15 / 50
第15話
医務室を出ると、自動隔壁が静かな駆動音とともに閉じた。
重厚なチタン合金の扉が完全に閉鎖され、奥で無邪気に眠るマイトと二人を隔てる。
廊下には人工重力制御装置の低い振動だけが響き、強化ガラスの向こうでは、超光速航行に引き延ばされた恒星の光が幾千万もの白い線となって流れていた。
二人とも口を開かず、張り詰めた沈黙だけが続く。
ジェイスの荒い呼吸だけが、冷たい艦内の空気を震わせていた。
数十メートルほど歩いたところで、ディアスは会議室の生体認証パネルへ掌をかざした。
低い電子音が鳴り、隔壁が左右へ静かに開く。
中央には円形のホログラム・テーブルが配置され、壁一面には銀河航路図と戦術モニターが開かれている。
ディアスが手首の端末に手を滑らせると、医療データと軍事情報が同時に空中に展開される、冷徹で無機質な空間だった。
ジェイスは部屋へ入るなり、ディアスの純白のメディカルコートの胸ぐらを乱暴に掴み上げる。
「……アンタッ!」
震える声だった。怒りだけではない。若の尊厳を奪い、心を壊した張本人への底知れぬ憎悪と、どうしようもない焦燥が入り混じっている。
「若を……返せ」
掴む手が小刻みに震える。
「お願いだから返してくれ。俺が面倒みる。飯だって食わせる。船がなくても何でもする。だから……若を、これ以上テメェの慰み者にさせねぇ……! 返してくれ……!」
ディアスは微塵も抵抗しなかった。
胸ぐらを掴まれたまま、酷薄なほど美しい顔で小さく息を吐く。
「君は、感情でしか話していない」
静かな声だった。冷たく、残酷な事実だけを告げる声音。
「彼を連れて帰りたいという君の覚悟も理解できる。でも、それで彼が救われる保証はどこにある?」
ジェイスは睨み上げる。
「若は俺たちの船長だ! 俺たち《エブラハム》の家族だ!」
「そうだね」
ディアスはあっさり頷いた。
「だから君たちは、彼を『強くて頼りになる船長』としてしか見られない」
「オレは違う」
その一言で、ジェイスは息を呑んで押し黙った。
「今の彼は船長じゃない。海賊でもない。凄惨なトラウマから逃れるために、二年間の記憶を自ら封じ込めた一人の哀れな患者だ。医師であるオレは、感情論だけで彼を放り出すほど愚かじゃない」
ジェイスはギリッと歯を食いしばる。
「俺らには俺らの生き方がある! アンタみたいな悪魔に、何が分かる!」
「分からないな」
ディアスは否定しなかった。
「だから、君にも分かる『数字』で話そう」
手首の端末を操作すると、空中へ幾つものホログラムウィンドウが展開される。
原型を留めないほど破壊された《エブラハム・ロジャー》の残骸。救助された船員たちの痛々しいカルテ。底をついた資産残高。途方もない額の修理見積もり。
すべてが淡々と表示されていく。
「船は全損、修復不可能。船員三十七名中、重傷者十九名。現時点で戦闘可能なのは君を含めて十一名。保有資産では、三か月も生活できない」
一つ一つ、逃げ場のない現実を突き付ける。
ジェイスは血が滲むほど唇を噛み締めた。
「衣食住は?」
「医療費は?」
「生活費は?」
「君一人が働けば、全員を養えるのか?」
「……ッ。」
「彼がまた発作を起こしたら? 専門医はいる? 設備は? 薬は?」
「……答えろよ、ジェイス君」
一切の迷いを許さないディアスの矢継ぎ早の問いかけに、ジェイスは何一つ答えることができない。
ディアスは静かに続けた。
「君は優秀だ。部下としても、副官としても。でも、医者じゃない。今の彼に必要なのは、海賊の誇りやオンボロの船ではなく、完璧な治療と保護だ」
長い、絶望的な沈黙が落ちた。
ジェイスは拳を震わせる。
「……じゃあ」
苦しげに、喉から血を吐くように声を絞る。
「若は、このままアンタの船で生きろってのか。自分を壊した悪魔に飼われ続けろってのか……!」
ディアスは静かに首を横へ振った。
「勘違いしないで」
その黒い瞳に、底知れぬ冷たい光が宿る。
「これは慈善事業じゃない。オレは、欲しいものにはそれ相応の対価を払う主義なんだ」
ジェイスの眉が動く。
「対価……?」
「そう」
ホログラムが切り替わる。
巨大な造船ドック。建造中の戦艦。
その中央に、一隻の設計図が映し出された。
流線型の艦首。重装甲の船体。《エブラハム・ロジャー》を一回り大型化した最新設計だった。
「君たちの船を造る」
ジェイスが息を呑む。
「……何だと」
「ブラック・シールドの工廠なら二年で完成する。現行艦より速く、火力も高く、航続距離も長い。君たち専用の船だ」
ジェイスは設計図から目を離せない。
「その代わり」
ディアスは淡々と言う。
「彼は二年間、ここでオレが治療する。君たちの生活も保障する。仲間も養う。船も造る。そのすべてが、彼をここに留めるための対価だ」
ジェイスは険しい表情でディアスを睨み付けた。
「つまり。アンタは……金と船で俺たちの口を塞いで、若を二年間、自分だけの鳥籠に囲うってことか」
「そう思ってもらって構わないよ。加えて、オレからは彼には手を出さない。慰みモノにもしない。安全を保証する」
ディアスは表情ひとつ変えずに言い放つ。
「目的を達成するためなら、その程度の対価は安いものだ」
部屋の空気が完全に凍りついた。
あまりにも冷静で、あまりにも身勝手で、狂気すら孕んだ執着。
ジェイスは思わず拳を振り上げる。ディアスのその美しい顔を、今すぐ殴り砕いてやりたかった。
だが。
振り下ろせない。
この男の言うことは、腸が煮えくり返るほど悔しいが、残酷なまでに理にかなっていた。自分たちには、マイトの命を繋ぐ力すらないのだ。
「……約束しろ。二年経って、若が帰ると言ったら。絶対に返せ」
ディアスは少しだけ目を細める。
「約束するよ。全部知った上で、彼自身が君たちを選ぶのなら、その選択だけはオレも奪わない。彼の記憶が戻るように、治療も尽くそう」
その言葉だけは、不思議なほど真っ直ぐだった。
ジェイスは長い息を吐き、ゆっくりと、その胸ぐらから手を離した。
悔しかった。
情けなかった。
自分の力では、若の心も、仲間の命も守れない。
その残酷な現実を、誰より自分自身が理解してしまったからだ。
ディアスは乱れた白衣を優雅に整えながら、閉ざされた医務室の隔壁の方へと静かに目を向けた。
その頃には……オレも、この『レディル』の代用品への執着に決着をつけられる。
そのはずだ。
ともだちにシェアしよう!

