60 / 70

第2部 第16話

ブラック・シールドの旗艦内は、最愛の副官を奪われたディアスの狂気的な苛立ちによって、常に見えない時限爆弾を抱え込んでいるかのような最悪の緊張状態にあった。 広大な艦内を歩くクルーたちはみな息を潜め、私語一つ交わさない。 ひとたび命令系統に不備があれば、あるいは報告が遅れれば、容赦のない処罰が待っていることを全員が理解していた。 それほどまでに、現在のディアスは一触即発の刃のようだった。 自身も睡眠すらろくにとらず、血走った隻眼で星図のホログラムを睨みつけ、ギリギリの精神状態を保ち続けていたディアスの執務室に、突如として端末の電子音が鳴り響いた。 開かれたのは、暗号化された一本の極秘回線だった。 発信元は、《エブラハム・ロジャー》の現船長・ジェイス。 先日接触を図ってから、まだ数日もたっていない。モニターに映し出されたジェイスも疲労した様子を見せている。 情報を得るためにかなりの労力を寝る間を惜しんで費やしたのが見てとれた。 ジェイスはろくに挨拶も交わさずに、規格外のデータ容量を持つ圧縮パッケージを送りつけてきた。 『約束通り、若の居場所を探り当ててやったよ。……受け取りな』 データファイルが展開されるやいなや、流石のディアスもわずかに目を見張った。 そこにあったのは、宇宙警察が辺境の暗礁宙域に隠匿している非公式の「特級秘密施設」の正確な位置座標だけではない。 施設の完璧な見取り図、幾重にも張り巡らされたセキュリティの死角を突いた複数の脱出経路、配備されている警察の人数や兵器のレベル、エネルギーシールドの周波数に至るまで完璧だった。 さらには、そこに出入りしている医療スタッフや看守の個人的な従業員リストやシフト表まで、信じられないほど緻密な機密情報が隈なく網羅されている。 ブラック・シールドの精鋭情報部隊が2週間かけても足跡の一部すら掴めなかったというのに、ジェイスはものの数日で、この要塞のすべてを裸同然にして剥ぎ取ってきたのだ。 なるほどな……。 ディアスは瞬時にその価値を理解した。 かつてマイトが無敵を誇る自軍の執拗な追跡から2年近くも逃げ延び続けられた理由。 それは彼自身の戦闘機の逃走力や勘だけではなく、裏でこのジェイスが持つ神業的な情報収集手腕と、法網の裏をかいて宇宙の深層にまで根を張る強固なネットワーク網を縦横無尽に駆使していたからにほかならない。 『俺たちの戦力じゃ、宇宙警察の要塞に正面から喧嘩を売るのは厳しい。だが……後方援護なら任せな。突入の瞬間にジャミングで向こうの通信網を完全に蜂の巣のように撹乱し、万が一の退路の確保は俺たちがやる。……若……を、マイトを、必ず連れ戻してやってくれ』 ジェイスの声音には、複雑な感情と、しかし確かな仲間への執着が混じっていた。 「……恩に着る。お前たちのその手腕、高く評価しよう」 ディアスが短く告げた直後、ジェイスは発信元を完全に隠蔽するように素早く通信を切断した。 残されたホログラムの光の中で、ディアスの冷ややかな美貌に、ぞっとするほど凄惨で、狂気に満ちた歓喜の笑みが浮かび上がる。 愛しい、かけがえのない玩具を不当に奪い去った愚かな警察ども。 その純白の施設を焼き払い、コンクリートの床を血に染め、マイトを取り戻すためのすべての条件が、今、ここに揃った。 「全艦に通達する」 ディアスは低い、しかし艦内の隅々まで響き渡るような冷徹な声を、インカムを通じて発令した。 「これより、ブラック・シールドは旗艦を先頭に最大戦速へ移行。宇宙警察の特級隠蔽施設へ向けて、空間跳躍(ワープ)を開始する。……我が副官を我が手に取り戻すための、総攻撃だ」 その号令とともに、旗艦の中枢エンジンが地鳴りのような重低音を響かせ始めた。 艦内のあちこちで警告灯が赤く点滅し、クルーたちが狂乱めいた慌ただしさで各々の持ち場へ走り出す。 総員戦闘態勢。 宇宙の秩序を司る警察組織に対し、無法者たちの群れが牙を剥く瞬間だった。 司令室の巨大なメインビューモニターの前に立ったディアスは、漆黒の宇宙の彼方を見据えながら、狂おしい独占欲に満ちた瞳を細める。 無事でいてくれ、マイト。 オマエはオレなしで生きてはいけないのだから。どんなに今辛いだろう。 すぐに迎えに行くよ。……今度は二度と、誰にも触れさせやしない。 「ワープカウントダウン、3、2、1――突入」 艦長席の操作と同時に、旗艦を取り巻く空間が歪んだ。 周囲の星々の光が鋭い一筋の流星へと変わり、ブラック・シールドの大艦隊は巨大な光の渦に飲み込まれていく。 暗黒の真空を切り裂き、空間を跳躍した彼らの艦首が向かうのは、宇宙警察が秘匿している要塞。 愛犬を奪われた首領の執念の牙がいま、敵の心臓部へと直撃しようとしていた。

ともだちにシェアしよう!