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第9話 サリスの励まし

「――つまり、同じ言葉を話し、同じものを食べ、同じ倫理観をもつ人狼は、広義には人間と同じ種族であったと考えられます」  柔らかな声が講堂に響く。  教壇に立ち、ヨレヨレの白衣を羽織ったその人は、生徒の健康を管理する保健師であり、生体学の先生でもあるライネル=キャンドだ。  齢にしてもう三十半ばだというのに、高等部の学生と遜色ないほどの童顔は、生徒にとって親しみやすく、加えて授業はわかりやすいと人気の教師だ。 「では、人狼と人間で何が違うのか。今日はその違いを説明します。教科書を開いてください」  ライネルの言葉に、紙が擦れる音が講堂に広がる。  人狼が伝説の存在と語り継がれている今でも、この国では人狼のことを学ぶ機会が多い。  それは、アルタリオンの悲劇がどれほど人々に恐怖を与えたのかを物語っていると言えるだろう。  イグナスは、ぼんやりとライネルの言葉を聞きながら、斜め前の席に座るアルフレッドをちらりと見た。  視察から一週間。  あれからイグナスはアルフレッドとの距離を掴めずにいる。  以前は、サリスと三人で並んで受けていた授業も、ここ最近はアルフレッドだけ、一つ前の席に座るようになった。  必要最低限の言葉しか交わさず、目も合わせない。  長い沈黙が、二人の間に冷たい霧のように漂う。  それは日を追うごとに濃くなり、最近はもうアルフレッドの心がまるで見えない。  教室という同じ空間にいるのに、その背中がやけに遠い。 「人狼と人間の違いは、まずその身体能力です。変身時はもちろん、人の姿のときも、人間を超える身体能力があると言われています」  ライネルは黒板に文字を書きながら、言葉を続ける。 「次に変身。人狼が満月の夜に姿を変える、というのは有名ですよね。これは満月の光にのみ含まれるある特定の波長が原因だと考えられています」   その時、ライネルの言葉に、一人の女子生徒が手を挙げた。 「先生、人狼が満月の夜に凶暴化してしまうってのは、やっぱり本当ですか?」 「いい質問ですね」  ライネルはくるりと向き直った。 「凶暴化……というのは、あくまで俗説です。最近の研究では、人狼は変身しても理性を保ったのではないかと考えられています。アルタリオンの悲劇は、人狼の凶暴化によって引き起こされたと言われていますが、私はそれにも何か事情があったのではないかと思っています」  ライネルはそこまでいうと、「ただ」と言って、言葉を付け加えた。 「変身した姿は人の目には恐ろしく映ったでしょう。人狼の姿を見て、凶暴化したと勘違いした人がいたかも知れません」  生徒たちが「へぇ」と、興味深そうに話を聞く中、イグナスはその言葉にそっと息を飲んだ。  もし、自分の姿をアルフレッドに見られてしまったら、彼はどう思うのだろうか。  月に一度の満月。  それはイグナスにとっては避けることのできない障害だ。  侍従として仕え出した当初は、仮病を使って休むたび、自分の正体がバレてしまうのではないかと怯えていた。  満月は否応なく、イグナスを半人狼の姿に変えてしまう。  今では、『イグナスは繊細だから、月に一度、疲れから発熱する』と周りが解釈してくれるようになったが、それでもいつかバレたらという不安とは、常に隣り合わせにいる。  半人狼のイグナスの変貌は、人狼のそれよりは随分と軽い。人間の姿に耳と尾が生えるだけだ。 それでも、人間からすれば化け物にかわりないだろう。  ピューロで、ゼジルという人狼に会ってから、いつかバレるのではないかという不安が日に日に大きく膨れ上がり、イグナスを押し潰していく。  イグナスは唇をギュッと噛んだ。  ――バレたらもうここにはいられない。  全てが露呈する前に、アルフレッドの前から姿を消すべきなのではないか。そんな考えが頭を掠める。  そのときチョークの走る乾いた音がして、沈みかけた意識が現実へ引き戻された。 「三つ目が、血液です。人狼の血には、『血を洗う力』があると言い伝えられています。人狼は人間以上に生命力が高いです。そんな人狼の血を動物に使えば、ケガや病気を治したり、命を伸ばすこともできたと言い伝えられています」  あまりに非科学的な迷信に、教室からは「ほんとかよ」と声が漏れ聞こえる。  イグナスもそんなことは初めて聞いた。 「先生!」  今度は別の生徒が手を上げる。 「じゃあもし、死にそうになった人間が人狼の血を飲めば、生き返るってことですか?」  ライネルはぴたりと動きを止めると、チョークを置き、指先についた粉を払うように両手を軽く叩くと、まっすぐに教室を見回した。 「アルタリオンの悲劇の際、同じような人体実験が行われました」 『人体実験』という不穏な言葉に、教室に緊張が走る。 「人間は、殺した人狼の血を集め、それを傷ついた兵士たちに使ったのです。けれど――」  ライネルはそこまで言うと、小さく息を整えた。 「その力は人間には強すぎました。肉体は再生するどころか、内側から壊れていったと、そう記録には残っています」  あまりの衝撃に、生徒たちは息を呑んだ。 「こわ……」 「血だけで人が殺せるなんて」 「やっぱり人狼ってバケモノだったんだ」  ひそひそと聞こえる生徒の声が、イグナスの胸に次々に刺さる。    普段、人間の中に混ざって生きていると忘れてしまいそうになるが、そうだ自分はバケモノなのだ。  改めてそれを思い出す。 「最後の人間との違い。それは発情期です」  ライネルのその言葉に、教室が一気にざわめいた。  先ほどまでの緊張の糸が緩み、生徒たちはくすくすと笑い、顔を見合わせる。 「静かに。……発情期は本能的な繁殖衝動によるものです。成人に近づいた人狼は、春先の満月前後に発情期を迎えるといわれています。発情期になると――」  ライネルの言葉が続く中、ふと前の席のアルフレッドがちらりと振り返った。  何やら言いたげな表情に、イグナスはわずかに首を傾げた。  けれど、アルフレッドは何も言わず、そのまま視線を元に戻す。  どうしたのだろう。いや、そんなことより――。  アルフレッドが目を合わせてくれた。いや、実際はたまたまあっただけかもしれない。  それでも、その碧い瞳に自分が映ったのは久々のことで、泣きたくなるほど嬉しさがこみ上げる。  たった一度視線が触れ合っただけで、イグナスがこれほど舞い上がってることを、きっとアルフレッドは知らない。  先ほどまでわずかに頭をかすめていた、彼の前から姿を消すべきなのではないかという考えは一瞬にして霧散していた。  ――だって、アルフレッドが好きなんだ。まだ彼のそばにいたい。  一生傍にいられるとは思っていない。いつか離れる時がくるだろう。でも、その時までは、どうか。  その祈りを断ち切るように、講義の終わりを知らせるベルの音が鳴った。  生徒がぞろぞろと席を立つ中、前の席に座るアルフレッドも立ち上がり、後ろにいるイグナスへ振り返った。体はこちらを向いているが、視線は逸らされたままだ。 「用をたしてくる。一人で行くからお前は待ってろ」 「……かしこまりました」  冷たく放たれた言葉は、主人と侍従の会話としては何の問題もないというのに、ひどく物寂しい。イグナスは少し浮かせた腰を、静かに椅子に下ろす。 「なぁ、もしかして、アルフレッドと喧嘩でもしちゃった?」  アルフレッドが講堂を出て姿が見えなくなると同時に、隣に座るサリスが訊ねてきた。  イグナスは一瞬だけ表情を曇らせ、すぐにかぶりを振る。 「……喧嘩、ではないかな」 「喧嘩、ではないのか。……にしては空気重すぎるってえ」  サリスは長い手足をばたつかせながら、おどけ気味に笑う。 「俺たちじゃけんかにすらならないから」  そう自嘲するように言ったとき、目の前に人影ができ、上から無駄に明るい声が降ってきた。 「お前、とうとう愛想尽かされたのか?」  顔を見上げなくとも、その声で、主が誰なのかが一瞬で分かった。  エドモンドだ。  嫌々ながらも視線を上に向ければ、エドモンドがニヤニヤと笑みを浮かべていた。 「さすがの王子様も、野良猫の相手は飽きたみたいだな。まぁそもそもここは、お前みたいな下賎が来ていい場所じゃないんだよ」  言葉の節々に悪意が込められていて、ひどく吐き気がする。  別にエドモンド如きに何を言われても、どうでも良い。いつものことだ。  どうでも良いけれど、落ち込んでいる今は、その悪意に腹が立って仕方ない。  イグナスは何も言わず、ただエドモンドを睨めつけた。  瞬間、エドモンドの顔が怯んだ。 「なっ……、なんだよその目は」  イグナスは何も言わなかった。何も言わずただ相手を冷たく睨む。 「お前、たかが王子の侍従のくせに生意気なんだよ!」  講堂に声が響くと同時に、エドモンドの腕が振り上がる。  強く握られた拳がイグナスに向かって落ちていく。  当たる、と思った瞬間、「バシッ」と鈍い音がした。  拳はイグナスにあたる直前で、誰かによって止められた。 「いたっ、痛い痛い……、離せっ!」  力強く制されたエドモンドの腕を握っていたのは――サリスだった。 「エドモンド、暴力はいけないなぁ」  いつも通り、にこにこと微笑むその表情は、目だけが笑っていない。 「リュシアン家の分際で、俺にたてつく気か」 「イグナスはアルフレッドの侍従だよ? そんな彼に手を挙げることは王子を侮辱することと同じ。今回は僕が止められたけど、もし次があればアルフレッドが黙ってないよ」  穏やかな口調とは裏腹に、言葉に牽制が滲む。 「チッ」  エドモンドは舌打ちをしながらサリスを睨む。  サリスはその鋭い視線を、微笑みでかわす。 「……そのうちそんな口、叩けなくなるからな」  エドモンドはそう小さく呟くと、早々とその場を去っていった。 「助かった」  サリスが止めてくれなかったら、イグナスの手が出ていたかもしれない。  そうなれば、主人であるアルフレッドの責任になっていただろう。  サリスは、いえいえ、と笑うと、イグナスの頭をポンと優しく撫でた。 「そんなことより、アルフレッドのこと。あまり思い詰めちゃだめだよ」 「……ああ。ありがとう」  努めて笑ってみたが、最近はずっと眉間に皺を寄せていたからか表情筋が上手く動かない。ぎこちない笑顔をサリスに向ける。 「ぷっ……」  その表情を見て、サリスが思わず吹き出して笑った。 「ちょっとリラックスしよ。頭も顔も柔軟に、な」  サリスはイグナスの頬を両の手でぷにと摘むと、そのままぐにゃぐにゃと伸ばしたり、縮めたり左右上下に動かす。 「しゃりす、いひゃい」 「いいね、冷徹姫とは思えない百面相」  あははと軽やかに笑いながら、サリスはイグナスの顔を引っ張り、最後に両手のひらで、頬を優しく挟んだ。  頬がもちっとあがる。 「うん、いい顔んなった」  穏やかな微笑みのサリスにつられて、イグナスも自然と笑顔になる。  からかっているようでいて、実際は沈んだ自分を見かねて、気遣ってくれているのだろう。  そんなサリスの優しさが、じんわりと胸の奥に沁みる。 「何があったかはわかんないけど、今のままじゃどうにもならないんだし、一旦話してみなね」 「……ああ」 「アルフレッドも鬼じゃないんだし……ああ、表情はちょっと怖いけどね。きっと話せばわかってくれるよ」 「そうだな」 「そんで、もしどうしようもなくなったら、俺んとこおいで。いつでも暇だから」 「ありがとう、サリス」  ここ最近、後ろ向きなことばかり考えていたイグナスにとって、サリスの明るい物言いは、とてもありがたかった。  何を話せばいいのか、まだ自分でも上手く整理は出来てない。  けれど、このまま考えてばかりでは、きっと一生、アルフレッドと話せない。  まず、アルフレッドの話を聞こう。なんで怒っているのか。  そして、話せる範囲は少ないかもしれないけれど、できる限りで自分の話もしよう。  そう覚悟を決めたとき、沈んでいた気持ちが、風を受けてふわりと浮いていくようだった。

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