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第39話
冷え切った鋼鉄の床に、重油と無機質な金属の匂いが重く滞留するガレージは、マイトにとって唯一閉じ篭れる「殻」だった。
ディアスの寝室という名の檻で、愛玩動物としてその指先や吐息に汚され、骨抜きにされる合間。
ここでは彼はただの整備工であり、汚れた手袋の感触だけが、彼がまだ自分自身であることを辛うじて証明してくれていた。
その平穏を、宇宙嵐が暴力的に粉砕した。
艦の巨体が咆哮をあげるような轟音と共に、重力制御が不規則に乱れる。ガレージの壁に固定されていた重機材が悲鳴を上げて軋み、次の瞬間、メインジェネレーターが過負荷で焼き切れた。バチバチという火花が空間を切り裂き、視界を奪うほどの暗闇がガレージを飲み込む。
警報の赤い警告灯が明滅を繰り返す、その不安定な光の中で、マイトは慣性に従って吹き飛ばされた。
――鈍い、湿った音が響く。
作業台の角に、側頭部を無防備に打ち付けた。
「ぐっ……あ……っ!」
激痛が脳髄を突き刺し、視界が真っ白なノイズに塗り潰される。
だが、その痛みは単なる打撲の苦痛ではなかった。
頭蓋の深奥で、「空白の二年」という分厚い氷の壁が、ミシミシと音を立てて亀裂が入る。
それは、ダムが決壊するような音だった。
――停電
エマージェンシーコール
頭への衝撃。
二年前の記憶が、濁流となって逆流してきた。
エブラハムロジャーの崩壊、敵艦隊の猛攻、仲間の悲痛な叫び。
陵辱されるジェイス、と、俺。
誇りを持ち、運命を切り拓こうとしていた「かつての自分」が、そこには鮮明に生きていた。
そして、その絶望から逃げ出し、ディアスの腕の中という底なしの沼へ自ら身を投じた、「空白の二年」という卑劣な安息。
「あぁ……っ、う、あぁああああッ!!」
暗闇の中で、マイトは喉を掻きむしった。
記憶が、今の自分を激しく侵食する。
殺したい。
誰を。
俺を?
つい数時間前、ディアスの愛撫に蕩けきり、卑猥な声を上げて雌のように鳴いていた自分の姿。
あの悪魔のような男の指先に骨抜きにされ、瞳を潤ませ、所有の痕を刻まれることに陶酔していた、今の自分が――。
「うそだ……俺は、俺はこんな、畜生じゃ……っ!」
反吐が出るような嫌悪感が、胃の底から胃酸がせり上がり、ガハッガハッと胃液を吐き出す。
今の自分の肉体は、ディアスの毒によって「所有物」として完璧に調教されている。
過去の自分は叫んでいる。「なぜ抵抗しなかったのか。なぜ戦うことをやめたのか」と。
今の自分は震えている。「ディアスが来たら、またあんな風に、蕩けさせられてしまう」と。
恥辱で顔が沸騰するようだった。マイトは爪を立て、首筋の肌を、ディアスの痕跡ごと削ぎ落とそうと激しく掻きむしった。
ヒリヒリと焼けるような痛みが走る。しかし、それ以上に悍ましいのは、これだけ痛めつけても、皮膚の奥底で、ディアスの触れた記憶が「もっと」と疼きを返してくることだ。
脳が、肉体が、記憶を取り戻した「かつての誇り」を拒絶している。
ディアスという名の毒は、思考の隅々まで行き渡り、マイトという人間を完全に「家畜」の構造へと組み替えていた。
二つの人格が同じ脳内で激しく衝突し、引き裂かれるような眩暈がマイトを襲う。
爪が自身の首元や腕を深く切り裂き、赤い筋がいくつも走る。
痛みを感じる感覚さえも、ディアスに調教された快楽の記憶と混ざり合い、マイトを狂わせる。
「やめろ……ッ、ふざけるな……ッ、俺は、俺は……ッ!」
守りたかったはずの誇りも、仲間との約束も、未来も。すべてはあの男の掌の上で、滑稽なほどに弄ばれていた。
今の自分を構成するディアスという猛毒が、核となった自分自身を焼き殺そうと叫んでいる。
非常用電源の青白い灯りが、ガレージにいるマイトを幽霊のように照らし出した。
床に這いつくばり、自分の汚れた身体を抱きしめて震えるマイトの瞳には、かつての船長としての理知的な光と、ディアスに壊された「愛玩動物」としての絶望が、混濁して渦巻いていた。
逃げ場はない。
戻れる場所も、もはやどこにもない。
ただ、嵐に揺れる艦の片隅で、残酷な真実に押しつぶされ、マイトは血に染まった指先で床を掻きむしり続けるしかなかった。
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