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第13話

「首領!」 ジェイスが咄嗟に駆け寄ろうとした、その瞬間だった。 「触るな!」 鋭く張り詰めた声が部屋を切り裂いた。 先ほどまでのどこか冷ややかな口調とはまるで違う。 感情を一切排し、純粋な命令だけを通す硬質な声だった。 「無理に押さえ込むと症状が悪化する!」 ディアスのただならぬ気配に、ジェイスは反射的に足を止めた。 目の前では、マイトが床に砕け散ったガラス片の中へ容赦なく膝をつき、自身の頭を破裂しそうなほど強く抱え込んだまま激しく震えていた。呼吸は完全に浅く乱れ、肩が壊れそうなほどに上下している。 「……ッ、は……っ、は……ッ、あ……ッ!」 喉は必死に酸素を欲して喘いでいる。 だが、肺はその要求を拒絶するように硬く縮こまり、一向に空気を受け入れてくれない。息を吸おうとすればするほど胸元だけが激しく締め付けられ、必要な酸素が身体へと行き届かなくなっていく。 唇から急速に血の気が引き、その健康的な褐色の顔色は見る間に痛々しい青白さへと変わっていった。 額からは玉のような冷や汗が次々と流れ落ち、顎のラインを伝って床のガラス片へと滴っていく。焦点の定まらない蒼い瞳は、目の前にある客室ではなく、全く別の凄惨な光景を見つめていた。 赤い非常灯。 鳴り響く警報。 激しい炎。 そして、意識の底に眠っていた遠い昔の記憶。 現在と過去、二つの破滅の境界が完全に崩れ落ち、脳内で濁流となって混ざり合い始めていた。 「過換気症候群……いや、違うな」 ディアスは躊躇うことなく、床のガラス片を踏み越えてマイトの前へ片膝をついた。 左手首の医療端末へ滑らかに親指を滑らせると、青白いリング状の光が静かに広がり、空中へと何層もの半透明なホログラムディスプレイが展開される。淡い光が闇に包まれた部屋を青く照らし出し、医療用AIが自動で起動した。 電子音とともに、無機質な機械音声が流れる。 《生命反応をスキャン中》 《生体認証完了》 青白いレーザーが、激しく取り乱すマイトの身体を頭頂部から足先までゆっくりと走査していく。骨格、筋肉、血流、神経伝達、そして脳波。あらゆる生体情報がリアルタイムで解析され、ディアスの目の前へ緊迫した数値となって浮かび上がった。 ――― 心拍数:194 bpm 血圧:198 / 121 血中アドレナリン:危険域 脳波:γ波異常増幅 扁桃体:極度興奮状態 ――― ディスプレイを見つめるディアスの完璧な美貌から、完全に笑みが消え失せた。 「やっぱり、か……」 低く漏らした声には、彼にしては珍しく、微かな焦燥が滲んでいる。 「精神性ショックだ」 ジェイスは険しい表情のまま、ガラス片を握りしめるような勢いで拳を固め、マイトを見つめた。床に散乱した鋭い破片など気にも留めず、今すぐにでも駆け寄りたい衝動を必死に抑え込んでいる。 「そんなに、悪いんですか……!」 「思った以上にね」 ディアスはホログラムから目を離さないまま、静かに言葉を刻む。 「身体の傷じゃない。心が限界を超えているんだ」 マイトは現実の音を拒絶するように耳を強く塞ぎ、何度も、何度も狂ったように首を横に振っていた。 「違う……そんなんじゃねぇ……っ」 「来るな……触るな……ッ!」 掠れた声が絶望を伴って漏れる。彼に見えているのは、この静かな客室ではない。 激しく燃え上がる旅客船。降り注ぐ無慈悲な砲火。逃げ惑う人々の悲鳴。そして、あの黒い戦艦へと死を覚悟して体当たりを敢行したあの日。 呼び覚まされた二つの記憶が境界を失い、互いの領域を狂暴に侵食していく。 「兄……ちゃん」 ディアスの手が、ピタリと止まった。 「兄ちゃん……どこだよ……っ」 その掠れた一言に、ジェイスも思わず息を呑んだ。 兄? 首領に、兄弟なんていたのか。 ジェイスは深く眉を寄せる。幼いマイトを先代のオヤジが拾ってきた時、マイトはたった一人であり、周囲に他の子供の影など微塵もなかったはずだ。 家族構成――不明。 保護時記録――身元不詳。 傷病記録――なし。 ディアスが先ほどマイトの体内に埋め込まれたIDチップから読み取った公的記録にも、兄弟の存在を示すデータなどどこにも存在しなかった。 その時、医療AIが新たな赤色のアラートを表示した。 《未知の記憶領域を検出》 《長期記憶アクセス異常》 「……?」 ディアスは美しく端正な眉をひそめる。 その間にも、マイトの身体症状は急激に悪化の一途を辿っていた。全身の筋肉が異常に硬直して指先は痙攣を始め、激しい悪寒に襲われたように細かく震え出している。呼吸はさらに浅く、速くなり、肺の形を浮き上がらせるように胸が苦しげに上下していた。このままでは過呼吸による酸欠で脳に深刻なダメージが及ぶ。 ディアスは傍らに置いた医療ケースを開き、銀色のアンプルへと長い指を伸ばした。 高濃度ニューロスタビライザー。中枢神経を強制的に鎮める強力な鎮静剤だ。 しかし、その指先が接触する寸前でぴたりと止まる。 「……いや、違う」 ディアスは小さく呟いた。 鎮静剤を投与すれば、この肉体的な発作自体は今すぐ止められる。だが今、マイトの脳は極限のパニック状態で、自らを守ろうと必死に防衛反応を働かせている最中だ。この段階で外部から強制的に意識を遮断すれば、その防衛反応そのものが不完全に固定され、脳機能や記憶に不可逆な障害を残す危険性が極めて高かった。 ディアスは静かにアンプルをケースへと戻した。代わりに薄いフィルム状のニューロパッチを取り出すと、迷いなく自らの掌へと貼り付ける。淡い青い光がディアスの掌全体を包み込み、患者との神経同調モードが起動した。 ディアスはゆっくりと、マイトの正面へと膝をつき直す。 「マイト君」 返事はない。マイトの蒼い瞳は虚空の一点だけを見つめ、完全に凍りついている。 「オレを見てごらん」 瞳は揺れない。瞳孔は完全に開ききっている。 「吸わなくていいよ」 ディアスはマイトの顔を覗き込み、自分自身が深く息を吐き出して見せた。 「まず、吐くんだ。オレに合わせて」 一定のリズムを刻みながら、何度も。何度も。 「ゆっくり。そうだよ」 「吐いて」 「大丈夫。ここは安全だ。誰も君を傷つけはしない」 その穏やかで、しかし絶対的な響きを持った一言だけが。 混濁しきったマイトの意識の底へと、微かに届いた。マイトの開いた瞳が、かすかに焦点を結ぶように揺れる。 「……は……っ」 細い息が、肺の奥からようやく漏れ出た。 「そう。上手だね」 ディアスは優しく、母親が子供をあやすように穏やかに頷いた。 「そのまま。もう一回、吐いて」 少しずつ。本当に少しずつ、荒れ狂っていたマイトの呼吸だけが、元の規則正しいリズムを取り戻し始める。 だが、その瞬間だった。 ピッ、と医療AIが短い、しかし決定的な警告音を鳴らした。ホログラムの画面全体が、血のような赤色に染まり、深刻な警告文が次々と上書きされていく。 ――― 《高次脳機能異常を検出》 《海馬活動 急速低下》 《記憶保護アルゴリズム 自律起動》 《精神保護機構 作動》 《外傷性ストレス反応 危険域》 《海馬アクセス遮断を開始》 《長期記憶を一時保護します》 ――― ディアスは思わず息を呑んだ。 「まさか……」 医学校時代、ごく稀な症例映像の中でしか見たことがない現象だった。極限の精神的外傷を受けた患者の脳が、自らの崩壊を防ぐために発動させる、絶対的な自己防衛反応。 心が完全に壊れてしまうことを拒み、脳自身が、過去の記憶へと繋がる扉を自ら内側から閉ざそうとしているのだ。 「止められないのか!」 ジェイスが圧し殺した低い声で尋ねる。 ディアスは静かに、首を横へと振った。 「もし無理に止めれば……」 言葉が一時、喉の奥で引っかかる。 「人格そのものが融解し、完全に壊れる可能性がある」 医師としての冷徹な判断が告げていた。今できることは、ただ一つだけ。患者の心が生き延びるために選んだその防衛反応を、牙を剥くことなく静かに見届けることだけだ。 やがて、マイトの身体から、ふっと不自然なほどに力が抜けた。 激しかった肩の震えがピタリと止まり、限界まで強張っていた褐色の指先が、床の上でゆっくりと開いていく。 荒れ狂っていた呼吸も、いつしか静かで規則正しく深いものへと変わり、苦痛に歪んでいた長い睫毛が、静かに閉じられた。 ホログラムのディスプレイには、冷徹な最終メッセージが表示される。 ――― 《記憶領域の隔離を完了》 《患者を精神保護モードへ移行します》 ――― 深い、重苦しい静寂が部屋を包み込んだ。 床に散乱した高級グラスの破片だけが、回転を続ける赤い非常灯の光を浴びて、淡く赤黒く光っている。 ディアスは自らの足元で、深い眠りに落ちたマイトの顔を静かに見下ろしたまま、しばらくの間、微動だにしなかった。 自分は、この男を横に置き自分の手で守りたかったはずだ。完膚なきまでに壊したいわけじゃない。 どうして、こうなった。 その問いかけは、ディアスの中に答えはなかった。

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