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第18話 アルフレッドの危機

 王宮を出てから、半年が経った。  イグナスはキッチンに向かって料理をしていた。  といっても、食材を切って、炒めて、たまに煮て、塩で味を整えるだけのとてもシンプルなものだ。けれど、それすらも最初の頃はうまくできず、何度も食材をだめにした。  半年で、よくここまで成長したな、と自分を褒めてあげたくなる。  今の暮らしは、イグナスには合っていた。  王宮に比べたら、石ころほどの小さな家だけど、人が暮らしていくには十分な広さだ。  何より、静かで穏やかである。  本来イグナスは目立つことが苦手だ。王子の侍従という肩書きは、イグナスには分不相応だった。  ここでは自分はただの村人。実にしっくりくる。 「ただいま」  料理が出来上がり、皿に乗せたタイミングで、玄関から家主の声がして、イグナスはエプロンをつけたままひょこりとキッチンから顔を出した。 「おかえり、サリス」  イグナスの声に、サリスはにこりと微笑む。  イグナスは今、サリスとこの家で暮らしている。  正確には、サリスが所有するこの家を借りて、一人で暮らしているわけだが、こうやってときどき、サリスが顔を見にやってきてくれる。  あの夜、イグナスは誰にも内緒で王宮を離れた。  誰にも頼らず、新しい場所で生きていこうと、そう思っていた。  けれど、王宮の門を抜けたところで、イグナスは本当にたまたま、サリスと出くわしたのだった。  夜が終わり、朝が目覚めようとするその時間に、まさか知り合いが、しかもサリスがいるなんて思ってもいなかったイグナスは、「どこいくの?」と言うサリスの質問にうまく返事ができなかった。  押し黙るイグナスに、サリスは訊ねた。 「うちに来ない?」  最初は流石に断った。  いくら親しくしてくれるとはいえ、サリスはリュシアン家の跡取り。かなりの名家だ。  王城とまでは言わないだろうが、きっと大きなお屋敷なのだろう。  そこに自分が住むなんて、申し訳ない。  それに、くさっても自分は王子の元侍従。  そんな人間が、リュシアン家のお屋敷に身を寄せるということになれば、すぐにアルフレッドの耳のも届いてしまうだろう。  もう、アルフレッドとは一生会わない。  そう覚悟を決めて、王宮を出たのだ。  人間でもなく、人狼でもない自分の居場所は、きっとこの世界中、どこにもない。  ならばせめて、誰の手も届かぬところで、ひっそりと生きたいと思った。  そうすれば、自分を偽っていることに罪悪感を抱くことも、いつか正体を知られると怯えることもない。  それは少し寂しいだろうけど、半人狼の自分にはその選択肢しか、きっとない。  だからその申し出にも、イグナスは丁寧に断ったが、サリスは食い下がった。 「じゃぁ、俺の別荘においでよ」 「別荘……」 「僕はたまにしか使わないから」  別荘という、その響きに、イグナスは何やら嫌な予感がした。  アルフレッドと初めて会った日、連れて行かれた別荘は、想像よりもはるかに大きい屋敷だった。常時、複数の専属使用人が滞在しているほどだ。  貴族のスケールを侮ってはいけない。  イグナスは、その申し出も断った。  しかし、サリスは一度でいいから、と、イグナスを半ば強引に馬に乗せた。 「とりあえず、数日泊まりなよ。このままだと、泊まるところを決める前に、アルフレッドに見つかって連れ戻されちゃうよ」  確かにそうかもしれないと思い、イグナスはサリスの提案通り、数日だけ住むつもりで、サリスの別荘へ訪れた。  それは、木造の小さな家で、まさしくイグナスが想像していた庶民の家そのものだった。  訊ねてみると、どうやら自分専用の家らしく、サリス以外の人間は使わないと言う。  もちろん使用人はいない。 「ここなら誰にも知られない。落ち着くまでいたらいいよ」  サリスの穏やかな言葉に、イグナスはようやく頷いた。  それからもう半年が過ぎ、季節が変わる頃には、生活もすっかり慣れていた。  落ち着くまで、という約束だったのに、これは少し落ち着きすぎているんじゃないかと自分でも思う。  イグナスも、ただここで、料理の腕を磨きながらのんびり暮らしていたわけではない。  何度もこの家を出ていこうと思った。サリスに迷惑はかけられないし、誰にも知られず、ひっそりと生きるのだと。  しかしその度に、サリスに何やら説得され、いつの間にかまたここでのんびり暮らしているのだ。  サリスが持ってきた真っ白なパンと、イグナスが作ったスープを小さなテーブルの上に並べる。  今日は、裏のおばあちゃんからもらったひよこ豆とじゃがいもで作ったスープだ。  二人で向かい合って、手を合わせる。  サリスはスープを一口飲むと、顔を上げてイグナスを見た。 「美味しい! イグナス、どんどん料理がうまくなってきてるね」  そう言って微笑むと、次々にスープを口に運ぶ。  きっと家では、もっと豪勢な料理を食べているだろうに、サリスは、イグナスの料理をいつも美味しいと言って、残さず食べてくれる。本当にいい友人だ。  イグナスが、自分もスープを飲んでみるか、とスプーンを手にした時、サリスが頬杖をつき、にこにことイグナスに笑顔を向けてきた。 「どうしたんだよ」 「いや、髪の毛似合ってるなぁって」  イグナスは先月、腰まであった髪を肩ほどに切った。  元々は、切るのが面倒で、伸びていた髪だった。けれど、アルフレッドの好みが「長い銀髪」だと知ってからは、あえて伸ばすようにしていた。  それももう、何の意味もないけれど。  まるでアルフレッドへの未練のように伸びた髪を、この想いごと断ち切りたくて、サリスに頼んで切ってもらったのだ。  短くなった髪は、軽くて、このままどこまでも飛んでいけそうな気がした。 「ずっと言ってるな。そろそろ慣れろよ」 「いやぁ、あまりに似合ってるからさ。何度も言いたくなる」  恥ずかしい言葉をさらりと言ってのけるサリスに、イグナスは毎度感心する。  友人であってもこんなに褒めてくれるのだ。きっと恋人にはもっと甘いのだろう。  サリスからそういった恋愛の類の話は聞いたことがないけれど、学校でもモテていたし、きっと引くて数多なのだろう。  そんなことをぼんやり思いながら、イグナスは自身のスープに口をつけた。 「あ、美味しい」  先日、力仕事を手伝ったお礼にと、向かいのおじさんからもらった豚の腸詰めが、少しだけ余っていたので入れてみたのだが、大正解だ。  豚の脂が溶けて、スープに深みが出ている。  ――これ、きっとアルフレッドも好きな味だ。  そう言葉にしようとして、咄嗟に唇を噛んだ。  この半年、イグナスは一度もアルフレッドのことを口にしなかった。  それに気づいてか、サリスもその名を出さないでくれた。  その話題にだけは、あえて触れないようにしていたのだ。  けれど、考えないようにすればするほど、かえってそれが、アルフレッドへの想いを強くさせることを、イグナス知らなかった。  忘れようと思えば思うほど、日常の些細なことで彼を思い出す。  好きな食べ物。好きな色。好きな花。  天気の良い日に、土砂降りの日。  嬉しいことがあった時、悲しいことがあった時。  そのどれもで彼を思い出し、そのどれもで彼がいないことを実感するのだった。 「今日はもう帰ろうかな」  食事を終えて、二人で他愛もない話をしていると、サリスがそう言って席を立った。 「泊まってかないのか?」  いつもなら一度来たら二日は泊まっていくのに、珍しいなと思っていると、サリスが目を眇めた。 「そんな熱烈に誘われちゃったら、襲っちゃうよ」  いつものふざけた言葉に笑って返す。 「熱烈に誘ってなんかないだろ」 「泊っていかないのって、甘えてきたじゃん」 「耳の病院に行け。それに、そんな下心なんてないくせに」  そう言ってイグナスが笑うと、サリスは少し声のトーンを下げた。 「わかんないよ? 男はみんな狼だからね」  瞳は笑ったまま、けれど冗談と流すにはあまりに真剣な声色に思わず息を呑んだその時だった。  ふと窓の向こうから、低く長い狼の遠吠えが響いた。  それも一つではない。たくさんの狼たちの。  その鳴き声はバラバラだったけれど、波が押し寄せてくるように、徐々に近寄ってくるようだった。  数多の遠吠えに、地面の揺れさえ感じてしまう。  その異様さに、イグナスは動きを止めた。  目の前のサリスもそれを察知したようだった。 「イグナス、耳を出すんだ」  咄嗟にサリスから言われた言葉にイグナスは首を傾げた。  耳ならもう出ている。髪を短くしてから、よく見えるようになった。  次の瞬間、空気が変わった。  サリスの茶色の髪の間から獣の耳がひょこりと現れた。  滑らかな毛並みと、見覚えのある三角の形。  それは自分と同じ、人狼の耳だった。 「サリス……お前、まさか……」  言葉が震える。だって人狼はあの村にしかいないとばかり思っていたのだ。  驚くイグナスを横目に、サリスはサリスは目を閉じ、遠吠えに耳を傾けていた。   「嘘だろ……」  サリスが、言葉と同時に目を開く。そのサリスの瞳は焦燥で揺れていた。  イグナスはひどく嫌な予感がした。  サリスはイグナスに目を向けると、小さく息を整えてから口を開いた。 「イグナス……、落ち着いて聞いてくれ。王子が……アルフレッドが、襲われた」 「……え?」  耳に届いた言葉の意味が理解できなかった。  地に足がついていないような浮遊感に、現実じゃないような気さえしてくる。 「説明している暇はない。とにかくアルフレッドが危ないんだ。疑うのなら自分の耳で聞け」  いつもは穏やかなサリスの、切迫した声に、イグナスは息を詰める。  アルフレッドがどうしたのか。何があったのか  その答えを知りたくて、イグナスは白銀髪の間から銀色の耳を現した。  満月の力を借りずに耳を出すのは、十二年ぶりだった。  先ほどまでは狼の遠吠えに聞こえていた鳴き声が、言葉になってイグナスの鼓膜を揺らす。 『人狼部隊に告ぐ。最北の街ピューロにて王子が襲われる。瀕死の重症なり』  ――アルフレッドが……瀕死?  途端に、心臓の音が不規則に跳ね、呼吸が乱れた。  手は小刻みに震え、視界が霞んで見える。 「アルフっ……」  久しぶりに読んだその名前は、明らかに震えていた。  そんなイグナスを叱咤するように、サリスが声をかける。 「落ち着け、イグナス! 急いで向かおう、王子の元に」  サリスの金色の瞳が、イグナスをまっすぐ捉える。  イグナスは大きく頷いた。  アルフレッドにはもう会わないという覚悟は、一瞬でどこかに飛んで行った。  それよりも、今はアルフレッドの無事を確認したい。  もし何かが起きているのなら、彼のために戦いたい。その思いがイグナスを動かした。  二人はピューロに向かうべく、急いで準備をした。  しかし、最北の街ピューロまでは、ここから馬を使ってでもは一日半はかかる。  その間にアルフレッドにもしものことがあったら――。  そう考えるとまたしても足がすくんだ。  どうすればいいのか、そう思ったとき、サリスの身体がうごめきだした。  骨のきしむ音、毛が擦れる音。本来、身体からなるはずのない音とともに、瞬く間に膨れ上がる体積に、イグナスは思わず見入ってしまう。  次の瞬間、そこに立っていたのは、巨大な人狼だった。  その姿は、半人狼のイグナスから見ても、恐ろしい姿で、思わず怯んでしまいそうになる。  けれど、その目は穏やかで、いつものサリスのままだった。  サリスは小さく唸るような声を漏らすと、イグナスを見下ろす。 「言ったろ? 男は狼だって。背中に乗って。走ればすぐだ」  その軽い物言いに、イグナスの中に僅かにあった緊張は、すっと解けていく。  イグナスは、サリスの背中に飛び乗った。 「捕まって。飛ぶよ」  そう言うと、サリスは地面を蹴って大きく跳ねた。  風が音を立てて鼓膜を揺らし、木々が流れるように視界から消えていく。  すごいスピードだ。それでも、逸る気持ちが抑えきれず、イグナスは強く祈った。  ――もっと早く、もっと、もっと。  自分の足で彼の元へ向かうことすらできない自分が、不甲斐なく、情けない。  どうしてこんな時に傍にいないんだ。なんで守ってあげられなかったんだ。  後悔が、イグナスを襲う。  彼がそこに生きていてくれるだけで、そばにいれるだけで、それだけでいいと思ったじゃないか。  それなのに、欲をかいた。自分だけが愛されたいと願ってしまった。  けれど彼は一国の王子で。自分ではない誰かと結ばれる運命で。  彼のために、身を引かなければと思った。  ――いや、違うな。  イグナスは唇を噛んだ。  逃げたんだ。彼のためにと言い訳をして。自分のために。  自分が傷つくのを恐れて、逃げたんだ。  ――守ったのは、彼じゃない。自分自身だったんだ。  次から次に溢れ出る涙は、頬を伝う前に風がさらっていく。  イグナスはサリスの首に手を回しながら、小さく呟いた。  「アルフ、お願い、どうか無事で」

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