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第8話 本当の名前
あの日から、何事もなかったかのように日々が過ぎている。
キスをした事実だけが、スプーンでくり抜かれたように、互いにその話は一切しない。
けれども、全くもっていつも通り――というわけでもなく、アルフレッドとの間に流れる空気は、明らかに気まずさが残っていた。
できれば二人きりにはなりたくなくて、学校ではサリスと、王宮ではガルバと、三人になるように必死で頑張っていたが、公務となればそうも言ってられない。
イグナスは今まさに、アルフレッドと二人きりで馬車に揺られていた。
狭い馬車の中は、どうしたって距離が近い。しかも密室だ。
アルフレッドと二人きりだと思えば思うほど、変に緊張してしまう。
しかも、今日の行き先は、イグナスの故郷ピューロ――つまり、十二年前にアルフレッドと出会ったあの森の近く。
まるで運命のいたずらだ。否が応にもアルフレッドを意識せずにはいられない。
いろんな感情に押しつぶされそうになりながらも、表情だけは冷静に、とイグナスは侍従としての仮面を貼り付ける。
二人きりの車内で、長い沈黙を破ったのはアルフレッドだった。
「お前が黙っていると、やけに馬車の中が静かだな」
不意に声をかけられ、イグナスの背中がスッと伸びた。
いつもイグナスばかりが喋っている、とでも言わんばかりの言葉に、思わず口を尖らせる。
「……そもそも俺はそんなにお喋りじゃない。アルフの方こそ今日はやけに静かだな」
「たしかに。お前は冷徹姫だしな」
「その名前では呼ぶなって」
じろりと睨むと、アルフレッド小さく笑った。
見慣れたはずの笑みのはずが、今日はまるで知らない誰かのように見える。それはきっと彼の心が見えないからだろう。
アルフレッドが何を考えているのか、イグナスには全くわからなかった。
「それにしても、久しぶりだな。お前の故郷に来るのは……」
アルフレッドが馬車の窓越しの風景に目を向ける。
「十二年ぶりだな」
イグナスも窓を見た。
十二年ぶりだというのに、街までの景色はほとんど全くと言っていいほど変わっていなかった。
「あの日のことをまだ覚えているか?」
アルフレッドの言葉と共に、肌に視線を感じ、イグナスはそちらに目を向けた。
覚えている。覚えているに決まっている。出会ったあの日から一度だって忘れたことはない。忘れられるわけがない。
イグナスはただ頷いた。
アルフレッドは満足げに微笑むと、また窓に目を向ける。
「あの森は、今も変わってないんだろうか」
まるで大切な思い出を語るような柔らかな声に、イグナスの胸が高鳴る。アルフレッドにとってもあの日は大切な思い出なのだろうか。もしそうだとしたらすごく嬉しい。
「あの後、アルフはガルバ様にたいそう怒られてたな」
本来あの森は、狼が出ると噂で、立ち入り禁止だったらしい。
それを知っていたにも関わらず、なぜかアルフレッドは森へ足を踏み入れた。だから帰ってから、しこたま怒られていたのだ。
「『もっと王子としての自覚を持ってくださいまし』だろ」
アルフレッドが、メガネを手のひらでクイッとあげるふりをしながら、ガルバの真似をする。
「似てるな。本人かと思った」
「ふっ、冗談を。俺の方が何倍もいい男だ」
アルフレッドの軽口にイグナスはふっと笑った。
気がつくと目的地に着く頃には、二人の間に流れていた緊張はほどけていた。
馬車から降りると、そこにはあの頃から少しだけ賑やかになった街が広がっていた。
鼻腔に広がる土の匂いはあのままで懐かしさと当時の孤独を思い出し、イグナスはしばし追憶に浸った。
村の代表者たちに出迎えられ、二人は街のあちこちに案内された。
アルフレッドは笑みを浮かべながら人々の話に耳を傾け、ときに頷き、ときに街の発展のためにアドバイスをする。
その隣でイグナスもアルフレッドのサポートをする。
いずれ王としてこの国をまとめるアルフレッドは、こうして休みの日のたびに各地へ足を運び、視察をおこなっている。
仕事は滞りなく進み、しばし休憩の昼食に入ることになった。村の代表は、昼食の準備はこちらです、と告げながらも、まだまだ話し足りたいようで、その道中もアルフレッドに熱意を伝えていた。
休憩に入り、公務で張っていた糸が緩んだのか、イグナスは少しばかりアルフレッドから離れて、森に目を向けた。
この先でイグナスは、自らの命を自然に還そうとしていた。
あの日、終わるはずだった命の灯火は、彼に出会ったことで、今もなおその灯りを絶やさずにやってこれた。
運命なんて大げさなことは言わないが、自分にとってアルフレッドは命の恩人だ。
イグナスが感傷に浸っていたその時、後ろから誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ルシウス……?」
不意に呼ばれたその名前に、イグナスの背中が凍りついた。
まさかそんなはずは、と思いながら振り返る。
そこに立っていたのは、黒い髪を刈り上げた短髪の青年だった。
見覚えのない青年だったが、ルシウスという名前には、十分すぎるほど覚えがあった。
それは、十二年間、一度も呼ばれたことのない、イグナスの本当の名前——自分でも忘れかけていた本当の名前だった。
あの日、過去と一緒に捨て、もう二度と呼ばれることはないと思っていたのに。なんで目の前の青年が知っているのだ。
あまりの驚きに言葉を失う。心臓が大きく跳ねた。
青年はイグナスの顔をじっと見つめる。
「やっぱりルシウスだ! お前、そうだろ?」
青年が人懐っこい笑顔浮かべ、イグナスに駆け寄ってくる。
―—なんで。
その名前を知っているのは村にいた人狼たちだけのはずだ。
それに、ここは人間の街。人狼がいるはずがない。
戸惑うイグナスに青年は距離をつめる。
「変わらないな、ルシウスは」
青年は純粋に自分との再会を喜んでいるように見えた。
けれど当のイグナスは、『ルシウス』と呼ばれるたびに、息が浅くなるのを感じた。
やめてくれ。その名前を、呼ばないでくれ。
――俺は、ルシウスじゃない。
そんなイグナスの思いなど知るよしもない青年は、イグナスの顔を覗き込む。
「覚えてないか? 俺、お前の隣の家に住んでいたゼジル」
言われてすぐに思い出す。
村にいたころ、隣に住んでいた二歳年上の人狼がいた。それが彼なのだろう。
――でもなんで人狼がこんなところに。
動揺が隠せない。
けれど、そんなイグナスの様子になど気づかないゼジルは言葉を続ける。
「急にいなくなって、心配したんだ。俺たち、その……お前に何もしてやれなかったから……。お前がいなくなって、もっと何かしてやれたんじゃないかって、そう思ってて……」
苦しそうに顔を歪める彼は、言葉を詰まらせると、真剣な表情でイグナスを見た。
「なぁルシウス。良かったら今度、村のみんなに――」
「違う!」
イグナスは気づけば大きな声をだしていた。
誰もいない森の入口にイグナスの声が響く。
イグナスは務めて冷酷に、ゼジルを睨んだ。
「貴殿は何か勘違いされているようだ。私はあなたの知人ではない。私の名前はイグナス。……イグナス=グランディエだ」
耳さえも凍ってしまうほどに冷たく言い放ち、イグナスはすぐに踵を返し、その場を立ち去ろうとした。
しかし、青年は咄嗟にイグナスの腕を握る。
「白銀髪に、その赤眼! 見間違えるわけがない。……俺、お前に謝りたかったんだ」
優しい声だった。きっと彼は本当に心から懺悔しているのだろう。
だがそんなこと、イグナスにはどうでもよかった。
それよりも、自分の出自を知っている者がここにいるということが心底怖かった。アルフレッドに自身が人狼だとばれたら。そう思うと、背筋がどこまでも凍る。
「謝られることなんて何もない!」
イグナスは掴まれたその温もりを振り払って、走り去った。
その二人の様子を、少し遠くからアルフレッドが見ていたことに、イグナスはこのとき、少しも気づいていなかった。
* * *
「——ス。——グナス。イグナス!」
何度目かの名前を呼ばれ、イグナスはようやくアルフレッドの声に伏せていた目を上げた。
気づけばいつの間にかイグナスは帰りの馬車に揺られていた。
いつ視察が終わったのか、何も覚えてもいない。
「大丈夫か? 視察中もずっと心ここに在らずだったぞ」
捨てたはずの名前が、過去が、今になって自分を脅かしにやってきたなど言うこともできず、イグナスは口をつぐんだ。
もし、アルフレッドに過去を知られたら、自分が半人狼だと知られたら。
――もう、隣にはいられない。
そう思うと、胸の奥がひどく軋む。
「失礼しました。……少し体調が悪くて」
二人だというのに敬語で返事をしてしまったのは、疚しさがあったからかもしれない。
「……本当にそれだけか?」
「はい、本当に何もありません……。王子にお伝えするようなことは何も」
たとえアルフレッドでも、いや、アルフレッドにだからこそ、言えない。
数秒の沈黙の後、アルフレッドは深く、大きな溜め息を吐いた。
「……俺は、いつまで経っても、本当のお前を見せてもらえないんだな」
自嘲じみたアルフレッドの言葉は、どこか棘をはらんでいて、チクチクとイグナスの胸を刺す。
どういう意味だろう。
何かを隠していると感じ取ったのだろうか。
でも。
『本当の俺』なんて見せられるわけがない。そんなことしたらもう、一緒にはいられない。
イグナスは膝の上に置いた手をぎゅっと強く握ると、静かに唇を噛んだ。
それから王宮に着くまで、二人が言葉を発することはなかった。
馬車の景色はすごいスピードで流れていく。けれど、どれだけ早いスピードで馬車が進んでも、過去からは逃れられない。そんな気がしてならなかった。
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