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No.4 二日目・秘書「甘いパンを頬張る」

「ミカ。お兄さんたちの言うことを良く聞いて、楽しく過ごすのよ。ユニのお世話も、朝顔の水やりもお願いね」 本当は心配で仕方ないだろう気配を隠し、マドカさんはミカにそう告げ、朝早くに屋敷を出発した。 まだ眠そうなミカと、彼女に寄り添う白い犬のユニと、相変わらず休暇中とは思えない堅苦しいシャツとスラックス姿の眼鏡執事と俺の、三人プラス一匹で手を振って見送る。 神戸の自宅から、夏休みの宿題として、水やりをしなくてはいけない朝顔の植木鉢を持ってきたという。 執事とミカで相談をし、日当たりのいいテラスに鉢を置き、早速ジョウロで水をあげていた。 今朝はコバルトブルーの花が7輪も咲いていて、なかなかに見事で夏らしい風情だ。 実は今朝、マドカさんが出掛ける前。 ミカのいない場所で彼女は、俺と執事に不穏なことを告げた。 「大丈夫だとは思うんだけど、念の為あの子の父親に気をつけてほしいの。あの男、ミカを楯に私からお金を脅し取ろうとしたことが今までに何度かあって……」 若くして事業に成功して意気揚々とマドカさんと結婚した元夫は、早々に事業に失敗し、人が変わってしまったのだという。 「みっともなくても必死に頑張りたいっていうなら私も応援したのに。あの男には変なプライドだけが残ってしまった。だから見限ったのよ」 彼女は表情に影を落とし、そう語った。 「あの子の父親は身体が大きくてイケメン・プロレスラーみたいだから、見かけたら分かると思うの。年齢はアナタたちと同じくらいかな。念のため、用心だけはしておいて」 (イケメン・プロレスラーってなんだ?プロレスラーのわりには、シュッとしてるとか、甘い顔つきをしているとか、そういう意味なのか?謎だ) とにかく俺と執事の任務は、より責任重大になったわけだ。 ミカから絶対に目を離さないようにしようと、執事と目を合わせ頷き合った。 — 「ミカ、ユニの散歩がてら、一緒に朝食用のパンを買いに行こう」 俺は彼女を誘い、昨日執事が食べていたクロワッサンを売るパン屋まで歩くことにした。 「秘書のおじさんと二人で?うん。いいよ」 マドカさんに結ってもらった三つ編みの髪を揺らしながら、ミカは慣れた手つきでユニにリードをつける。 彼女の俺たちに対する「おじさん」という認識を変えてもらいたかったが、8歳から見たら、32歳は充分におじさんかもしれない、と飲み込むことにした。 (眼鏡執事は、常に落ち着き払っていて、あの風格は確かにおじさんだしな……) 早朝から営業する地元密着のパン屋は、店の前まで小麦のいい匂いを漂わせている。 店の前の柵にユニのリードを結び、二人で店内へ入った。 「ミカが選んでいいぞ。一人2つだから、ミカと俺と執事で、全部で6つな」 俺がトレーを持ち、彼女はトングを握って、楽しそうにパンを選んでいく。 「えっとね、まずはね、チョココロネでしょ。あと粒あんパン。執事のおじさんにはメロンパンとクリームパン。秘書のおじさんはね……」 ちょっと待って、と止めようかと思った。 あの眼鏡にメロンパンは似合わない。 俺も執事も、甘くないパンがいいんだ。 できたら、クロワッサンが……。 しかし「ミカが選んでいいぞ」と言った手前、彼女を尊重するべきだろうか。 こういうとき、世の父親がどう対応しているのかは分からないが、結局俺は、ミカの前でいい顔がしたかったのだろう。 普段なら効率を重視する俺だったが、彼女が選ぶ甘いパンを、全て受け入れることにした。 — ユニのトイレも済ませ、屋敷へ戻ると、執事が門扉のところで見知らぬ人物二人と立ち話をしていた。 一瞬、マドカさんの話が頭をよぎるが、プロレスラーとは程遠い、50代くらいの女性と、60代くらいの男性でホッと肩の力を抜く。 女性が振り向き、こちらを見た。 「あら、もしかして、ミカちゃん?まぁ、大きくなって!ユニも変わらないわね」 ミカは朧げにしか相手のことが分からないようで、ペコリとだけお辞儀をした。 ただ、ユニは女性が誰か分かるのか、小さく「ワン」と鳴き、フサフサと尻尾を振って見せる。 「こちら、お隣にお住まいの山本さんと、この町の町内会長さんです」 執事が二人のことを俺に紹介してくれた。 「そして、こちらが私と同じく坊ちゃんに仕えている秘書です。私が公私の「私」の部分を補い、彼が「公」の部分を補っております」 執事の説明は的確だ。 「いい人が支えてくれているようだから、ハリーも頑張れるわね」 微笑む山本さんの言葉に照れていると、町内会長さんが用件を話してくれる。 「今ね、執事さんにお話していたのですが、この町内では毎年この時期に夏祭りを行うんです。五日後に開催予定なんだけど、年々人手不足でね。よかったら設営のお手伝いをいただけないかと思って、お願いに上がったのですよ。こちらのおじいさんとおばあさんがご健在の頃は、町内会も随分とサポートしてもらっていてね」 ずっと黙っていたミカの目が、急に輝いた。 「夏祭り!ミカ、お祭り覚えてる。みんなで輪になってぐるぐる踊るんだよ!かき氷食べたりして、すごく楽しかった」 「覚えてくれたのね、ミカちゃん」 山本さんもうれしそうだ。 となると、眼鏡執事も俺も、拒絶はできない。 「えぇ、是非、やらせてください。力仕事も得意なので」 そう言ってしまった俺に、執事がかぶせてくる。 「はい。細かいお仕事でも何でも、お申しつけください」 俺たちの夏季休暇は、どんどんと思わぬ方向へ転がっていく。 — 皆で屋敷の食堂へ戻った。 ミカは二階のトイレに行き、俺はユニに、マドカさんから預かったフードと水を、規定量与える。 「待て。……よし、食べていいぞ」 逃走してこの屋敷にやってきた割には、利口な犬だ。 執事が、ピッチャーにたっぷりと作ったアイスミルクティーを、皆のグラスに注いでくれた。 そして彼はパン屋の紙袋からパンを取り出し、皿に並べようとして手を止める。 「アナタねぇ、これは何かの嫌がらせですか?こんな下品な甘いパンばかり買ってきて。朝からこのようなパンは食べ……」 俺は慌てて手を伸ばし、執事の口を、手のひらで塞ぐ。 (なんて不用心な執事だ!) そこに階段をリズミカルに降りてくる足音が聞こえた。 眼鏡は何かを察したようで、それ以上の発言を飲み込んだ。 「ミカ、パンを皆に配ってくれるか?」 「うんいいよ。えーとね、執事のおじさんにはね、このメロンパンとクリームパンだよ」 「あ、ありがとうございます。とても美味しそうですね」 「でしょ?それから、これが秘書のおじさん」 俺の皿には、耳があって目と口とヒゲが描かれている可愛い猫ちゃんのパンが乗せられた。 猫のアゴに当たる位置からは、ピーナッツクリームがはみ出している。 執事が思わず吹き出しそうになったのが、目の端で分かった。 「これと、苺ドーナツだよ。はいどうぞ」 つぶつぶの何かがトッピングされたドーナツは、なんだかキラキラしていた。 「全部、ミカが選んで、トングで取ってくれたんだぞ」 もう分かっているだろうか、執事にそう告げる。 「ミカ様、流石ですね。一族の血を継いで、センスがよくていらっしゃる」 俺たちは一つの文句も言わずに、甘ったるいパンを食べきった。 ただ、もう二度とミカに自分たちの分を選んでもらうことはしないだろう。 こうして、一つずつレディの扱いを学習していきたい。

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