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第29話 お前のくれた名前
王都での反乱から、一週間が経った。
あれから、驚くほどの速さでエルヴェラナは変わっていった。
人々はもう、『人狼』という言葉を、口にすることを恐れなくなった。
人狼のカミングアウトも各地で起こり、気づいていなかったけれど、実は隣人が人狼だったなんて話もよく耳にするようになった。
歴史書には、“アルタリオンの悲劇”は「欲深い人間が起こした、人狼迫害の悲劇」と書き換えられ、人狼は三百年、国を陰で守ってくれた立役者だと付け加えられた。
もちろん、すべてが一夜で変われるわけではない。
けれど、人々は明らかに、彼らを受け入れようと、変わろうとしていた。
長い冬が終わり、春が訪れようとしていた――。
* * *
イグナスは大きな扉を前に、二回ノックをする。
「イグナスです」
名前を告げると、すぐに部屋から声が聞こえた。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けた先では、アルフレッドは寝台に寝ころびながら、本を読んでいる。
持っていた本からひょこりと顔が伸び、イグナスを見るや否や、わずかに眉をひそめた。
「ちょっと最近、働きすぎじゃないか」
明らかに不服そうな声に思わず苦笑う。
イグナスはアルフレッドの元へ近づくと、持ってきた薬瓶の蓋を開け、寝台の端に腰掛けた。
「まぁ、変革の時だからな。人手がいくらあっても足りないんだよ」
あの広場での一日から、イグナスは休む間もなく働いた。
人間と人狼の橋渡しとして、王直々に相談されることも多くなり、昼も夜も各地を駆け回っている。
それでも一日の終わりにはこうして、アルフレッドの背中の傷に薬を塗り、できるだけ二人の時間を作るようにしているのだが、それでもアルフレッドは気に入らないらしい。
「お前、いつから王の侍従になったんだよ。お前は俺の、侍従だろ」
不貞腐れたように唇を尖らせるアルフレッドは少し幼く見えて、とても愛しく思う。
「寂しいのか?」
揶揄い半分で訊ねると、アルフレッドは真剣な表情を見せた。
「ああ、寂しい。最近放っておかれすぎているからな。ちゃんとお前が誰のものか、わからせておかなければと思ってな」
「お……俺は物じゃない」
素直すぎるアルフレッドに、思わず照れそうになりながらも、平静を装ってみる。
耳朶がじんわり熱を持つ。
最近のアルフレッドはすごい。
『こいつ俺のことが本当に好きなのだな』とイグナスが調子に乗ってしまうくらい、想いを言葉にしてくれる。しすぎだってこちらが困ってしまうほどだ。
「そんなことより、ほら、薬を塗るぞ」
はやく話を変えたくて、ぶっきらぼうに薬を手に取るものの、アルフレッドは背中をこちらにむけるどころか、一向にシャツをめくらない。
「……いや、いい。今日は自分で塗る」
アルフレッドはイグナスの手から薬瓶を奪った。
イグナスはそれに少なからず落ち込む。
なぜなら、イグナスにとってアルフレッドとのこの時間は、日々の一番の楽しみなのだ。
ここ最近忙しいせいで別々に過ごしている二人には、今だけしか一緒にいられる時間はないのだ。
そんな楽しみを奪われて、イグナスもついむきになり、アルフレッドの手から薬瓶を奪い返す。
「これは俺の役目だから」
「いい、自分で塗れる」
「いや、俺が塗る」
お互いに一歩も引かず、薬瓶が二人の間を往復する。
両者一歩も譲らない状況の中、先にしびれを切らしたのはアルフレッドだった。
「……つんだよ」
ぽつりと言葉をこぼすアルフレッドは、なぜか頬がわずかに染まっている。
「え?」
「だから、お前に触られると……勃つんだよ!」
アルフレッドは拗ねるように、イグナスに背中を向けた。
あまりに直球な言葉に、イグナスは目を見開いた。
笑えばいいのか、照れればいいのか、怒ればいいのか、反応に迷う。
沈黙が漂い、外で風が窓を叩く音だけが部屋に響く。
王宮に戻ってから、イグナスは毎日、いつアルフレッドとそうなってもいいように、準備だけはしていた。
けれど、待てど暮らせどアルフレッドから手を出される気配は全くない。
最近は、もしかしてアルフレッドは淡白な方で、そういうことには興味がないのかと思っていたがそうかアルフレッドも自分を意識してくれていたのかと、素直に嬉しさが募る。
静寂をアルフレッドの声が破った。
「最近忙しいみたいだし、告白の返事は待とうって思ってる。けど……毎晩背中にいやらしく触れられるのは……正直、生殺しだろ」
別にいやらしくなんて触ってない。そう言い返そうとして、イグナスは、「ん?」と頭をひねった。
そういえばたしかに告白の返事をまだしていない。
ピューロで思いを伝えられた時、イグナスも返事をしようと思っていた。
けれどサリスとライネルがやってきて、そのまま王都へ向かい、あれよあれよと今に至り、すっかり忘れてしまっていた。
律儀に自分からの告白の返事をまつアルフレッドが、可愛く見えて仕方ない。
自分よりずいぶん背丈も高く、体つきもがっしりしている相手に『可愛い』なんて変だろうか。でも、それが一番しっくりする彼の形容なのだ。
早く気持ちを伝えたい。自分がどれだけ彼が好きか、知ってもらいたい。
そう思うものの、照れからか、言葉がうまく出てこない。
心の中では何度も言った『好き』という二文字が、こんなにも口にするのが難しいとは思ってもみなかった。
イグナスは言葉で伝える代わりに、そっとアルフレッドに手を伸ばした。
そして、すねてそっぽを向いているアルフレッドを背中からそっと抱きしめた。
「俺も……同じ、気持ち。アルフと、一緒」
口から出てきた言葉は、ついぎこちなくなってしまう。
それでも、思いだけは十分に込める。
ドッドッドッと、驚くほど速く脈打つ心臓は、自分のものかアルフレッドのものか、もはやよくわからない。
違うリズムで脈打っていた心臓が一つに重なりかけたとき、アルフレッドはイグナスの腕をつかんで振り返りると、まっすぐにイグナスを見つめた。
キスでもされるのだろうか。そう思った時、アルフレッドの声が降ってきた。
「おかえり、イグナス」
それは穏やかで温かくて、涙が出るほど優しい声だった。
ここがお前の居場所だとでも言うように、アルフレッドは正面からイグナスをギュッと強く抱きしめてくれた。
「た……、ただい……ま」
途端に喉元までせりあがった感情に、思わず声がかすれてしまう。
涙があふれてほろりとこぼれる。
――ああ。ここが、俺の帰る場所なんだ。
帰る場所なんてないと思っていた。
受け入れてくれる人なんて、いないと思っていた。
でも、今は違う。
アルフレッドがいる。
アルフレッドだけが、自分の帰る場所なんだと、そう思える。
「ずっと聞きたかったんだけど、半年……どこにいたんだよ。国中探したんだぞ」
悲しみが滲んだ声に、心臓がきゅうっと締めつけられる。
ガルバからも少し聞いていたが、本当に自分を探していてくれていたと知り、胸いっぱいになる。
王宮を出てから、イグナスも毎日アルフレッドのことを考えていた。寝てはアルフレッドの夢を見て、起きてはアルフレッドを想って。
そばにいた時以上に、ずっと彼でいっぱいだった。
けれどそれは、アルフレッドも同じだったんだ。
離れていても、ずっとお互いを思っていた。その事実がこんなにも嬉しいなんて。
「実は、サリスの別荘に置かせてもらってたんだ」
嬉しさに胸を高鳴らせながらそう口にしたとたん、イグナスの声色が急変した。
「は?」
抱きしめていた手が緩み、イグナスの体をバッと離すと、真正面から顔を覗く。
「あいつと半年暮らしたってことか?」
あまりに真剣な表情に、イグナスは思わず目を瞬かせた。
「……暮らしたっていうか、空いてた家を貸してもらっただけだ。たまに様子を見にきてくれて、一緒にご飯食べたり、泊まっていったり……、色々気にかけてもらったんだ」
サリスにも改めてお礼を伝えておこう。そう思っていると、アルフレッドの顔がグッと近づいた。
「……一緒に寝たのか?」
「はあ?」
「サリスと、一緒に寝たのか?」
再び同じ質問を投げかけられ、イグナスは眉間を深めた。
「なんだよ急に。ってまぁそうだな……って、あっ、勘違いするなよ! もちろん違うベッドでだぞ」
言葉通りただ隣に寝ただけだ。
アルフレッドの質問は続く。
「……同じ部屋で?」
「ああ、そうだけど」
そもそもサリスの別荘はそれほど大きな家ではない。ダイニング以外に、部屋は寝室しかないため、寝るなら必然的に同じ部屋になる。
「あいつ絶対寝顔見たな……」
アルフレッドはそう呟いたあと、ハッと何かを思い出したように目を見開いた。
「もしかして、その髪切ったのって……」
「ああ、これか? うん、サリスに切ってもらった」
さらりと告げると、アルフレッドはなぜか片手で頭を抱えて溜息を吐いた。
「いいか。もう二度とサリスと二人になるな。……いや、もういっそのこと金輪際話すな。話しかけられても全部無視しろ」
「無茶言うな」
急に余裕を無くしているアルフレッドがおかしくて、イグナスは思わず笑った。
その笑顔に、アルフレッドが一瞬だけ目を瞠る。
「……かわいい」
慣れない言葉に、イグナスの心臓が跳ねた。
「な、なんだよ、急に!」
声が裏返る。そんな言葉、言われ慣れてなさ過ぎて、どんな反応をすればいいのかわからない。
「ずっと心の中で言ってた。思いが通じ合ったんだから、これからは毎日言う」
毎日なんて言われたら、こちらの心臓がもたない。
イグナスは耳まで真っ赤に染めながら、ただ俯くしかなかった。
その時、アルフレッドの長い指が、イグナス耳に触れ、首筋を通って、シャツのボタンで止まった。
「お前に触れたい。……だめか?」
視線をあげると、アルフレッドは祈るような瞳でこちらを見つめていた。
そんな顔して言われたら、断れるわけがない。もちろん断る気なんて最初からさらさらないけれど。
イグナスは何も言葉にせず、ただ静かに、こくりと頷いた。
アルフレッドの指がイグナスのタイをシュルリと外す。
そのまま、ベストのボタンを一つずつ外し、指先がシャツの襟元にかかる。
「……なんでこんな脱がせにくい服を着てんだ」
「使用人の制服なんだから仕方ないだろ」
そもそもお前の命令で着てるんだ。
そう言い返したくなるのを、イグナスはぐっと飲み込んだ。
アルフレッドは小さく舌打ちをする。
「これからは裸で過ごせ」
「無茶いうな」
互いに顔を見合わせて、思わず笑った。
こんな時まで、自分たちらしい。
躊躇いも、遠慮も、少しばかり胸をかすめていた緊張も、アルフレッドが、ゆっくり溶かしてくれる。
アルフレッドはイグナスの服を手際よく脱がせると、イグナスを寝台に寝かせた。
そして、イグナスの唇に自身のそれをゆっくり重ねた。甘く柔らかなキスに、脳の先まで溶けそうになる。
唇がゆっくり離れ、アルフレッドがイグナスを見つめる。
「本当のお前が見たい……見せてくれないか」
いつもは高慢なくせに、こうして祈るように哀願されるとつい何もかも与えたくなる。許してしまう。
その願いを叶えたくて、イグナスは恥じらいながら、耳と尾を出す。
「やっぱり綺麗だな」
アルフレッドはまるで眩しい光でも見るように、目を眇めた。
「この前は大勢にこの姿を見られて……、嫉妬で狂いそうだった」
尾の毛並みに指を絡ませて、優しく撫でるアルフレッドの手つきに、それだけで快感が押し寄せてくる。
「アルフ」
「ルシウス」
イグナスが名前を呼んだのに呼応するようにポロリとこぼれたその名前に、イグナスはただ目を瞠った。
ルシウス=アングレム。それはイグナスの本当の名だった。
「なんでその名を……?」
そうイグナスが訊ねると、アルフレッドは気まずそうに視線を泳がせた。
「前に、ピューロで知り合いと話してるところを見て……聞こえた」
すぐにいつのことか分かった。
あの時のあの会話を、アルフレッドは聞いていたのか。
「本当の名前はルシウスっていうんだな。なあ、頼む。二人のときはそう呼んじゃだめか? 本当の名前を呼んで、お前を抱きたいんだ」
久しぶりに呼ばれた名前に、イグナスの胸が熱くなる。
けれど、イグナスは頭を横に振った。
「……だめだ」
アルフレッドの表情に僅かな悲しみが浮かぶ。
――だって。だって俺の名前は。
「俺の名前は、イグナス=グランディエだ。アルフ、お前がつけてくれたこの名前が……この名前だけが、俺の名前だ」
そういうと、イグナスは泣きながら微笑んだ。
その涙は決して悲しみの涙ではない。嬉しくても涙が出ることを、イグナスは今日初めて知った。
アルフレッドが名前をくれた。
アルフレッドが生きる意味をくれた。
アルフレッドが帰る場所をくれた。
アルフレッドが――アルフレッドだけが、人を想う温かい気持ちを教えてくれた。
「アルフ、ずっと一緒にいよう」
そう言って、イグナスはまたアルフレッドにキスをした。
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