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第43話

マイトが甘やかな絶望のなかで貪っていたのは、ディアスの匂いが深く染みついた絹のシーツと、狂おしいほどの自己暗示だった。 殺意と愛情、快楽。すべてが、自分を否定して地獄の炎のように身をやいた。  その頭の中にこびりついている、首領としての重い誇りを一枚ずつ剥ぎ取るたび、身体に刻まれた支配の記憶が強くなり熱を帯びていく。 何より、布団の横に転がっている完全にディアスに破壊された自らの右腕が、雄弁に主従の完成を告げていた。 力でかないっこないこと、逃げられない絶望。  医療室でディアスに握り潰され、あえて治療を施されず放置された右腕。  熱を持ったまま感覚を失い、寝返りを打つたびに寝具の上をごとりと無機質に転がる肉の塊。 五指は微塵も動かず、ただの飾りと化したそれを、マイトは「ディアスに逆らった罰」として、うっとりと受け入れ始めていた。 自己肯定しかしてこなかった、マイトにはこの数ヶ月のできごとは負担で仕方なかった。 「……あ、戻ってきた」  静寂が支配する部屋に、重厚な扉が開く音が響く。  わずか一日前、その右腕にスパナを握りしめ、頭蓋を砕こうと跳躍した男の面影は、もうどこにもない。 マイトはしなやかな肢体をベッドから起こし、薄物の一枚だけを纏って立ち上がった。  歩を進めるたび、動かない右腕だけが重力に従って、だらんと力なく不自然に揺れる。  ディアスは一瞬、攻撃されるかと身構えらその美しい眉をひそめ、冷徹な警戒の視線を向けた。だが、マイトの瞳はすでに、彼の指先によって蕩かされきった時のように、熱っぽく潤んでいる。そこにあるのは、ひどく無防備で脳天気なまでに、ディアスを欲する、空っぽで淫らな幸福感だけだった。 「……マイト?」  マイトは、男の硬い警戒を溶かすように、くすりと妖艶に笑った。  生き残った左手だけをそっと伸ばし、ディアスの冷たい頬へ、愛おしげに吸い付くように触れる。 「一日中、ベッドの中で考えてたんだ。すごい考えた。……俺、なんであんなに頑張って、お前を殺そうとしてたんだろうって」 「……は?それは、オレが……」 ディアスが答えをいおうとするのを、マイトは指を押し付けて止める。 「面倒くさくなっちゃったんだよ。腕はこんなになっちゃったけど、痛いけど、まぁ生きてるし。ディアスのこと、綺麗だって思うし、ドキドキするし、触られたら狂いそうになるのは本当だし、抱かれて頭が真っ白になるのも、全部俺の本当だ。長いことストーカーされて、嫌がらせされたのは最悪だったけど、最後に船を壊したのは俺だし……誰も死んでないなら、別にそこまで酷いこと、されてないよね」  マイトは、ディアスの耳元へ吐息を吹きかけるように、あまりにも甘く、とんでもない告白を紡いだ。 右腕を粉砕した男を前にして、マイトの生来の脳天気な本能は、圧倒的に「快楽に身を委ねる方が気持ちいい」という結論を導き出していた。 「敵対してたら、お互いの肌を傷つけて消耗するだけでしょ? そんなの、気持ちよくない。……だから、俺はディアスをもう殺すのやめた」  マイトは、自由の利く左腕だけをディアスの首筋へねっとりと絡ませ、自らの身体を押し付けた。  神経の切れた右腕は、二人の身体の間に挟まれ、力なくダラリと垂れ下がったまま激しく押し潰される。その鈍い痛熱感さえも、今のマイトにとっては極上の情欲のスパイスだった。  だが、支配者であるディアスは、その底なしの従順さに脳の髄まで痺れながらも、マイトをさらに絶望の底へ突き落とすべく、ふと毒を含んだ吐息を零した。 「そういえば、君に一つ言っておくことがあるね。……君の仲間を捕らえたあの夜、オレは君とジェイスを部下に輪姦させたんだ。君とその君の大切な部下を何度も、何度も汚させたんだよ」  部屋に、重苦しい沈黙が落ちる。  ディアスは、この残酷な真実を突きつければ、マイトが再び罪悪感と自己嫌悪の底へ真っ逆さまに落ちていくと確信していた。 ジェイスへの想い、守れなかった後悔と烙印。どれほどマイトが脳天気になろうとしても、これには耐えられないはずだ、と。  しかし、マイトの反応は、ディアスの想定を遥かに超えていた。  マイトは少しだけ視線を彷徨わせ、記憶の深層にあるあの夜の光景をぼんやりと反芻した。確かに、そんなこともあった。ジェイスの悲痛な顔も、薄ぼんやりと思い出す。 「そうだな……ああ、そんなこともあったな」  マイトは、まるで「昨日の晩飯のメニュー」を思い出したかのような、驚くほど平坦な口調でそう言った。 「確かに、あの時ジェイを守れなかったのは、悔しくて、俺はお前を憎んだし、俺も身代わりになったし、酷い目にあったが、でも、まあ、ジェイも男だから大丈夫だろ」  ディアスの瞳が、わずかに揺らぐ。期待していた絶望の色が、マイトの顔には欠片も見当たらない。 「でもさ、ディアス」  マイトは、ディアスの顔をのぞき込み、純粋で、どこか間抜けなほど穏やかな笑みを浮かべた。 「……結局、あいつ生きてるだろ? 死んだわけじゃないんだし。生きてりゃ、いいってアイツも良く言ってた。腹も減るし、明日になればまた新しい一日がきてまた腹も減るし、楽しい時もくる。そう考えたら、そんなに深刻に悩むことでもなくないか?」 「……は?」 「守れなかったのは事実だし、まあ、最後にはジェイには見捨てられたし、俺が悪いのは分かってる。オマエのせいでなく、俺が選んだ。でも、生きてりゃ何とかなるよ。俺もこうしてディアスに抱かれて生きてるし、ジェイもどこかで生きてるんなら、別に問題ないだろ」  マイトの思考回路は、あまりに単純で、あまりに強靭だった。  「死んでいない」という一点において、マイトは罪悪感の全てを「まあ、なんとかなる」という強引な理屈で解決してしまったのだ。 彼にとっての絶望の境界線は、ディアスとの「愛」を優先するために、極限まで低く設定されていた。  ディアスは、言葉を失った。  自分という悪魔が、どれほど彼を汚し、彼の手を血に染めさせようと、この男はその本質的な「脳天気さ」で全てを無効化してしまう。 罪悪感という重石すら、この男にとっては「面倒くさい」という感情で弾き飛ばされてしまうのだ。 「君という男は……本当に、規格外だな」  ディアスは呆れと、そしてそれ以上の強烈な「愛おしさ」を覚え、マイトの頬を甘く噛んだ。  かつての首領としての責任感も、部下への忠義も苦悩も、マイトは全て「生きているからいいや」の一言で捨て去ってしまったのだ。 「そうだよ、生きてりゃ問題ない。……だからさ、ジェイの話はもういいよ。どうせ、それにも嫉妬するんだろ。だったら今は、アンタは俺のことだけ見てて」  マイトはディアスの胸に、何の迷いもなく顔を埋めた。  自由な左腕でディアスの背中にしがみつき、だらんと垂れ下がった右腕を二人の身体の隙間に挟み込んだまま、熱い吐息を漏らす。 罪の意識すらもディアスへの愛欲で上書きし、彼は自分自身の心を救うために、とことんまで愛に溺れたバカになることを選んだ。 「離さないで、ディアス……。俺の頭の中も、この身体も……もう全部、お前の好きにしていい……。ちゃんと考えて決めた」  それは、血みどろの復讐の終焉であり、ディアスの完全なる肉体的勝利だった。  マイトは、動かない腕をぶら下げたまま、殺意の残り火も、過去の罪悪感さえもすべて絶頂のスパイスへと塗り潰されたその脳で、ただディアスに貪り尽くされることだけをもとめ、狂おしい目で見返した。

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