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No.29 九日目・執事「門扉でお見送り」
ミカ様と入れ替わりで、マドカさんがシャワーを浴びている間、居間のローテーブルは小さな塾と化した。
「まだこんなに残ってたのー」
そう嘆くミカ様の前には、慣用句のプリントと手付かずの計算ドリル、そして絵日記帳が広がっている。
「どれどれ。体の名前が出てくる慣用句問題。『のどから手が出る』を使った例文?『新しいゲームが発売されて、のどから手が出るほど欲しい』」
「……手が、でるほど、ほしい。うん、書けた。次は?」
「えーと『顔から火が出る』の例文は……」
秘書は、またもや簡単に答えを教えようとしている。
「ちょっとアナタ、それではミカ様の勉強になりません。もっと身につくようにお教えすることは、できないのですか?」
「でもミカ、時間がないんだろ?」
「うん。ママがシャワーから出てくるまでに終わらせたい」
私も秘書も天を仰ぐ。
それはどう見ても無理な量だ。
彼はスピーディーに終わらせることを諦め、方針を変える。
「例えばだ。執事のおじさんは、迷子になってしまいました。秘書のおじさんに見つけてもらうために、下手くそだけど大きな声でハリーの歌を歌いました。執事はなんとか秘書に見つけてもらってうれしいけれど、顔が真っ赤だ。さぁ、なんて言う?」
「ど、どういう例えですか!」
「分かった!『恥ずかしくて顔から火が出る』」
「正解!やるなぁミカ」
「そんな例えを持ち出すなんて、信じられません!」
「怒るな、怒るな。ミカ、これは『頭に血が上る』だぞ」
「ゆ、許しません!」
ミカ様は、そんな私たちのやりとりを見て、ケラケラと笑う。
「おじさんたちって、とっても仲良しだねー!」
「違う」
「違います」
私たちは二人して即座に否定する。
(私たちはあくまでライバル。今年の誕生日にこそ坊ちゃんから、お揃いではない私にだけのプレゼントをいただくため、日々張り合う相手なのです)
ガヤガヤと言い合いをしていると、マドカさんがバスルームから出てきてしまった。
「アンタたち、何を揉めてるの?ミカ、まさか宿題が終わってないの?約束が違うじゃない!」
マドカさんの雷が落ち、皆でしゅんと項垂れる。
「しょうがないわねぇ。あと一時間したら出発するから、それまでに絵日記だけ終わらせなさい!」
「はーい」
「はい」
「承知しました」
「ワン」
なぜか三人プラス一匹で返事をした。
—
マドカさんのワンボックスカーへ、ミカ様やユニの荷物を運び込む手伝いをした。
洗濯物の中にミカ様のものが残っていないか確認したり、寝室やバスルームに忘れ物がないか見て回ったり。
私も秘書も、忙しなく動く。
結局、松葉杖は邪魔なばかりで、固定された足を引き摺りながら、歩き回っている。
「ありがとう。これで全部ね。残りはミカとユニと朝顔だわ。私もう一度山本さんに声掛けてくるから、ミカの絵日記が書き終わったか、見てきてくれる?」
秘書と連れ立って居間へ行くと、ちょうどミカ様が色鉛筆を置いたところだった。
「描き終わりましたか?」
彼女はコクリと頷く。
「見せていただいても、よろしいでしょうか?」
「うん。いいよ」
実は私も秘書も少し、怖かった。
ミカ様が描いているのは、昨日の日記だから。
救急車に乗っている絵や、点滴を受けている絵が描かれていたら、なんと申し上げればいいだろう。
しかし、それは杞憂だった。
紫の車、笑顔のムッチらしき人物、そして首の長いキリン。
(よかった。昨日はミカ様にとって、トラウマになるような一日ではなかったということでしょう。ムッチも彼なりに、ミカ様も楽しませてくれたのかもしれません)
「ムッチはね、ミカが点滴してもらってる間に、帰っちゃったんだって。お仕事だから仕方ないよね。楽しかったから、また会いたいなぁ」
秘書も私も上手く言葉が返せない。
「さぁ、ミカ。マドカさんが待ってるぞ。宿題をカバンにしまって、万華鏡も忘れるなよ。アンタ、朝顔を持ってきてくれるか?俺はユニを連れて行く」
門扉では、山本さんと和彦くんが見送りに来てくれていた。
「ミカちゃん、またね!気をつけて帰るのよ」
「来年の夏祭りで、また一緒に踊ろうね」
いつかも着ていた黄色いリボンのワンピースをお召しになったミカ様は、見送りの言葉を聞いて、急に寂しそうな顔になる。
このまま泣き出してしまうのではないかと、私は心配になった。
どうか笑顔のままで、お見送りさせてもらいたい。
「ミカ、これ途中で食べるといい。ユニにはあげちゃダメだぞ」
すかさず秘書がチョコレートを差し出す。
そうすればミカ様の涙はこぼれず、可愛らしいお顔をキープした。
「バイバイ、またねー」
会釈をして、軽くクラクションを鳴らしてくださるマドカさん。
ブンブンと手を振るミカ様。
窓ガラスに顔をつけ、尻尾をバタバタとさせているユニ。
「どうか、お気をつけて」
「安全運転でお帰りください」
車はあっという間に見えなくなった。
山本さんだけが、「ごめんなさい、歳をとると涙もろくて」と目尻を拭っていらした。
—
山本さんと和彦がご自宅に戻ると、秘書が私に「そこで、待っていろ」と言う。
何かと思えば、松葉杖を取りに行ってくれた。
「医者は『無理して歩くな』って言ってただろ?」
「わざわざ……ありがとう、ございます」
彼は松葉杖を差し出すと、私を待つことなく屋敷へと帰っていった。
ゆっくり歩いて玄関ホールから居間へ向かうと、ミカ様もユニもいない空間が、広く感じる。
一足早く戻った秘書は、キッチンで料理を始めていた。
何を作っているかと思ったが、並んでいる材料を見てピンとくる。
「餃子ですか?」
「よく分かったな」
「初日に読んだ坊ちゃんからのお手紙に書いてありましたから。アナタの好物は餃子だって」
秘書は、覚えていたのかとでもいいたげに、目を細めた。
「餃子のタネは作ってから少し寝かせないといけないからな。早く仕込もうと思って」
「では、私は庭の水やりをしてきます」
その言葉に、秘書はチラッと私の松葉杖を見る。
「大丈夫です。ゆっくりやりますから」
「そうか。じゃ任せた」
いつの間にか最小限の会話で、意思の疎通ができるようになってしまっていた。
それに苦笑しながら、私は庭へ出る。
庭は相変わらず蝉が鳴き喚いているのに、どうしてかとても静かに感じた。
—
「酢と胡椒をつけて食べるのが美味いんだよ。アンタも食ってみろよ」
「いいえ。私は酢醤油とラー油でいただきます。……んっ、これは美味しい!」
「だろ。酢と胡椒なら、もっと美味いんだけどな。頑固な執事だせ」
餃子は確かに絶品だったが、二人きりの食卓はなんだか物足りない。
ただ、そのことを互いに口にしたりはしなかった。
(今頃ミカ様たちも、どこかのサービスエリアで夕食を食べている頃かもしれませんね。それにしても事件のあとの長距離運転。マドカさんはタフなお方です)
夕食後、私は居間のソファーで念願の読書をして過ごす。
目の前ではタンクトップの男が、腕立てやら、腹筋やらをしていた。
交代でバスルームを使い、戸締りと火の元を確認して、私たちはどうしてか二階へ上がる。
そうして、キングサイズのベッドの端と端で、夏季休暇最後の眠りについたのだ。
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