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第12話
客室区画へ続く重厚な自動隔壁が静かに閉じると、艦内特有の低い振動音だけが耳の奥で唸り続けていた。
全長十キロを超える巨大戦艦、ブラックシールド旗艦。
その内部は驚くほどに静まり返っており、人工重力制御も完璧に行き届いていた。高級ホテルのような廊下を進み、客室区域の最奥にある部屋の前に立つと、センサーが感知して重いドアが滑らかに開く。
一歩足を出した客室区画は、先ほどまでの無機質な医務室とは一変し、高級居住区特有の微かな芳香が漂っていた。
「首領!」
聞き慣れた声と共に駆け寄ってきたのは、鮮やかな赤い髪の男――ジェイスだった。
マイトは弾かれたようにその肩を強く掴み、彼が確かに生きていることを確かめる。掌から伝わる確かな体温に安堵が広がるのと同時に、大切な部下にこんな過酷な運命を強いたディアスへの凄まじい憎悪が、胸の奥で再び鎌首をもたげた。
「……悪かった。俺のせいで、お前らまで」
「やめてください」
ジェイスは即座に首を振り、マイトを真っ直ぐに見つめ返した。
「首領が謝ることじゃありません。俺たちは生きています。生きてさえいれば、何とかなる」
その瞳に宿るのは、いかなる絶望の淵にあっても揺るぎない絶対的な信頼だった。マイトはジェイスの背中に手を回して引き寄せながら、背後に佇むディアスを射殺さんばかりの視線で睨み据え、拳をきつく握りしめた。いつか必ず、この男を地獄の底へ引きずり落としてやる、と心の中で誓いながら。
だが、その怒りと絆に満ちた光景を入り口で静かに見つめていたディアスは、どこか疎外感を覚えたように、ふっと影のある目を伏せた。
「いい部下だね」
「当たり前だ。俺の自慢だからな」
マイトの敵意に満ちた即答を聞いた瞬間、ディアスは胸の奥が不快に軋むのを感じた。羨望とも嫉妬ともつかない、今まで味わったことのない冷たくて重い感覚。
ディアスには、完璧に統率された無敵の軍隊がある。恐怖と圧倒的な力で支配し、自分の命令一つで命すら投げ出す部下なら、星の数ほど囲ってきた。しかし、目の前の二人の間に流れるような、互いの魂を補い合う純粋な繋がりだけは、何十年の歳月を費やしても、どれだけ宇宙から略奪を繰り返しても、決して手に入らないものだった。
「……なんか」
ディアスは無意識のうちに、自身の胸元へ冷たい手を当てる。
「イラッとするね」
「はァ? 何がだよ」
マイトが牙を剥くように低く凄むと、ディアスは困ったように、けれど微かな虚無感を瞳に滲ませて微笑んだ。
「分からないな。理由を聞かれても思いつかない」
自分の心であるはずなのに、解析不可能なノイズが混じり続ける。ディアスはどこか曇った瞳でマイトとジェイスを見つめ直した。その胸の奥底で、かつて遥か過去に失ったはずの何かが、癒えぬ痛みと共に深く疼いていた。
ディアスはそれ以上の追及を遮るように、奥にある扉の前に立つ。
「部屋は好きに使っていいよ。君の部下も一緒だから安心だろう?」
ディアスは躊躇なく中へ入ると、ジェイスを長い指先で指し示した。そのまま壁際へ歩み寄り、壁面に埋め込まれた最新式のウォーターサーバーへと美しい手をかざす。
青白い光が走り、薄く削り出された透明な高級グラスへ、冷水が静かに満ちていく。
「医療用ナノマシンを大量に使ったからね。今の君の身体は、自覚している以上に水分を欲しがっているはずだ」
マイトは返事もしなかった。ただ、目の前に差し出されたグラスと、それを生み出した美貌の悪魔を憎々しげに睨みつける。
本当は、喉が焼けるように渇いていた。あの特攻から何日が経ち、どれほどまともに飲み食いしていないのかも、朦朧とした頭では思い出せない。
「……首領」
背後から、ジェイスが痛々しいほどに低い声を掛けた。
「水だけでも、飲んでください」
マイトは小さく舌打ちをすると、渋々といった様子でディアスからグラスをぶんどるようにして受け取った。
ひんやりと冷えた透明なガラス。薄く精巧に作られたグラスの中で、水面が静かに揺れている。
喉の渇きは限界だった。ほんの少しだけでも唇を湿らせようと、マイトがグラスを口元へ運ぶ。
その、瞬間だった。
ブゥン――。
船内を流れていた均一な照明が、不規則に激しく明滅した。
「……?」
ディアスが怪慣そうに美しい顔を天井へと見上げる。
次の瞬間、プツン、と艦内のすべての灯りが完全に落ちた。
圧倒的な闇。
視界が一瞬にして、底知れない黒へと塗りつぶされる。
「停電……!?」
ジェイスが微かに呟いた、その刹那。
甲高い電子警告音が、爆音となって船内へ響き渡った。
《WARNING》
《MAIN POWER FAILURE》
《EMERGENCY SYSTEM ENGAGED》
ピィィィィィィィッ――――!!
鼓膜を狂暴に貫く非常警報。同時に、巨大な船体全体が僅かに不自然な角度へと傾いた。
主電源の停止により、完璧だった人工重力制御が瞬間的に失われたのだ。身体がふわりと宙へ浮き上がるような、内臓が裏返るような奇妙な浮遊感がマイトを襲う。
「……ッ!」
驚愕にマイトの指先から力が抜け、グラスが手から離れた。
普段の正常な状態なら、局所重力制御フィールドが作動し、落下物は床へ衝突する前に自動で減速される。だが今は違う。安全制御システムそのものが完全に機能停止していた。透明なグラスは、無重力に近い空間をゆっくりと漂っていく。
その直後、今度はバックアップの非常重力が一気に復旧した。
ドガァンッ!!
引きずり下ろされるような急激な重力の復活。逃げ場のない質量を受け、空間を漂っていたグラスは容赦なく硬い床へと叩きつけられた。
凄まじい衝撃音とともに、強化ガラスが粉々に砕け散る。
鋭い破片が四方八方へと弾け飛び、床を滑り、壁へとぶつかりながら、乾いた破砕音が立て続けに暗闇に響き渡った。
ガシャァァァン!!
その、ガラスの砕ける音。
直後にパチパチと回り始めた、赤く点滅する非常灯。
耳を劈くような警報の音。
足元の床を激しく揺らす駆動の衝撃。
それらすべてが引き金となり、一瞬にして、マイトの脳裏に深く焼き付いていた忌まわしい記憶の檻をこじ開けた。
「……ッ!」
マイトの蒼い瞳の瞳孔が、恐怖に大きく開く。視界がぐにゃりと歪んでいく。
今いるはずの整った客室が、全く別の、地獄のような場所へと強制的に塗り替えられていく。
赤い警報灯。火花を散らす剥き出しの配線。船体を容赦なく貫く絶望的な衝撃。
『重力安定装置、損傷!!』
『船体各部に無数の亀裂!!』
『あと十五分で重力崩壊が始まります!!』
違う。これは、あの時の――。
ブラックシールドへ体当たりを敢行した、あの決死の日の記憶だ。
しかし、それだけでは終わらない。その記憶のさらに奥から、もっと泥泥とした、引きずり出されたことのない古い記憶が濁流のように押し寄せてくる。
激しい炎。
視界を覆う黒煙。
絶望に泣き叫ぶ女性の声。
それを見上げる、あまりにも無力で幼い自分。
激しく揺れる、見知らぬ船内。
『海賊だッ!!』
『早く隔壁を閉じろ!!』
『子どもだけでも守るんだ!!』
違う……。知らない。こんな記憶、俺は知らないはずだ。
「いや……止めろ……ッ!」
頭の中で二つの記憶が激しく衝突する。現在と、つい数日前の過去。そして、それらを侵食していく見覚えのない幼少期の恐怖。
大人であるはずの自分と、怯える幼い子供の境界が、音を立てて脆く崩れていく。耳鳴りが金属音となって頭蓋骨の裏で鳴り止ない。
心臓が喉元までせり上がるほど激しく脈打ち、激痛を伴って息が吸えなくなる。肺が、まるで内側から押し潰されるように苦しい。
「首領! しっかりしてください、首領!!」
必死に自分を呼びかけるジェイスの声も、今のマイトの耳にはもう届かなかった。
世界は不気味に回転する赤い非常灯の色だけに染まり、マイトは狂いそうになる頭を両手で激しく抱えたまま、逃げるようにその場へと崩れ落ちた。
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