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第32話
エブラハム・ロジャーの面々が完成目前の船に夢中になっている頃、ジェイスだけは、薄氷を踏むような心地で夜を過ごしていた。
若の様子が、決定的に――それも、取り返しのつかない形で変わってしまった。
かつての若は、何があっても真っ直ぐ前を見て、仲間を背負って立っていた。だが今の若は、どこか遠くを見つめ、どこかへ魂を置いてきてしまったかのような、甘く湿った澱を纏っている。
その夜、ジェイスは確信を得た。
夕食の場で若が見せた、あの何処かへ急ぐような、しかし恋い焦がれるような横顔。あれは、かつて先代が亡くなったあの日、若が一人で海を眺めていた時の孤独とは、全く別の、もっと深く、ドロドロとした依存の色だった。
静まり返った居住区画。
午前二時。周囲の船員たちが眠りに就く中、マイトは自室のドアを音もなく開いた。
鏡の前で髪を整え、シャツの襟元を気にする手つきには、隠しようもない高揚が宿っている。
「……また行くのか」
影の中から、低く響く声が降ってきた。
マイトの肩が大きく跳ねる。廊下の突き当たり、非常灯の薄暗い明かりの中で、ジェイスが壁に背を預けて立っていた。
「……ジェイ。起きてたのか」
「若。……あんた、最近毎日、夜中に何処へ行ってる」
ジェイスの声は震えていた。怒りか、悲しみか、あるいは恐怖か。
マイトは言葉を詰まらせた。今夜もディアスの元へ行けば、何をされるか、何を言われるか、身体の芯が知っている。それを他ならぬジェイスに指摘されたことに、マイトは罪悪感ではなく、邪魔をされたという猛烈な苛立ちと、見抜かれたことへの羞恥を覚えた。
「……何処へ行こうが、俺の勝手だろ。仕事もちゃんとやってる。文句を言われる筋合いはねぇ」
「若!!」
ジェイスが詰め寄る。その瞳は、若を救えなかった自分を責める色と、若を狂わせた悪魔への殺意で満ちていた。
「あんたは、自分の心まであの男に預けてしまったのか!? あいつがどんな人間か、本当に何も気づいていないのか!」
「……ディアスは、俺の恩人だ。俺がどうなろうと、オマエには関係ねぇ!」
マイトはジェイスを突き飛ばすようにして横を通り抜けようとした。
しかし、ジェイスの手がマイトの腕を強く掴む。その手は、かつて彼を護ろうとした時のような、硬く、頼もしいはずの手だった。
「離せ、ジェイ!」
「嫌だ! このままじゃ、あんたは全部失うんだ! 船も、誇りも、仲間との絆も……!」
ジェイスの声が、廊下に反響する。
マイトは立ち止まった。心臓の奥で、ディアスに植え付けられた「甘い楔」が、ジェイスの言葉に反応して鋭く痛み、そして甘く熱い波となって全身を駆け巡った。
――あいつは俺を、分かってくれない。
――俺の今の幸せを、壊そうとしている。
ディアスの声が、マイトの思考を支配する。
ジェイスがどれほど正論を吐いても、今のマイトの耳には、それは不快なノイズでしかなかった。
「……うるせぇ」
マイトは顔を伏せたまま、吐き捨てるように言った。
その藍色の瞳には、もうかつての若の光は微塵も残っていない。
「俺は、俺が行きたい場所へ行くんだ。……二度と、俺の行く手を塞ぐな。俺の……ディアスを、悪く言うな」
振り払われたジェイスは、呆然と立ち尽くした。
若が、自分を「ディアス」と呼ぶ。あの男を護るために、自分を拒絶した。
若の背中は、かつてないほど遠く、脆く見えた。
マイトは足早に、しかし迷いのない足取りで聖域へと向かっていく。
その背中を見送るしかできないジェイスの手は、握りしめられすぎて血が滲んでいた。
あと一ヶ月。
その時、自分が守りたかった若は、この船のどこにもいないのかもしれない。そんな絶望が、ジェイスの胸を冷たく、深く刺し貫いていた。
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