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5章【真相】-2 追憶のアネモネ編

   夕暮れ、郁は丸太に座り込んでいた。  長時間、歩き通しのうえ冷えのせいで、相当に体力を消耗しているはずだ。  毎日のように、食料を確保するために奔走していたとしたら、疲れは慢性的なものに違えない。  さぞや、郁の体力の消耗は激しいとは予想がついた。 「どうしよう……」  郁の小さな片手に、木の実が数粒と小鳥が啄んだらしい腐りかけの果実が握られていた。  郁の大きな目に涙が滲む。 「こんなんじゃ……もえぎを助けられないよ……!」  押し殺した郁の叫びが森に響いた。  彼の色がなくかさついた口唇がわななく。  それから、彼はわっと声をあげて、ただ、泣きじゃくった。  きっと、もえぎを心配させないように。  住民たちに虐げる材料を与えないように。  ずっと、堪えたのだろう。  糸が切れたように、わんわんと泣きじゃくった。 「お腹空いたよう……もう3日食べてない……でも、おれ、おれなんかより……もえぎを助けなきゃ……!」 「君がそんなに自分を粗末に扱う必要はない!」  望月は、つい郁に向かって、叫んだ。  だが、郁が望月に気がつくことはなかった。 「郁、大丈夫だから……僕がそばにいる……そばにいるから……あっ」  幼い郁に手を伸ばした瞬間、すっと腕が半透明になり、その身体を抱き寄せることすらできない。  まぎれもなく、望月はこの時間軸に生きる者ではないという証左だ。  望月は、はっとした。  微かだが、草を踏みしめる音がした。 (もしかして、郁に害する相手じゃ……)  望月は、身構えたが、今の自分には郁を守る手立てがない。  そんな無力感をいまさらながら、味わう。 「そこにいるのは、郁かい?」  知らない柔和な声が郁の名前を呼んだ。  見ると亜人種の青年だった。  上等な身なりをした精悍な顔立ちの人物である。  彼はランプを片手に、困ったように郁を見やった。  これまで、望月が目にした住民とは違い、純粋に彼を心配しているような視線だ。 「潮(うしお)さ、ま……」  郁が、涙の痕が痛々しい顔をあげ、そう呟いた。 (潮……?)  聞いたことのない名前だった。  当たり前だが、郁から故郷のことはもちろん、これまでのことを何ひとつ聞かされていないことに気がつく。 「どうしたのかな。もえぎが家で待っているだろう。暗くなっているし、危ないよ」 「でも、家に帰れない、から……」  郁は、焦点の定まらない目で、ぽつりと返した。  それから、我に返って――いきなり、潮の前に跪いた。 「ごめんなさいっ、ごめんなさい、おれ、潮さまになんて口を聞いて……ご無礼をお許しくださいっ!」  地面に額を擦りつける勢いで、ただ許しを乞うた。  郁が恐れる『潮』という人物は何者なのか――望月には分からない。  潮は、郁の怯えに理解が追いついていないらしく、きょとんとした顔をした。  それから、ゆっくりと言った。 「気にしないでいい。ここに住民の目はないだろう?」 「ゆ、許してくれるんですか……」  郁は、地面に這いつくばったまま、問うた。 「許すも何も郁は何もおれに無礼なんてしていない。いいから顔をあげ」 「は、はい……」  のろのろと郁が顔をあげる。  その顔を見て、潮は息を呑んだ。 「さては、熱があるね?」  郁の顔は真っ赤だ。  対して、痩身をひどく寒そうに震わせていた。  ガチガチと歯の根があっていない。 ……無理もない。  水をかけられたまま、何時間も森の中を歩きどおしだったのだ。 「おれが、ばかでのろまだからいけないんです。これくらい今晩、寝ればすぐに治ります……」 「だめだ。とにかく上着を――」  潮は、自分の着ていた上着を郁の細い肩にかけようとして、何かに気がついた。 「濡れている……? まさか、またコロニーの住人にでも」 「ちがいます!」  とっさに郁が否定した。  頬に朱が差す。  それは、発熱だけのせいではないように思う。  怒りだ。  彼の矜持が、狭い社会で虐げられている事実を受けいれられないのだろう。  ずっと、そばにいた望月には手にとるように彼の性格が分かる。  アレキサンドライトの瞳がぎらぎらと光っていた。  なまじ、途方もない美貌を持ったこどもなだけに感情を露わにすると、迫力が凄まじい。 「……おれが、魚をとろうとして、川に滑って落ちただけです。おれが、のろまだから……」  郁は、言葉少なくそんな言い訳をした。  だが、大人である潮にはそんな小手先のうそなど通用するはずもない。  潮は考えあぐねている。  それから、小さく息をついた。 「間違って川に落ちただけなんだね。それじゃあ、この件は父様には報告しない」 「……あ、ありがとうございます……」  郁が、大きく頭を下げた。 「にしても、その恰好は良くないね。風邪から、肺炎に悪化でもしたら大変だ。これをおかけ」  そう言って、再び、自分の上着を郁の肩にかける。 「潮さま、いけません……こんな上等な上着……汚れてしまいます……ただでさえ、おれは汚いのに……」  だいぶ、意識が朦朧としているのだろう。  郁は、回らない呂律でそう訴えた。 「病人は、労わるべきだ。郁、帰ろう」  潮の言葉に郁が、かぶりを振る。 「だめ、まだ、もえぎに食べさせる……の……なにも、ない……」  そのとき、郁の手から数粒の木の実と腐りかけの果実が落ちた。  郁があっと声をあげる。  潮は、それを見て眉をひそめた。 「きみたち兄妹は、こんなもので飢えをしのごうと……? こんな真冬に……こどもがふたりで……?」  指摘に郁は俯いた。  食うに事欠くあまり、意地汚いところを大人に見られたのが恥ずかしかったのだろう。  たまゆら、潮は目を閉じた。 「……郁、やっぱり帰ろう。今、必要なのは暖をとることと休養、充分な栄養だ」  郁が、ぐっと口唇を噛む。  それに困っているからこそ、現状に甘んじているのを反駁したい感情が伝わってきた。 「でも、」 「これは、次期の長の命令だ」  そう言うと潮は、郁の軽い身体を抱きあげた。 「ひどい……冷えきっている……それにこんなにやせ細って……」  痛ましそうに潮がひとりごちる。  郁は、返事をしなかった。 「あの、もえぎが……家にもえぎがいるんです……おれ……帰らないと……」 「郁、心配しないで。屋敷の者にもえぎの面倒を見させる。今は自分のことだけ考えなさい」 「……で、ですが、それで……い……いいんでしょうか……」  郁は大人の厚意に不慣れなようだ。  むしろ、怖がっているふうでもある。 「ああ。一旦、おれの家に寄るから……郁、郁……?」  郁は潮の腕の中でぐったりとしていた。  どうやら、完全に意識を失ったらしい。  もえぎの安全が確保されたことで気が緩み、今は潮の腕の中でぐったりしている。  潮は、立ち止まった。  しばらく、その美しいこどものかんばせを眺めていたが――。 「かわいそうに。今だけはおやすみ」  郁には聞こえていないだろう慈愛に満ちた言葉を紡いで、潮は再び、歩きだす。  望月は安堵した。  この歪で閉鎖的なコロニーに郁を気にかけ、守ろうとしている大人がいるという事実に。  胸を撫でおろした途端、意識が遠ざかっていく……。

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