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第3話

腕時計を見るとすでに午後5時半を過ぎていた。 モールに出来た新しいコーヒーショップがなかなか美味しくて、ついついおかわりしてしまったせいだ。とりあえず、今週末に麻由子たちが来る時に着る予定の紺のポロシャツと、何冊かの本、今晩のメインの秋鮭と、豆腐、みかんと小松菜を買った。辺りはかなり暗く、車のライトを点ける。 自宅の車庫にバックで駐車していると、ライトに照らされた秋名コーポの玄関前、くすんだ赤茶色の石畳の上に子どもの影が見えた。あの寝癖頭は、今朝会った高山の子だ。一体どうしたのだろう? 「こんばんわ。えーと‥‥」 この子はなんという名前だっただろうか?忘れてしまった。歳のせいとは思いたくないが。少年は此方に気づくとビクリと身体を震わせた。怖がらせない様に、できる限り優しく話しかける。 「どうかしたの?何かあった?」 「‥‥‥おじさんは知らない人?知ってる人?」 少年のつり上がった大きな目には警戒心が透けて見えた。私は軽くショックを受けつつ、なるべく平静を装った。 「ほら、朝、あそこの曲がり角で手を振ってくれただろう?すぐそこの家に住んでるんだよ。お父さんかお母さんはいないのかい?何してるの?」 少年は私を思い出した様で、ほっと胸をなでおろした。 「うん、パパ待ってるの。今日、うちの鍵持ってくるの忘れちゃった」 「お母さんは?」 「いないよ。うちはパパしかいない」 ――父子家庭なのか。 「そうなんだね、パパはいつも遅いのかい?」 「7時くらいには帰ってくるよ」 少年はつまらなそうに地面の石を蹴った。もう辺りもかなり暗くなっているし、こんな子供を1人で外に放っておくわけには行かない。しかし、たいして付き合いもないのに子供を家に入れたりしたら親切心が仇になるかもしれない。秋名コーポの大家は顔見知りだが、確か90近いご婦人のはず。他人の子供を見るのには無理がある。 「ぼうや、ちょっと待っててくれるかい?」 「?うん、良いよ」 私は、裏庭の物置に走っていくと、キャンプ用の折りたたみ椅子を二つ持ってきた。 「これに座ると疲れないよ。ほら」 「うん、おじさん。ありがとう」 にこりと少年は微笑んだ。子供らしい八重歯が見えて、私もつられて微笑んだ。 「お腹減らないかい?喉乾いてる?」 「だいじょうぶ」 「ところで、高山くん、下の名前は?」 「‥‥拓斗。高山拓斗。」 「えっと‥‥拓斗くんは何年生?」 「一年生。」 「ふーん、学校は楽しいかい?」 「まだわかんない」 ――しばしの沈黙。子供というのはみなお喋りなものだと思っていたが、この子はそうではないらしい。子どもの頃の麻由子ぐらいしか比較対象はいないので、これが女の子と男の子の違いというやつだろうか。こういう時、男の子というのはどういう会話をしたら喜ぶのだろう。自分の半世紀前を思い出そうと必死になっている間に、拓斗くんは眠そうにあくびをした。一年生ということはもう3時間程もここで待っているということか。眠くなって当然だ。しかし、 こんなところで寝てしまわれたらそれこそ困る。 「た、拓斗くんは、好きなスポーツとかあるの?」 「別に‥‥。特にないよ」 ――あ、そう‥‥‥。男の子だからといってみんなスポーツに興味があるわけではないよな‥‥。いや、単に眠たくて話す気が無いだけか?拓斗くんは、いよいよもってランドセルを抱えたまま、こっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。おーい、拓斗くーん、と声を掛けると少しだけ目を開けたが、寝てしまうのは時間の問題と思われた。まぁ、その時は直ぐ裏の大家さんのところまで預けに行けば良いか。決まり悪く、頭を掻きながら呟いた。 「うーん、おじさんの家に何か面白いものがあれば良いんだけどね‥‥。うちには本ぐらいしかないし」 「たっくん、本好きだよ。」 重そうにしていた瞼が嘘の様に、黒い目がキラリと光った気がした。自分のことをたっくんと呼ぶのだな。微笑ましいものだ。あの若い父親も、家ではそう呼んでいるかもしれない。腕時計を見ると、まだ6時過ぎだ。高山が帰るのはまだ少し先だろう。 「そうかい?古い本ばかりでつまらないかもしれないよ?それでも良いかい?」 「うん、見たい!」 「じゃあちょっと待ってて」 私は、二階の麻由子の部屋に死蔵しているたくさんの児童書の場所を思い出しつつ、早足で家に向かった。 つづく

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