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4章-1

1  翌日――世界は滅びかけているのに、鮮やかな碧空がひろがっていた。 「すごい」  望月が感嘆の息を吐く。  廃墟のマンション群が迷宮のごとく、どこまでも続いている……。 「きょろきょろするなと言いたいところだが、たまには、散歩も必要だからな」  郁が可愛げのない皮肉を言う。 「それって僕のこと、ペットか何かだと思ってるってこと」  望月の恨みがましい問いに、ふと、郁が振り返った。  そして、じいっと望月の顔を眺めると――。 「ひゃわっ!?」  望月の丸い頬をむにむにと指で摘まんだ。 「い、郁……何がしたいの? ほっぺ、ぷにぷにするのやだー……」  しばらく、望月の頬の感触を堪能するように、指で揉んでいる。  心なしか、表情が満足げな気がするような。 「……なんでもない。うん。裏路地を抜けていこう」  いつも無表情で押し黙っている狼の機嫌がいいことを怪訝に思いながら、郁と望月は裏路地を抜けた。  裏路地の――ひっそりとしたその場所にその店はあった。  からん、と鈴の音が軽やかに鳴り、扉が開く。  その空間に入ったときにまず気がついたのは、独特の甘い匂いが鼻をついたことだ。  狭い店内にところ狭しと詰められた書架にぎっしりと本が詰まっている。  どうやら、古書の匂いらしい。 「ここは……」 「貸本屋」 「ここで本を借りる人がいるの……わあ!? なにこれ、人が動いて……もしかして、手品? どういう仕掛け?」  壁には、モノクロームの色彩の、動く人々(おそらく人間だ)が映し出されていた。  男女入り乱れたたくさんの人。  望月には馴染みのない生活様式や知らない言葉が飛び交い、驚いてしまう。 「これは、映画だ。文明崩壊前の過去の遺物……ただしくは、芸術だ」 「映画ってなあに? でも、この絵じゃお腹は膨れないよね」  望月の疑問はもっともだと言うように、郁が頷く。 「ここに並んでいる本にしろ、金を持っている物好きの暇つぶしってところかな。道楽でできてるんだよ、この店は」  望月は、ぐるりと室内を見渡した。  郁は金持ちの道楽とはいうが、確かにこの時代においては貴族的な嗜みなのかもしれない。  少なくとも、コロニーでは、こんなに膨大な本も映画とやらも目にしたことはなかった。  きっと、あの閉じた世界にいたら、絶対に知らなかったであろうことだ。 「かび臭い場所だが、好きにするといい。ここの主人は変わっているから、店子が多少の勝手をしてもうるさくは言わない」  郁は、何やら、カウンターで作業をしているようだ。 (仕事中だし、話しかけない方がいいよね……)と望月は、書架を見てまわることにした。  なにやら、綺麗な装丁の本があった。  開いてみると絵本のようだ。  繊細な筆致に、少しばかり色あせてはいるが、美しい色彩が見てとれた。  裸の男女が、心地良さそうな自然の中で伸び伸びと過ごしている――。  ふと、大樹にたわわに実る赤い果物があった。 「わ、りんごだー……」  望月の目がきらきらと輝く。  古い本だが、果実の瑞々しさがよく伝わってくる。  きっと、齧ったら蜜が甘く、たっぷりと果汁を滴らせるだろう。  望月は、ぱら、と頁(ページ)をめくる。 ……神様は、林檎を食べてはいけないと男女に厳しく言いつけている。  男女は、律儀に迷っていたが――そこに蛇が来て――。  望月は、続きを読んで、ぱたんと本を閉じた。 そして、郁の元に戻る。  あっと声をあげた。  郁が足元に、壺状の台を置きながら、そこから伸びたパイプから煙を吸っていた。  ふうっと息とともに紫煙を吐く。  紫煙の揺らぎの向こうに美貌がある。  どことなく、退廃的な仕草であり、アンニュイな表情だ。 (きれい……)  望月は、その艶めかしい姿に目を奪われたか、はっと我に返る。 「あのね、郁、この本なんだけど……」  郁が、けだるげに視線をあげた。  ふうっと紫煙をひとつ吐く。 「ああ、楽園追放か。人間の始まりだとされている物語……というか神話だな」  郁が、また、パイプに唇を押し当てた。  煙を吸うと壺の中の水がこぽぽ、と心地良い音をたてる。 「どこにでも似た話はあるな。果てない昔に異国から異国に、宗教の布教が起こったときに――ある民族は、楽園のことをこう呼んだ、パライソと」 「パライソ……本当にそんな世界があるのかな」  望月は、不安げに尋ねた。  あの本で、男女は、林檎――禁断の果実を食べて、楽園から追放されてしまった。  郁がちょうどいい、と手元に示した本を見せた。 「この本……思想は違うが、幸せについて人間が考えた本がある。この本の中でも、楽園と似たニュアンスでティンブクツーという地名がでてくる」  郁がなにげなく口にした『ティンブクツー』という地名に望月の心臓がどっどっと高鳴る。 ……まさに、あの白うさぎの紳士とジプシーが交わした約束の地の名前である。 「え……ティンブクツーは、本当にあった場所……なの……?」  望月は、慎重に、郁に問う。 「かつては、あったが正しいかな。この世界じゃあ……だから、今、ティンブクツーが用いられるとしたら寓話的な表現になると推測はされる」 「そっか……そういう意味だったんだ……はは……」  望月の目に涙がこみあげる。  郁が教えてくれた。  ジプシーの女性が、目指したのはこの終末世界においてあるかわからない楽園だった。  パライソであり、ティンブクツー。  そこが、彼女の目的の地だと、幼い頃からの疑問が氷解し、望月はへたりこんだ。 「お前、大丈夫か?」  あくまでも、郁はこちらに踏み込んでくることはない。  それでも、自分の言葉が、望月に何かしらの影響を与えたことは敏感に察したようだ。 「うん。知れてよかったよ。ありがとう、郁」 「……そう」  郁は、そう言って、ぷかぷかと煙草をくゆらせている。  そして、その目は例の映画を注視していた。 「ねえ、郁、それっておいしいの?」  ずっと、郁がパイプから口を離そうとしないので、つい聞いてしまった。 「……さあ。あまりすすめるものではないな」 「甘いの? なんか、少しいい匂いするし」  珍しく郁が返事に窮している。  その様が、おかしくて、望月は、郁の手からパイプをひったくった。 「お前っ!」  そして、見よう見まねで郁がしていたようにぷうっとパイプを吸ってみる。 「むぐうっ!?」  涙目で郁を見る。 「……だから、すすめないって言ったのに」  郁が、手で額を抑えた。 「うえっ、げほっ、ごほっ、これっ、煙っぽい! 目に染みるっ!」  望月は、噎せながら、パイプを郁に返した。 「いわゆる、水煙草ってやつだな。こんな時代だから昔のようにいい香料はないが、まあ、吸っていると落ち着く。これも、金持ちの道楽だな。主人が店に置いている」  とうとうと郁が語る。  そうじゃあない。  目と喉が煙でいがらっぽいのだ。 「大昔は動物の骨でつくっていたらしいな。そんなに原始的なルーツがあると娯楽としては面白い」  郁が、饒舌に説明する。 「……分かってて、意地悪してるでしょ」  望月は、涙目のまま、じとっと郁を見た。  最近、この狼の悪癖を理解した。 「お前は、甘いものに対して貪欲すぎなんだ。意地汚いともいう。とはいえ、いきなり、煙草を吸うなんて……とりあえず、これでも舐めておけ」  郁は、店の奥から、キャンディーを一粒持ってきた。 「……たまに、身体に合わなくて具合を悪くする客もいるから、主人が常備しているんだ。糖分がよく効く。まさか、こんな使い方をするなんて」  望月は、しげしげと綺麗な包み紙を眺めた後、それを開く。  少し、べたついているがビー玉のような菓子がでてきた。  それをぽいっと口に放り込む。  包み紙には、さくらんぼの絵が描いてあった。  甘酸っぱい果実の風味が口いっぱいに広がった。 「えへへ、僕、煙草よりお菓子の方がいいもん。甘くておいしいし」 「言っておくが、店の備品だから、それ一個だけだぞ。お前のことだから、全部、ぺろりと食い尽くしてしまいそうだ」 「そんなに意地汚くないもん!」 「……どうだか」  ふたり以外は誰もいない貸本屋にふたりの応酬だけが響いていた。

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