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第2話 アルタリオンの悲劇
イグナスがアルフレッドと出会ったのは、八歳の頃だった。
だが、その出会いを語る前に、彼がなぜ『人間ではないもの』として生を受けたのか、遡らなければならない。
それはこの国の歴史と深く結びついている。
三百年前、エルヴェラナの地には人間と人狼がともに生きていた。
南に人間、北に人狼。住む場所は違えど、二つの種族は上手く共存していた。
特に、南北の境界に築かれた都市『アルタリオン』では、両者が共に暮らしており、その姿は理想郷とも呼ばれた。
人狼といえど、普段は人間と大差ない。
見た目も、言葉も、食べ物も。すべて人間と同じだ。
ただ、違いがあるとすれば、その類まれなる身体能力と、満月の夜に狼へと姿を変えること。
人狼に変身した姿は、人間の目にはそれはそれは恐ろしく映った。
大きな体に、牙と爪、夜に光る瞳。その姿はまさに獣そのものだ。
けれど、共に生きていく中で、人間は知っていった。
彼らは姿形が変わるだけで、満月の夜でも理性を失うことはなく、人を襲うこともないことを。
中には、「人狼はいずれ牙を剥く」と唱える者もいたが、人狼はそれを否定した。「自分たちもまた、人という種族の一員だ。同じ人を食べるはずがない」と。
実際、人狼が人を襲ったことは一度もなかった。
あの日までは――。
あの夏の日。理想郷アルタリオンは一夜にして瞬く間に、戦火の炎に包まれた。
きっかけは、一匹の人狼が人間を殺して食べているところを目撃されたことだった。
人間は恐怖に駆られた。次は自分が食われるのかもしれない――。
そして、人狼狩りが始まった。昨日まで笑い合った友を、人々は獣と呼んで殺した。
長い戦いの末、勝利したのは人間だった。
戦争を指揮した英雄、グレゴイル=ヴァルフィリアは後にエルヴェラナ王国を建国し、初代王として君臨した。
エルヴェラナの歴史上、語らずには通れないその戦いを、実際に知るものはもういない。
けれどそれは今もなお、親から子供へ、子供からまたその子供へ、『アルタリオンの悲劇』という名で語り継がれている。
それほどまでにこの戦いは人々に影を落とした。
アルタリオンの悲劇で人狼は殲滅した。そう、信じられてきた。
だが、真実は違う。
本当の話は歴史書にも書かれていない。
戦いから逃げた人狼たちは、人間の手が及ばない最北の森に、身を潜めて生き延びた。
ただひっそりとそこに村を作った。
そして、三百年の月日が流れたある日。
人狼の村で、一人の子供が生まれた。
村に産声が響いたのは、月が雲に覆われた寒い夜だった。
けれども、それから何日経っても、何ヶ月経っても、何年経っても、村人は誰もその子の姿を見ることは無かった。
子の母は、未婚だった。懐妊した時も父親については一切語らず、生まれた子を「体が弱い」といって、外に出さずに育てた。
けれど、子供が八歳になる頃、母親は自ら命を絶った。
なぜ母が死んだのか。子供には分からなかった。
その理由を知ったのは、子供が村人の前に初めて姿を現した時だった。
その反応で、全てを悟った。
「目の色を見ろ」「血の色だ」「禁忌の子だ」
血のように深い赤色の瞳。
その赤眼 は人狼たちの間で伝承に語られてきた、〈人と人狼が交わった証〉だった。
その瞳を持つ子供は災いを呼ぶとされ、禁忌の子と呼ばれた。
そしてその子供こそが、――のちに“イグナス”と呼ばれる少年だった。
彼は、母が死んだ一週間後に、静かに村をでた。
――自分はここにいるべきではない。
幼心に、そう感じたのだ。
誰も石を投げてきたわけではない。
誰も彼を追い払おうとしたわけでもない。
けれど、手を差し伸べもしなかった。
ただ、見ていた。その赤眼を。まるで恐ろしい獣でも見るかのように。
村を出てはみたものの、もちろん行くあてはない。
そもそも母が生きていた時は、家から出してもらったことすらなかった。
窓から見る景色に焦がれて、いつか外に出ていけたらなんて願っていたけれど、今はそれを楽しむ余裕もない。
森を彷徨うこと数日。
まだ八歳の子供である。とうに、限界を超えていた。
これまで家の中から出たことがなかった彼にとって、整備されてもいない森は歩きにくいことこの上ない。足はマメだらけで血が滲んでいた。
もう何日も碌なものを食べていないから、力も沸いてはこない。
視界もぼんやりとピントがずれてきて、雲を歩くような浮遊感がある。
少し休もうと、大樹の張り出した根にそっと腰掛ける。
この数日、森は彼に優しくなかった。
けれど、こうして見ると、なんと壮大で美しいのだろう。
木々は空に向かって背を伸ばし、葉の隙間から漏れる光は、緑を生き生きと照らす。そよそよと吹き込む柔らかい風は、孤独な自分をも優しく包んでくれる。
――このままこの木と一つになれたら。
ゆっくりと目を閉じてみる。
母が死んでから、ずっと考えていることがある。
なぜ母は自分を産んだのだろうか。
母が、時折バケモノでもみるような目で自分を見ていたことには、薄々気づいていた。
なぜなのかその時にはわからなかったけれど、そうかこの赤眼 のせいだったのかと今ならわかる。
母が自分に暴力を振るってきたことはなかった。
むしろたくさん愛そうとしてくれたと思う。
まるでそれが義務であるかの如く。
「ちゃんと愛さなきゃ」
幾度となく母から聞こえ漏れた言葉は、呪いのように彼女を縛った。
そうまでして、なぜ自分を産んだのか。
自殺するくらいなら、自分なんて産まなければよかったのに。
父親がどんな人間だったのかは、知らない。
けれども、母がその男を愛していたことは知っている。
だから禁忌を犯してでも、人間との間に子供を欲しかったのだろう。
男は母を人狼と知っていたのか。いや、知らなかったのだろうな。だから母は一人で戻ったのだろう。
どうして自分を産む決意をしたのか。今となっては何もわからない。
けれどこれだけはわかる。
人狼と人間が結ばれるわけがない。
人間に恋をするなんて、母はなんて愚かだったんだろう。
――いや、愚かなのは僕のほうか……。
母から愛されていると錯覚して、本当は愛されるどころか疎まれていたというのに。
何のために生きているかもわからない存在ならば、このままこの大木の栄養になるのも悪くないかもしれない。
最後くらい何かの役に立ちたい。
大木に体重を委ね、このまま自然の一部になろうと、覚悟を決めた時――、
「おい、お前死んでんのか?」
上から声が降ってきた。
それはあまりに透明で、まるで森に差し込む一筋の光のように、真っ直ぐに鼓膜を揺らした。
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