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第14話

身体が重い。 まるで鉛でも全身の骨へ流し込まれたように、指一本動かすことさえ億劫だった。 瞼もひどく重い。 意識がゆっくりと浮かび上がるたび、全身の筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。 「い……ッ、て、ェ………」 思わず額へ掌を当てようとしたが、腕が思うように上がらない。頭の芯が鈍く痛む。動かす腕には、いくつものチューブや細い電線が張り巡らされていた。こめかみを締め付けられるような痛みと、何か大切なものがごっそり抜け落ちてしまったような、言葉にできない奇妙な空虚さが胸の奥を支配していた。 ゆっくりと瞼を開いて起き上がろうと身じろぎすると、ぼやけた視界の向こうから、見慣れた赤い髪が飛び込んできた。 「……首領!」 悲鳴にも似た声だった。 赤髪の青年――ジェイスは安堵したように目を潤ませ、慌ててマイトの肩を支えて、彼が起き上がるのを手助けする。 「……ン……あ……ジェイ……?」 返事をしようと口を開くが、掠れた声しか出ない。喉は砂漠のように乾ききり、自分の声とは思えないほど低く濁っていた。 「なんか……身体……めちゃくちゃいてえ……」 胸が痛い。腕も、腹も、脚も、全身が酷く軋んでいる。 呼吸をするだけで肋骨が鳴り、肺の奥まで焼けるようだった。今まで海賊として無茶な怪我は何度もしてきた。だが、身体の内側すべてが木っ端微塵に壊れているようなこの痛みは、生まれて初めての経験だった。 「目が覚めたんだね」 柔らかな声が、静かに耳元へ届く。 「身体の回復は順調だよ。あれだけの無茶をしたんだから、痛みが残るのは仕方がない」 痛む首を動かして視線を向けると、ベッドの傍らに白いメディカルコートを纏った青年が立っていた。 肩まで流れる、ゆるく波打つ艶やかな黒髪。雪のように白い肌。右目を覆う黒いアイパッチ。そこから覗く唯一の左眼は、吸い込まれそうなほど澄んだ黒だった。まるで古い宗教画から抜け出してきた天使のような、息を呑むほどに美しいひと。 めっちゃ好みだなぁ。 「精神状態も安定しているみたいで安心したよ。心まで完全に壊れてしまったかと思ったからね」 マイトは瞬きを繰り返しながら、その顔をじっと見つめた。 知らない。こんな整いすぎた綺麗な顔、一度でも見たら絶対に忘れるはずがない。 「あー……」 マイトは困ったように、動く方の手でボサボサの金髪を掻いた。 「アンタ……誰だっけ。ここの看護師さんか?」 室内の空気が、完全に停止した。 ジェイスが息を呑み、ディアスの動きが止まる。そんな二人の動揺にも気づかず、マイトは照れくさそうに鼻先を指で擦った。 「悪ィ。いやぁ……あんまり綺麗で好みドンピシャだからさ、思わず見惚れちまったんだよ。でも俺……アンタみたいな美人と会ったことあったっけ?」 その、曇りひとつない無邪気な笑顔。 ディアスの黒い瞳が、僅かに驚きに揺れた。 ――忘れている。 それも、こちらの警戒を誘うような演技ではない。初めて出会った日のマイトが湛えていた、野生動物のようなギラギラとした輝き。 ディアスに向けられていたはずの激しい恐怖も、嫌悪も、怒りも。あの特攻の瞬間にマイトの瞳を支配していた凄まじい憎しみすらも、何ひとつ残っていない。ディアスは静かに息を呑んだ。 医療AIの診断は正しかったのだ。記憶を失ったのではない。心が、これ以上の崩壊を防ぐために、自らその扉を完全に閉ざしたのだ。 「あ、ああ、オレは……」 ディアスが、戸惑いを隠して自己紹介をしようと口を開いた、その時だった。 「えええっ!? オレって……」 マイトが突然、シリアスな空気をぶち破るような大声を上げた。 「ちょ、待て! アンタ、もしかして男なのか!?」 マイトはディアスの顔を何度も見返し、信じられないというように目を丸くして首を振る。 「うわぁ……マジかよ。こんだけ綺麗なのに男って、めちゃくちゃもったいねぇなぁ! ジェイ! お前もそう思うだろ!?」 その、屈託のない呼び方に。 ジェイスの身体が、びくりと激しく震えた。 ――ジェイ。 その呼び名は、今の《エブラハム・ロジャー》には存在しないはずのものだった。まだマイトが正式な首領ではなく、跡継ぎ候補の若頭だった頃。先代の船長が健在で、マイトが周囲から「若様」と呼ばれていた時代だけの、古い呼び名。 船を正式に継いだ日。皆の前で照れくさそうに笑いながら、マイトは言ったのだ。 『もう若じゃねぇ。今日から俺が首領だ。これからはちゃんと首領って呼べ。ジェイ、お前もな』 それ以来、ジェイスは一度も彼を「若」とは呼ばず、マイト自身も自分を「ジェイ」と呼ぶことはなかった。あの、決死の特攻を仕掛ける最後の瞬間を除いて。 なのに今、マイトは何の違和感もなく、当然のようにその懐かしい名を呼んでいる。ジェイスは喉が詰まる思いのまま、震える口を開いた。 「まあ、綺麗だとは、思いますが……首領」 反射的に呼ぶとマイトは、きょとんとした顔で目を丸くした。 「首領?」 マイトは首を傾げて、へらりと笑う。 「なんだよそれ、俺ぁまだ正式に船長になってねえじゃねぇか。首領なんて呼ばれんのは、まだ早ぇって」 ジェイスの顔から、完全に血の気が引いた。 「若……」 今度は、昔の呼び方で、震える声を絞り出す。 「オヤジさんから船を預かって……今、どれくらい経ちましたっけ」 「ん?」 マイトは指を折って考え始める。 「あー、アレから半年……くらいかな。オヤジが、しばらく俺がこの船を預かれって言って降りたの、確か夏だったよな。でもあの人、現役辞める気なんか全然ねぇぞ」 苦笑して肩をすくめるマイト。 「早く元気になって戻ってきてくれりゃ助かるんだけどなぁ。まだまだ俺なんか半人前だしさ」 その笑顔は、本当に心からそう信じている人間の顔だった。ジェイスは絶望に言葉を失う。 先代のオヤジは、もうこの世にはいない。一年前、長い闘病の末に静かに息を引き取った。最期までマイトの手を握り、『皆を頼む』そう言い残して逝ったのだ。その最期を看取り、涙を流して首領の覚悟を固めたのは、他でもないマイト自身だったはずなのに。 ディアスは無言のまま、左手首の医療端末を起動した。 淡い青いホログラムが静かに展開され、医療用AIの無機質な診断結果が浮かび上がる。 ――― 《精神保護機構 継続作動中》 《海馬アクセス遮断》 《長期記憶隔離 完了》 《推定記憶欠損期間 約二年》 ――― ディアスは静かに目を伏せた。 二年前。 ブラックシールドがこの銀河に現れた時期。 先代の船長が第一線を退き、マイトが若くして首領となった時期。 そして、ディアス自身が《黒い女神》として名を轟かせ、この男を執拗に追い詰め始めた時期。 失われたのは、ディアスとの因縁だけではなかった。 父を見送り、首領としての重圧に苦悩し、仲間を守るために泥を すすり ながら戦い続けてきた激動の二年間――そのすべてを、マイトの心は壊れてしまわないために、自ら封じ込めてしまったのだ。 その残酷な診断結果を見つめながら、ディアスは胸の奥に、チリリとした小さな、しかし確実に刻まれる痛みを覚えていた。 オレが、彼の心をここまで追い詰めたというのか。 何も知らず、ただ目の前で「男なのがもったいない」と残念がり能天気に笑う金髪の青年を、ディアスは言葉もなく見つめ続けるしかなかった。

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