎日ではないが、結構な頻度で藤城組は店に顔を出す様になっていた。当然、他の客は怖がって来なくなる。 「後片付けは俺がやっとくから、お前はもう上がれ。お疲れさん」 「ありがとうございます。すみません。では、お言葉に甘えて」 宇佐美は、中島に一礼して、バーを後にした。 今までの客は静かで、酒が似合う大人が多かった。別に酒が特別強いという意味ではない。だらしなく潰れない程度で、味を楽しんでいる男女だ。しかし、今は、わざとカウンターで大きな音を立てたり、ベロベロに酔いつぶれる者が多い。奴らは客ではない。だが、仕事は仕事だ。例え相手がヤクザであっても、酒を提供するのがバーテンダーだ。 ストレスのせいで、煙草吸う頻度が多くなった宇佐美は、KARAを出て、新宿駅に向かう途中、映画に出てきそうな小汚いビルにもたれかかり、煙草をくわえた。そして、ポケットからZIPPOのオイルライターを取り出す。火を点けようと蓋を開き、キーンという気持ちのいい音を立てて、口元に火を近付けた時、宇佐美から見て、ライターの炎の背後が真っ黒になった。 「待ち伏せしてたんですか?」 「ああ、真正面から行ったら、怖がって逃げると思ってな」 目の前に現れたのは、烏の様に黒いスーツに身を包んだ藤城だった。待ち伏せ、と言っても、探偵の様に物陰に隠れていたわけではなく、KARAの近くにセンチュリーを止めて、車内でくつろいでいた様だ。運転席には、藤城の舎弟と思われる男がいて、こちらを見ている。バーへの移動のために、高級車を使うなんて、と宇佐美は呆れた。 「逃げませんよ」 本気でそうは思っていないが、この間の事もあり、少し生意気な返事をしてしまった。 あんな事をしておいて、よく堂々と顔を合わせられるものだ。 今日は何の用なのか、明日はピアノ教室に行かなければならないから、もし脅しなら、どこかへ連れて行かれるより、この場で済ませてほしいと思い、少し不安そうな顔でチラっと腕時計を見た。我ながら、慣れとは恐ろしいものだと思う。前までは、疑心暗鬼になってしまって、高身長の男を視界の端に見つけると、藤城ではないか、と身構える程だったが、今はこの男を、ただの迷惑野郎としか思わなくなっている。 「いい心構えだな。これから人に会う約束がある。お前も来い」 くわえていた煙草を藤城に取られ、地面に踏み付けられた。 突然の誘いに目を丸くする宇佐美だが、誘いの意味を履き違えてはならない。人質にするつもりなのか、それとも、また質問されるのか。もしかしたら、今度は本当に暴力を振るわれるかもしれない。ナイフなんて物騒な物を持っている可能性だってある。しかも今日は二対一だ。何をするにしても敵わないだろう。 「い、嫌です。俺はあなたたちの仲間じゃないです」 「お前の意志は聞いてない。さっさと乗れ」 そう言うと、藤城は宇佐美の腕を掴んだ。宇佐美は瞬時に腕に力を入れ、拒む体制に入ったが、それに気が付いた藤城は、わざと宇佐美を掴んだ手にぐっと力を入れた。 「……っく……は、離してください」 宇佐美の痛がる顔に、満足気な笑みを浮かべ、そのまま引きずる様に宇佐美を後部座席に押し込んだ。そして自分も乗り込み、優雅に長い脚を組んだ。 「出せ」 「はい」 しまった。と思うには遅すぎた。こんなに簡単に成人男性を車に乗せて連れ去るなんて、思いもしなかった。実際、宇佐美の抵抗が甘かったのかだろうが、いざとなると、頭が熱く、真っ白になり、どうも体が上手く動かなくなってしまう。それは、腕を掴む力の強さに怯んだのではなく、その力の中に、ヤクザとしての藤城の顔が垣間見えたからだ。その時に、自分はまだこの男のことをKARAに訪れるヤクザという方向からしか見たことがないと思ったのだ。こいつは街中でしゃがんで、愚痴をこぼしているチンピラ共とは違う。ヤクザなのだ、と単純に宇佐美の中にグッと腕の痛みと共に身体に染みてきたのだ。 センチュリーなんて車に当然乗ったことのない宇佐美は、警戒されない程度で、車内を見渡した。自分の視界には、筋肉質だが、ごりごりのマッチョではない、程よい身体の男が一番大きく映り込んで来る。こういう男だから、この車に乗れるのだろう、そう思った。乗れる、というのは、金額のことではない。高質な物で作られているであろう内装に浮くことなく馴染めているということだ。それとは逆に、宇佐美は完全に浮いている。家にあるどの服を選んだとしても、この車には乗れないだろう。 藤城は脚と腕を組み、目を閉じている。寝ているのか、しかし、この男が油断している姿など想像がつかない。目を瞑っていても、安心することのできない人間なんているのか、心の中で宇佐美は苦笑した。こんな状況で余裕の感情だと思うが、正直、この苦笑には、諦めの感情も混じっていた。 もう煮るなり焼くなり好きにしろ。どうせただでは帰してくれない。 「叔父貴に会うのは久しぶりですね」 運転席から声がした。落ち着いていて、頭の良さそうな印象の男は、宇佐美よりも年下に見える。 「そうだな」 会話はそれっきりだったが、運転している男は、この沈黙をどうにかしようと会話を切り出したのだということは分かった。藤城の返事で話は途絶えてしまったが、藤城の周りにも、人間らしい人がいるのか、と少し安心した気分になった。 目的地には、意外と早く着いた。 「到着しました」 運転席の男が先に車から降りると、後部座席のドアを外から開けた。藤城が降りた後、続いて宇佐美も降りる。すうっと冷たい空気が体に入ってくる。 着いたのは港区の静かな料亭だった。屋根が瓦で、昔ながらの日本らしい店だ。美麗な外装は自然と背筋を伸ばさせられる。 「奥でお待ちの様です」 「ああ、行こう」 二人は宇佐美に見向きもせず、すたすたと歩き始めた。 このまま逃げられるんじゃないか? そう思ったが、直ぐにやめた。辺りは暗く、場所も分からない。港区だと分かったのは、車窓から案内標識が見えたからだ。しかし、それ以外の情報はない。わざわざ車で移動したのには、宇佐美が簡単に逃げられない様にするためでもあるのかもしれない。 「早く来い」 藤城に呼ばれ、顔を上げる。 これから誰と会うのだろう?まさから組長さん……とかじゃ、ないよな? 嫌な予想を思い浮かべながら、二人の後を追い、宇佐美は料亭に入った。

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