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第3話

「ん……」 うっすらと瞼を持ち上げると、覗き込む顔が影を落としていた。後頭部から伝わってくるのは植物園の固い床ではなく、少し弾力性のあるもの。いつの間にか天城の膝枕で寝ていたらしい。 黒い瞳と目が合うと、その目が優しく細まった。 「体調、大丈夫?」 「うん」 上半身を起こすとまだ少し頭がふわふわとしていたが、立てないというほどでもなさそうだ。 肩から滑り落ちたものが太ももに触れた。ふわりと甘い洗剤のような香りがする。 ブレザーだ。天城をちらりと見ると、白いワイシャツ一枚になっている。 「これ、ありがとう」 「ん」 受け取った天城が袖を通しながら、思い出したように切り出した。 「そういえば、父さんが会いたいって。今日ウチ来れる?」 「あぁ……うん、大丈夫。どれくらいかかりそう?」 「うーん、どうだろう。至急って感じの雰囲気だったけど」 「そっか。じゃあ、外出届け出しとくよ」 「ごめんね、父さんが急に……」 両手を合わせ眉を下げる天城に、僕は小さく横に首を振った。 「気にしないで。天城氏にはお世話になってるんだから」 肩をすくめながら言ったものの、天城はまだ納得していない様子だった。 「父さんのことは尊敬してるけど、彗月(はづき)に対しての態度は、昔から気に食わないんだよな」 「あはは。でも僕は感謝してるよ。血の繋がりもないのに、ここまで育ててもらって、学費まで出してもらってる。頭が上がらないよ」 「そうなのかもしれないけど……」 なおも食い下がってこようとする言葉を遮るように、両手をパンと合わせた。 「はい、この話はもう終わり。そろそろ下りないと授業に遅れちゃうよ。僕、先行くね」 立ち上がった瞬間、少し体がフラついた。だが天城に気づかれないよう足を踏ん張って耐えた。眩暈が去るのを待ってから、階段に足をかける。 こうやって時差で階段を下りるのも、ほかの人たちに僕たちの関係がバレないようにするためだ。 「彗月(はづき)!」 五段ほど下りたところで、名前を呼ばれた。振り向くと、 「あとで、ね」 天城が階段の上から大きく手を振っていた。いつもなら「また明日」となるのが、今日は「あとで」だった。 まるでこの後会えるのが待ちきれない、とでもいうような屈託のない笑顔に、僕はわずかに視線を外した。 「……うん、あとで」 軽く右手を挙げて応え、急いで階段を駆け下りた。 * 「王」字型の荘厳な校舎、聖アルカナ大図書館、そして、誰にも気づかれないような奥にのっそりと生徒と職員のための寄宿舎が建っている。 様々な理由から、寮住まいを希望する生徒が約百二十人ほどおり、僕も入学当初は天城家から通う予定だったが、無理を言って個室をもらった。 「はい、外出届け受理っと。で、また天城家に行くの?」 寮の管理をしている金塚さんが紙を返しながら尋ねてきた。僕と天城の関係を知っている数少ない一人だ。 「はい。まぁ、色々とありまして」 「ふーん。天城のお父さんの会社、黒い噂あるけど実際どうなの?」 金塚さんはゴシップや噂話に目がない。恋愛話から世間話まで、情報屋レベルで何でも知っている。食いついてきた目には好奇心がありありと浮かんでいて、うっかり口を滑らせれば、明日には学園中に広まっているだろう。 「僕の知ってる範囲では、言うほど黒くないですよ」 この場から離れるべく、受け取った紙をすぐにバッグに仕舞い込むと、逃げるように会釈する。 「それじゃ、失礼します」 「うーん、怪しいなぁ……」 訝しげな視線を背後に感じながら、早足にその場を後にした。 外は日が傾き始め、生徒たちが下校時刻を迎えていた。 そろそろ天城から連絡が来る頃か。 スマホを手に取り画面に目を落とすのと、「天城」の文字が浮かび上がるのとが同時だった。 「もしもし」 『通用門の前で待ってるから、早く来て』 弾んだ声。 すぐ行くと言いかけて、言葉が止まった。 「ちょっと待って。今、通用門で待ってるって言った?」 『うん。それじゃあ待ってるね!』 清々しいほどにあっけらかんとした声の後に、通話の切れた無機質な音が響いた。この後想定される事態に、一気に肩から力が抜け落ちた。 吸血鬼と人間の校舎が分けられているのなら、当たり前のように出入りする門も異なる。一般生は通用門を、吸血鬼は専用門を普段利用している。にもかかわらず、吸血鬼である天城が一般生徒用の通用門の前で待っているということは、予想されることはただ一つ。 頼むから違っていてくれ、と願いながら足を運んだ門の前には、案の定見覚えのある光景が広がっていた。 きゃあああああ! 耳に届いた女子たちの黄色い声に、思わず眉をひそめた。近くにある階段の陰に隠れると、門のほうの様子をうかがう。 人混みの中から頭一つ分高く突き出た天城は、辺りをきょろきょろと見渡しながら立っていた。女子たちが口々に話しかけているのに、天城の視線はそのどれにも留まらない。 小学生の頃もこうだった。あのときは何が起こるかなんて深く考えず、そのまま天城の近くに駆け寄ったのだ。 ────零夜くん、帰ろう。 ────あ! 彗月!! 近づいた瞬間、天城の顔がぱあっと明るくなったのを、今でも鮮明に覚えている。 人混みをかき分けて隣に来た彼は、周りが呆気に取られている間にも、幼い僕の手を引いて送迎車へと連れて行った。 その翌日から、彼のことを聞き出そうとする生徒に囲まれる日々が始まった。 あの日、決めたのだ。 もう二度と天城と知り合いだと気づかれてはいけない、と。 なのに、またこれだ。 ため息以外出るものがなかった。 思考を切り替えるように、辺りを見渡す。こういうときのために抜け道でもあったらいいのだが、この学校はセキュリティが固い。出入口は一つしかない。 「行くしかないか」 腹を括り、スクールバッグを顔の高さまで持ち上げた。向こうから見えないように、顔の右側を覆い隠す。 天城にバレませんように、と祈りながら足を踏み出した。できる限り早足で、天城のほうを見ないように。 そのとき。 「あ……っ!」 「……ッ」 一瞬視線が絡んだ気がしたが、無視だ無視。 気づかれてない、気づかれてない。 自分に言い聞かせながら、歩調をさらに速める。 「はーづーきー!」 名前を呼ぶな!!と心の中で絶叫した。 ここで捕まれば、また同じことの繰り返しだ。天城との関係を聞かれ、どんな人がタイプか、好きなものは、紹介してほしいと根掘り葉掘り聞かれることになる。 そんなのごめんだ。 僕は一目散に駆け出した。 「待って……!」 女子たちを押しのけるようにして、手を伸ばす天城の姿が視界の端に映る。が、四方を囲まれているため、抜け出せないようだ。 その隙に角を曲がった。力なく顔の横で上げたままだったカバンを下ろす。 後ろを振り返るが、天城の姿はない。 まだ女子たちに囲まれているのだろう。 はぁ、と一度ため息をついて、送迎車の停まっている場所を目指して足を踏み出した。 その瞬間、ちょっとした段差につまずき、体が傾いた。 反射的に目をつぶり、痛みに耐えるように身を固くするが、痛みは襲ってこなかった。 代わりに吸血鬼特有の甘い匂いと、その奥にある濃い香水が混ざったような香りがする。 腕を掴む力に引き寄せられ、足が地面に着いた。 目を開けると、目の前には整いすぎた顔があった。制服には不釣り合いなほど大人びた顔立ちで、制服の校章の青は一つ上の二年生を示している。 「大丈夫?」 その人は少し外国訛りの日本語で尋ねてきた。口元には優しそうな笑みが浮かんでいたが、瞳は人を値踏みするような、鋭い視線だった。 「あ、はい……ありがとうございました」 「気を付けてね、この辺危ないから」 それだけ言うと、腕を離したその人は振り返りもせず歩き去っていった。 制服の袖には、香水の匂いがまとわりつくように残っている。 「う……っ」 込み上げる吐き気に、僕は両手で口元を覆った。

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