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第16話 本当の名前 ーアルフレッド
それからはいつも通りの日々だった。
正確に言えば『いつも通りを装った』日々。
イグナスの唇を知ってからというもの、アルフレッドは何度もその熱を思い出しては、自分を慰めていた。
一度でも触れてしまえば、もうただの主人と侍従には戻れない。
けれど、簡単に関係を前に進めることができるわけでもなく、アルフレッドは出口のない迷路にいるようだった。
そんな折、イグナスと公務に赴くことになった。
行き先は、奇しくもイグナスの故郷であり、二人が初めて出会ったあの辺境の地ピューロだった。
公務が滞りなく進む中、ふとイグナスが村人らしき男に声をかけられているのを見た。
一見華奢で、綺麗な顔立ちのイグナスは、その長い銀髪も相まって、女性に間違われることもしばしばで、王都でもよくナンパされる。
その度に、アルフレッドが悪い虫を追い払ってきた。
ここでもか、と二人の間に割って入ろうと歩みを進めた時、男の声が耳に届いた。
「やっぱりルシウスだ! 懐かしいな」
その言葉に、アルフレッドの足が止まった。
男はイグナスを、『ルシウス』と呼んだのだ。
人違いかとも思ったが、イグナスの顔を見て、そうじゃないことにはすぐにわかった。
イグナスはその名に心当たりがあるようだった。
視察が終わり、帰りの馬車はひどく静かだった。
イグナスの様子はあれから明らかにおかしい。
怯えているようでいて、焦っているようでもある。
「イグナス」
そう、いくら呼びかけても、返事はない。
その名前が彼に届かないのは、それが本当の名前ではないからじゃないか。
そんな考えが喉まで出かかったのを、必死で飲み込む。
何度目かの問いかけでこちらに気づいたイグナスは、ひどく思い詰めた顔をしていた
「大丈夫か?」
そう言いながら、本当は何もかも問ただしたくて仕方なかった。
先ほどの男のことも、ルシウスという名前のことも。
しかし、それでは『命令』になってしまう。
イグナス自身から話したいと思って欲しい。イグナスのすべてを知りたい。
アルフレッドの思いとは裏腹に、イグナスは口を閉ざした。
「何もありません……。王子にお伝えするようなことは何も」
二人きりの車中で使われた敬語に、開いていく心の距離を感じて、虚しくなる。
――どこまでも、この想いは一方通行なんだな。
そう思うと、自分がひどく滑稽に思えた。
どれだけ願っても、どれだけそばにいても、彼は決して自分に心を開かない。
触れることのできない霧のように、そこにいるのに、手を伸ばしても届かない。
「俺は、いつまで経っても、本当のお前を見せてもらえないんだな」
その言葉に、イグナスはただ唇を噛むだけだった。
* * *
その日から一週間、イグナスとは必要最低限の言葉しか交わすことはなかった。
正直、アルフレッドはもう、どうしていいかわからなかった。
イグナスのことを諦めたいわけではない。
けれども、絡みまくった糸は解くには絶望的で、どうすればいいかわからない。
これが実際の糸ならば、絡まった部分だけを切って、残りを結び直せばいい。
でも、現実はそうはいかない。
イグナスとの糸は、細くて脆く、一度でも切ってしまったら、それまでのような気がしてしまう。
もういっそのこと、主人という立場から、命令してしまいたい。
「お前が好きだから、俺のそばにいろ」と。
そう言って、イグナスを縛ってしまいたい。
けれど、それに何の意味があるんだ。
心まで手に入らなければ、虚しいだけだ、意味がない。
いくら考えても答えは出ないのに、そればかり考えずにはいられなかった。
父であるテオバルト王から呼び出しがあったのは、その夜のことだった。
「婚約しないか」
開口一番にそう切り出され、アルフレッドは眉一つ動かさず答えた。
「お断りします」
あまりにも即答だったため、テオバルトは思わず目を瞬かせた。
「……少しくらい考える素振りはできんのか」
「ていうか、またその話かよ。この前、断っただろ」
アルフレッドはそういうと、大きくため息をついた。
格式ばった場では厳格な王であるテオバルトも、息子と二人きりの時だけは別だ。
二人の時の砕けた口調に、親子の仲の良さが滲む。
つい先日も、アルフレッドは公爵家のご令嬢との縁談を断った。
会ったことも、話したことない女といきなり婚約しろだなんて、無理な話だ。
「いや、先日の縁談、わしはちゃんと断ったんだがな、向こう方が一目だけでも、と小型肖像画 を送ってきてな」
王は苦笑しながら、机の上に置かれた小型肖像画を、アルフレッドの前にすっと差し出す。そこには、銀髪の女が描かれていた。
気が強そうなところが、どことなくイグナスに似ている。
「こんなのいらねーよ。大体、絵なんかじゃわからないだろ。どうせ盛って描かせてるだろうし」
小型肖像画を見て結婚を決めたが、会ってみたら全然別人のようだった、なんて話はざらにある。
所詮肖像画なんて、雇った画家に綺麗に書かせればいいだけなのだ。
「まぁでも、せっかく送られてきたわけだから、な」
そう言いながら、テオバルトはアルフレッドの手に小型肖像画を握らせる。
何が「な」だと、アルフレッドはそれを突き返した。
「いらない」
「そう言わず。一日だけで良いからじっくり考えろ」
「考えても変わんねーよ」
どうやら頑固なのは父親譲りのようだ。お互いに一歩も譲らない。
これじゃ埒が開かないと思ったのか、テオバルトは小さく咳払いすると、真剣な表情に切り替えた。
「エルヴエラナ国、国王テオバルトの命令だ。これを受け取れ」
何か都合が悪いと、すぐとこうやって王として命令してくるのだ。そんな父親に呆れながら、アルフレッドは、差し出された小型肖像画を受け取ると、
「ありがたく頂戴します」とそのままポケットに入れた。
王の間を出るとき、テオバルト王がアルフレッドの背中に、声をかける。
「好きな子がいるなら早く告白しろ」
好きな人はいる。けれど、相手にされなさすぎて絶望的だ。
そんなことはもちろん言えるはずもなく、アルフレッドは小さく舌打ちをして、そのまま部屋をでた。
「そんなことわかってんだよ……」
扉を閉めた後で、つぶやいた言葉はアルフレッドの鼓膜だけを揺らした。
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