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第37話
ブラック・シールド旗艦のドック内は、冷たい静寂に包まれていた。
二年間、エブラハム・ロジャーの面々が心血を注ぎ、仲間たちとの絆を糧に作り上げた新しい船《エブラハム・ロジャー》が、今まさに発進の時を迎えようとしている。
船員たちは、自分たちの船を取り戻せたという喜びに浸るどころか、どこか葬列のような重苦しい空気の中にいた。
彼らは知っている。あれほど慕っていた首領は、もう戻らないということを。
ジェイスはただ一人、ドックの端でその背中を見送っていた。
あの部屋で、「置いていく」と告げたあの日の若の表情が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
ディアスの腕の中で、復讐と悦びに引き裂かれながら果てていた、あのおぞましくも美しい姿。
心臓を締め付けるような、あの淫らな声と、壊れきった若の瞳。
あんな姿を見せつけられても、自分の中の「若を助けなければ」という呪縛は、形を変えて彼を追い詰めていた。
ああ言うしかなかった。……あれが、若に対するせめてもの手向けだ。
ジェイスにとって、あの冷酷な突き放しは、マイトへの最後にして最大の慈悲だった。
もしあそこで「一緒に帰ろう」「まだやり直せる」と縋れば、マイトの中にある「ディアスに依存いる自分」と「仲間を裏切っている自分」という二重の罪悪感が、さらにマイトの精神を内側から切り刻んだはずだ。
「中毒」になってしまった今のマイトには、仲間という「正常な世界の絆」は、かえって苦痛でしかないだろう。
自分たちが救おうとすればするほど、マイトは自分の惨めさを突きつけられ、ディアスの元でしか安らげない自分を憎むことになる。
俺が突き放せば……。俺さえ薄情だと憎ませて、あいつを完全にこちらの世界から断絶させてやれば、あの男の腕の中で、若は何も考えずに沈んでいけるはずだ。
ジェイスは自分の震える拳を強く握りしめた。
マイトを苦しませないためには、彼の記憶から自分たちという「良心」を消し去るしかない。
それなのに、あの光景を目の当たりにした自分は、若の誇りを守れなかったという悔恨に押しつぶされそうになっていた。
脇が甘かった。……あの男が、ここまで若を徹底的に『壊す』ことを厭わないなんて。
ディアスの目的は、ただのマイトの身体ではない。精神を完全に解体し、過去の自分を殺させ、ディアスという毒なしでは生きられない「抜け殻」に変えてしまうことだった。
その狡猾な手管を見抜けず、ただ「若を連れ戻せる」と信じていた自分たちの甘さが、今のマイトの成れの果てを生んだ。
ジェイスは、二度と戻らないだろう若への別れを告げるように、深く、深く息を吐き出した。
せめて……最後は、俺たちに救われるという苦しみから解放してやらないと。な。
マイトを完全にディアスのものにする。
それが、あの男にすべてを捧げてしまった自分たちの船長を、今この瞬間の地獄から救い出す唯一の、そして最も残酷な優しさだった。
居住区の奥、ディアスの私室へと続く通路の方角から、足音は聞こえない。
見送りにも、こないか。
絶たれた絆。
突き放したのは、ジェイス自身である。
この船がどれほど高性能であろうと、彼らの魂の船長はもうここにはいないのだ。
「……行くぞ」
ジェイスは待つことをやめて、部下たちに短い命令を下し、操舵席についた。
ブラック・シールドの威圧的な旗艦を背に、彼らの船はゆっくりとドックを離れ、宇宙の深淵へとその機首を向けた。
その頃、旗艦の最上階。
ディアスの私室の窓からは、小さく遠ざかっていく自分たちの船が、まるで塵のように見えていた。
「バイバイ、君の仲間たち。……これで本当に、君は僕だけのものだね」
ディアスは背後で、力なくベッドに腰を下ろしているマイトを抱きしめた。
マイトは遠ざかる船の光を、虚ろな瞳でただ見つめている。ジェイスたちが去ったという現実すら、今の彼にはどこか他人事のように響いていた。
ディアスを選んだのは、俺だよな。
ジェイスの忠告を聞かなかった。
ディアスはマイトの首筋に深く顔を埋め、彼の身体に残る自分以外の「記憶」を、その熱で塗りつぶしていく。
「マイト、もう外の光なんて見る必要はない。君には、オレが与えるこの甘い闇さえあればいい」
マイトは何も答えない。ただ、抗う気力さえも消え失せた身体を、ディアスに委ねるだけ。
エブラハム・ロジャーの船員たちは、自由を手に入れた。しかし、彼らが命を賭して守りたかった存在は、巨大な悪魔の掌の中で、完全に沈黙していた。
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