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第2部 第9話
漆黒の宇宙空間に、高出力の次元跳躍(ワープ)が引き起こした青白い残光だけが、虚しく瞬いていた。
ブラック・シールドの旗艦が放った重力子主砲の業火は、間一髪で逃げ込んだ宇宙警察の特務巡洋艦を捉えきれず、ただ暗闇を焦がすのみに終わった。
「…………逃げられた、だと?」
旗艦のブリッジ。
重厚な船長席から立ち上がったディアスの低い声が、静まり返った空間に不気味に響き渡った。
いつもは完璧なまでに整えられている冷徹で優雅な仮面が、今は見る影もなくひび割れている。
隻眼を覆う黒い布の奥、むき出しになった漆黒の瞳には、絶対零度の怒りと、己の半身を引き剥がされたような狂おしい焦燥が渦巻いていた。
メインモニターには、主を失い、冷たい宇宙を力なく漂う漆黒の機体――マイトの愛機『ハニーエンジェル』の姿だけが映し出されている。
「……さっさとあの機体を回収しろ。傷一つ付けるな」
ディアスの命令は静かだったが、その声色には刃のような殺気が孕んでいた。
牽引ビームによって母艦の格納庫へと引きずり込まれたハニーエンジェル。
ディアスは周囲の制止も聞かず、自ら格納庫へと足を運び、強引にこじ開けられた外部ハッチからコックピットへと乗り込んだ。
狭いコックピットの中は、惨憺たる有様だった。
強引なハッキングによって焼け焦げたコンソール。
床に散乱する破壊された機器の破片。そして、マイトが必死に抵抗したであろう生々しい傷跡と、微かに残る彼の汗と血の匂い。
つい先ほどまで、通信越しに「必ず帰る」と約束し、愛らしい声で鳴いていた自分の犬が、ここで無様に引きずり出され、見知らぬ手によって奪い去られたのだ。
「……マイト……ッ」
ディアスは革手袋に包まれた手で、マイトが握っていたはずの操縦桿をギリッと音を立てて握りしめた。
アレはオレのモノだ。
肉体も、魂も、その絶望も快楽も、すべてオレが調教した、オレだけの絶対的な所有物。
それを、よりにもよって宇宙警察の犬どもが、己の目の前でかっさらっていった。
「許さない……。このオレの玩具に触れた手は、根元から切り刻んでやる……!」
数分後、母艦のブリッジに戻ったディアスの全身からは、誰もが息を呑むほどの濃密な殺気が立ち上っていた。
「……報告しろ。奴らの跳躍先は割り出せたか」
「そ、それが……!」
オペレーターの船員が、顔面を蒼白にしながら震える声で答える。
「敵艦は特殊なステルス仕様のワープドライブを使用しており、空間の残留波形が完全に散らされております! 予測軌道すら……現在、解析不能で……っ!」
ガシャァァァンッ!!
次の瞬間、ディアスの手元にあったクリスタルグラスが、壁に叩きつけられて粉々に砕け散った。
破片がブリッジの床に飛び散り、船員たちは一斉に肩をビクッと跳ねさせて息を潜める。
「解析不能だと……? オレの前で『分からない』などという無能な言葉を吐くな!」
ディアスはオペレーターの胸ぐらを直接掴み上げ、その漆黒の瞳で震える船員を射抜いた。
「周辺宙域の全観測データ、裏社会の情報網、軍の暗号回線……使えるものは全て使え! あの特務巡洋艦の所属と、奴らがマイトをどこへ運んだか、一秒でも早く探し出せ!!」
「ひっ……! は、はいぃっ!!」
「……見つからなければ、お前たちの脳髄をネットワークに直接繋いででも計算させるからな。……いいな?」
冷や汗を流して何度も頷く船員を乱暴に放り投げると、ディアスは苛立ちを隠しきれない足取りで船長席へと戻った。
ブラック・シールドのブリッジは、かつてないほどのピリピリとした極限の緊張状態に陥っていた。
誰もが知っている。彼らの首領がどれほ残忍で冷酷であり、そして……あの「マイト」という男に対して、どれほど常軌を逸した執着を抱いているかを。
彼を捕らえてから数年、平和だったブリッジが一気に地獄と変わる。
船長が最もお気に入りだった玩具を奪われた今、この船には微塵の安らぎもない。
一歩間違えれば、八つ当たりで宇宙空間に放り出されかねない恐怖に怯えながら、船員たちは死に物狂いでコンソールを叩き続けた。
ディアスは組んだ指先に額を押し当て、暗い瞳で虚空を睨みつける。
マイト。オレの可愛い大切な犬……。
脳裏に浮かぶのは、今朝自分が直接、彼の奥深くに仕込んだプラグのことだ。
あれが外されていなければ、マイトは今頃、極限の恐怖の中でひたすらに主人の迎えを求め、発情したまま泣き叫んでいるはずだ。もし、あの忌まわしい警察共がマイトの身体を調べ、アレを引き抜くようなことがあれば――。
「……待っていろ、マイト。オマエをオレから奪った奴らごと、必ず地獄の底へ沈めてやる」
狂気と殺意に満ちたディアスの呟きが、静まり返ったブリッジに重く、冷たく響いた。
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