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第10話 婚約

 大きな扉を前に、イグナスは一つ深呼吸をした。  扉の前で握った拳は、先ほどからずっと同じ位置で、一向に扉を叩こうとしない。  厳密には叩きたいのに、勇気がでない。  いつもより大きく見える扉を前に、心臓がドクンドクンと飛び出して、代わりに扉をノックしてしまいそうなほどだ。    それでも、行くしかないよなと覚悟を決める。  練習は何度だってした。  まずは『この間は怒らせてごめん』と謝って、『でも、アルフレッドが何に怒っているかがわからないんだ』と告げよう。しっかり話をして、仲直りをしたい。  イグナスは何回目かにして最後の深呼吸をすると、「よしっ」と小さく気合を入れて、扉を力強くノックした。 「イグナスです。お話があるのですが、今よろしいですか?」  声が震えているのが自分でもわかった。  短い沈黙の後、中から低い声が響いた。 「入れ」  その声に思わず萎縮しそうになるが、怯むな、と自分に発破をかける。 「失礼します」  部屋に入ると、机に座るアルフレッドが右側につまれた書類の下へ、何かをすっと隠したように見えた。 「どうした。話ってなんだ?」  久しぶりに正面から見るアルフレッドの顔に、イグナスは思わず息を呑んだ。  ――こんなにかっこ良かっただろうか?  すっとした鼻梁に、意思のある眉。蒼黒の瞳と、夜を溶かしたような黒髪は神秘的で、がっしりとした体格は、男らしさと色気を醸し出している。  風格は、まさに王族のそれそのもので、目の前に立つだけで、ゾクゾクと肌が粟立つ。 「おい、どうした?」  アルフレッドの声がイグナスを現実に引き戻す。  つい見惚れてしまった。その間に、考えておいた言葉が全部飛んで行った。  扉の前で何度も練習したはずが、今、頭の中は真っ白だ。    普段はあがり症でもなんでもないイグナスだが、ことアルフレッド相手だと、話が別だ。  学校では「冷徹姫」なんて言われているが、彼の前だと自分が道化師にでもなった気分になる。  言葉を交わすだけで、地に足がついてないようにふわふわしてしまうし、思ってもないことを口走ることも多々ある。体は熱を帯び、喉は渇き、無駄なジェスチャーばかり増える。  そして、今日もそれは健在だった。 「こっ、こんな時間まで机に座って、何かしてたのか?」  やっとの思いで口から吐き出された言葉は、話したいこととは全く関係のない、ただの世間話だった。    ――いや、いい。まずは世間話からだ。  そう自分に言い聞かせる。  アルフレッドはイグナスの言葉に眉をぴくりと小さく動かすと、先ほど何かを隠したあたりに視線を泳がせた。 「……いや? 特に……何もない。読書をな、していた」  歯切れの悪い言葉に、何かがあるとすぐにピンときた。 「何か隠してないか?」  自分だって大きな隠し事をしているくせにどの口が言うんだ、と思いながらも、明らかに態度のおかしいアルフレッドに問いただす。  アルフレッドは隠し事が苦手だ。幼少期からそれは変わらない。 「え? な、何も隠してなんてない」  アルフレッドはそう言いながら、再び書類の山に目を滑らせた。  ほんの一瞬だった。  けれどイグナスはそれを見逃さなかった。  ――あの下に、絶対に何かがあるな。  そう確信する。  イグナスは一歩一歩アルフレッドへと歩みを進める。そして机の前に立ち、にこりとアルフレッドに微笑んだ次の瞬間、書類の下に手を伸ばした。 「あっ、それは!」  必死でアルフレッドが手を伸ばすも、瞬発力ではイグナスの方が上だ。  手にしたそれを見たとき、イグナスは愕然とした。 「こ、……これ、|小型肖像画《ミニアチュール》か?」  手にすっぽり収まるほど小さなそれには、銀髪の女性が描かれていた。    |小型肖像画《ミニアチュール》とは、いわばお見合い写真のことだ。  貴族の結婚は、そのほとんどが政略のために結ばれる。  つまり、顔も性格もよく知らない人と結婚することがほとんどだ。  だからこそ、事前に自身の容姿や雰囲気を少しでも伝えようと肖像画を贈る文化がある。  大きな肖像画を送る者もいるが、最近のトレンドは|小型肖像画《ミニアチュール》。  ポケットに入るほどの小さなものを渡すことで、相手にいつでも持ち運んで想いを馳せてもらえるというのだ。 「もしかして、婚約するのか……?」  婚約という言葉を口にした瞬間、心臓をギュッと握られたような痛みが走った。  否定してくれ、思わずそう願う。 「いや、これは、その……」  アルフレッドはイグナスから目を逸らすと、否定するでもなく、視線を泳がせた。  それはイグナスの目には立派な肯定に思えた。    ――アルフレッドが、誰かと結婚する……。  いつかそんな日が来ることはわかっていた。  わかっていたはずなのに、いざ目の前にやってきた現実は、想像の何倍も何十倍も苦しくて、途端に息が浅くなる。鈍器で殴られたような眩暈に、立っているのもやっとだった。  アルフレッドに恋人ができても、婚約者ができても、伴侶ができても、その隣で彼を支えるのが自分の役目だと思っていた。  でも、果たしてそんなことができるのだろうか。  自分以外の人に笑いかけ、手を繋ぎ、キスをするアルフレッドを想像して苦くて酸っぱい感情がせりあがる。  しかもそれを侍従という一番の特等席で見なければならないなんて。  きっと、イグナスには耐えられない。  途端に目頭がグッと熱くなった。鼻の奥がツンと痛む。 「私、用を思い出したので……、失礼します」  これ以上ここにいたらダメだ。  イグナスはくるりと踵を返すと、扉に向かって歩いた。  涙はもう、瞬きをしたら零れ出てしまいそうなところまできていて、まつ毛が縁で支えている状態だった。    早く部屋を出なければと、自然と早足になる。  だってこんなの、アルフレッドに気づかれたら、もう言い訳のしようがない。  扉のノブに手をかけようとした時、背後から腕が伸びた。  筋肉質の腕が、扉を開けられないように押さえている。 「待って。ちょっと……言い訳くらいさせてくれ」  耳元で聞こえるアルフレッドの声は焦りが滲み、それでいて切実だった。  イグナスは何も言わなかった。いや、言えなかった。  すんでのところで溜まっていた涙がぽろりとこぼれ落ちていたから。  それを合図に次から次に涙があふれだす。  止めなければ、そう思うのに、自分じゃどうにもできない。 「頼む、イグナ……ス……」  アルフレッドは覗き込むようにイグナスの顔を見て、言葉を緩めた。  イグナスの目から、ポタポタとこぼれ落ちる涙に目を丸くする。  ただの侍従が、婚約話を聞いて号泣しているのだ。それは驚きもするだろう。    必死で何か言い訳を探そうとするが、頭はもう何も考えれなくなっていた。ただ悲しい。アルフレッドが誰かのものになるのが、とてつもなく。  アルフレッドは扉を押していた手をゆっくりと離すと、次の瞬間、イグナスを後ろから抱きしめた。  イグナスの体が、心臓ごと一緒に跳ね上がる。  これまでもじゃれて抱きつかれたことは何度かあった。でも今回のそれは、まるで違う。  大切なものに触れるようにそっと。それでいて、力強かった。 「イグナス……、こっち向いてくれないか?」  低く、けれども優しい声が、吐息と混ざって鼓膜をゆらす。  いつも自分勝手なアルフレッドにしては珍しい、哀願するような物言いに胸が高鳴る。  けれど振り向けない事情もある。だってイグナスは今、人生最大に不細工なのだ。  こんなに泣いたのは、母が死んだ日以来初めてだった。 「……断る」 「なるほど。……じゃあ、その涙の意味だけ教えてくれないか?」 「……それも、断る」  婚約者ができたばかりの相手に想いを告げるほど、イグナスだって馬鹿じゃない。  頼むから察してくれ、と心の中でお願いしたくなる。  いやきっと、アルフレッドはもう自分の気持ちには気づいているのだろう。  わかってて、いつものように意地悪をしているのだ。 「イグナス……」  抱きしめる腕に一層の力が加わる。  首筋にかかる息と、背中越しの体温に、思わず肌が粟立つ。  その時、イグナスは気づいた。自身の腰のあたりに押し当てられたアルフレッドの下腹が、硬く熱をもっているのを。    もしかしたら、アルフレッドも自分を求めてくれているかもしれない。もしかしたら、同じ気持ちなのかも――。  けれどその期待は、すぐに現実にかき消されてしまう。  もし仮に両想いだったとして、だからと言って、イグナスとアルフレッドが結ばれることはない。  王を継ぐアルフレッドにとって、未来の妃になる女性を選ぶのが、どれほど重要なことかをイグナスは嫌というほどわかっている。  それに、自分は半人狼。人間と恋に落ちるなんて許されない。  アルフレッドが王子でなければ。  自分が男じゃなければ。  そして――、同じ人間だったなら。  恋愛に発展することはあったのだろうか。彼に好きだと伝えることができただろうか。  何万回も考えた『もしも』は、何万回考えたからと言って現実になるわけではない。  ――もう潮時なのだな。  イグナスは、自身の抱え込むように交差されたアルフレッドの腕をそっと解くと、小さく深呼吸をした。  アルフレッドに婚約者ができるその前に。  その前に彼の側を離れよう。  今夜で全て終わりにしよう。だから最後に。  ――アルフレッドに抱かれたい。  もう二度と彼に合えなくなる前に、一度だけでいいから彼に触れたい。  彼の下部にほとばしった欲望を、これから生きる思い出にしたい。  イグナスは、くるりと振り返り、アルフレッドに向かい合うと、その唇にそっとキスをした。  前にされたキスのお返しだ。嫌だとは言わせない。  唇が離れた隙間で、イグナスはアルフレッドの鼓膜にだけ届くような声を漏らした。 「抱いてくれ」  ――せめて今夜だけでいいから。  その声を合図に、どちらからでもなく、二つの唇が重なった。  今度はもっと深く、重く。胸を打つ心音が、どちらのものかもわからなくなるほどに。

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