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1章-3

――奇妙なほどに場が静まり返っていた。  そのことを不審に思い、ゆっくりと目を開く。  すると、笑顔のまま、ハイエナの身体が傾斜していく。  鮮血が舞う。  まるで、スローモーションを見ているようだ。  倒れるハイエナの身体越しに影を見た。  月明かりがゆっくりとその人物を照らす。  全身を赤い色に染めた――途方もない美貌の持ち主が立っていた。  黒髪に、狼の耳と尻尾。  そして、アレキサンドライトのように色を変える瞳。  その人物が、望月を見ていた。  そして、ゆっくりと腕を伸ばす。 「触らないで!」  望月がそう拒絶すると、その美貌の持ち主は、動きを止めた。  表情は、無表情のまま。  ただ、困惑したように腕だけが宙にぶらりと垂らされたまま。 「郁、お前――」  望月の後ろで大猿が吠えた。 「同胞のみならず、他の亜人種にも手出しするなんて――」 「うるさい」  黒狼――郁が、一歩、踏みだす。  その途端、輪に恐れが広がる。 「なあ、お前も捕食者側なら分かるだろっ、というか、これは、お前の成果だもんなっ! 横からとった俺らが悪かったよ、なあっ」  先ほどまで、郁を愚弄していた者とは思えない卑屈な媚びだった。  その言葉に、郁の顔に初めて表情らしきものが過る。  明確な怒りだ。  次の瞬間、郁が走る。  華奢な身体を翻し、鋭利な爪が、的確に急所を掻っ切る。  あちこちで、苦悶の呻きが洩れ、体躯を折り曲げる。  鮮血が迸り、その美貌を汚していく。  気がつくとその場に生きている者は、望月と郁しかいなかった。  郁が、形容しがたい表情で、望月を見おろしていた。  まるで、心が凪いでいるように死に対する恐怖はなかった。  次に、この狼に殺されるのは自分だというのに。 「……お前、大丈夫か……?」  血にまみれた狼が、そんなことを問うた。 「お前、お前が……」  望月の唇から、勝手に言葉が溢れだす。 「お前が僕の故郷を滅ぼしたのか?」  その言葉に郁は息を呑み、長い睫毛を伏せた。  たまゆら、沈黙が落ちる。  ややあって、郁が、まっすぐに望月を見た。  アレキサンドライトの瞳は凍てていた。 「だとしたら?」 「こいつ……!」  望月は、郁に掴みかかろうとしたが、あっさりとかわされ――泥の中に転んだ。 (悔しいっ、悔しい、悔しい!)  立ち上がり、また、郁に向かう。  だが、また同じ結果だった。 「くぅぅ……っ、許さないっ、お前だけは許さないっ……」 「弱いお前に何ができる? 今も泥の中を這いつくばっているだけだろう」  郁は、ただ、無感情に望月を見おろしていた。 「お前が弱いから故郷を守れなかったんじゃないか?」  その言葉は、皮肉ではなく、真実だ。  ただ、この元凶をつくった張本人がそれを言うのか。 「……殺すっ、お前だけは絶対に殺してやる!」  望月は激昂して吠えた。 「どうして、こんなことをしたんだっ! みんなで平和に暮らしていたのに」 「さあ。お前らのような弱い眷属を持つ亜人種の気持ちなんて知らないから」  望月の問いに、郁はのらりくらりとした返事をする。 「お前らは、野蛮だから、どうせ、僕たちを食べるつもりでいたのだろう?」 「別に。理由なんてない」 「……理由が、ない、の……?」  まるで、予想していない言葉だった。  この狼は理由などなきにして、このような殺戮を行ったのか。 (そういえば、さっきも……あいつらは、僕を嬲って、殺そうとした……でも、命乞いする相手をこいつは、何のためらいもなく殺した――!) (こいつは、おかしい……狂ってる……) 「お前だけは許さないっ、殺すっ、殺す……ぐ、アッ……!?」  事前の動作が見えなかった。  鳩尾に激痛が走る。  郁が、足を降ろすところだった……どうやら、鳩尾を蹴られたらしい。 「すぐに、暴力か……お前は、愚かだ……暴力は、なにも、う、ま、な、い……」 「反吐が出るくらいの綺麗事だ。いただけないな」  郁は、嘆息すると、望月の髪を容赦なく引っ張った。 「っぅ――く、あっ……」 「所有物が反抗的な口を利くな」  淡々と郁は、そう命じた。  間近に人形的な、表情を変えない整然とした美貌がある。 (今、所有物って……言った……?)  その言葉に理解が追いつかない。  ただ、こみあげたのは強烈な反抗と嫌悪だ。 「僕は、お前の所有物なんかじゃないぃ……」 「……気まぐれに見逃してやった命なんだ。どうしようと俺の勝手だろう」  郁の主張は、暴論そのものだ。 「僕は、お前の物にはならないっ、そんな屈辱を味わうくらいなら、いっそ、舌を噛んでやる――ぐぅぅっ!」  またもや、鳩尾に強烈な痛みが走る。  臓腑にまとまりがなく、戻してしまいそうだ。  望月は、全身にびっしょりと脂汗をかいていた。 「か、はっ!」  空気の洩れる音がした。  もう一撃――今度は、ぐらぐらと頭が揺れた。  段々と意識が朦朧としてくる。  視界が霞む。 「お前は俺の物だ」  朦朧とする意識の中で、郁は、確かにそう言った。  そして、意識が断絶する。

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