49 / 93

5章【真相】-3 追憶のアネモネ編

郁は、ぼんやりとベッドの上にいた。  上体を起こして、窓の外を見ているようだ。  望月を通り越して、黒狼のコロニーを、あるいはどこか遠くを眺めているようなふうでもあった。  軽い扉のノックの音。 「郁」  潮だった。 「潮さま」  やはり、こどもの郁も多弁ではないらしい。  潮は、そんな気難しいこどもの扱いを知っているのか、慎重に言葉を選んでいるようだった。 「ここの生活はどう?」 「……潮さまには、とても良くしていただいています。こんなおれなんかに」 「そうじゃなくて、落ち着く? 正直、くつろげているのかなって」  郁が黙した。  なんと言えば、目上の青年に対して失礼にならないのか、こちらもこちらで考えているらしかった。 「コロニーの次期長って堅苦しい肩書きはあるけど、おれだってようやく、3桁を生きたくらいの亜人種だから、まだ若いよ。といっても郁から見たらおじさんかな?」 「いえ……その、上手く言えない、けど……」  郁が、伺うように潮を見た。 「おれに……ちゃんとした兄さんがいたらこんな感じなのかなって」  先ほどの出来事があってか――潮は、『薫』の名前を出さない。 「おれ、家族ってよく分からない」  ぽつぽつと郁が話し始めた。  あるいは、独り言なのかもしれない。 「父さんはやさしかったけど、ある日、急におかしくなった。気づいたら、事故で……母さんも……でも、急に父さんと……あいつを……ヒステリックに非難した後、急にいなくなっちゃった……おれの家、どんどん、変になってる……」  こどもが語る身の上は、あまりにも残酷だった。 「今は、おれともえぎだけで……おれが、もえぎを守らなきゃいけないから」 「もえぎが、ただひとりの家族だから、」  郁がゆっくりと口を閉じた。  最後に語った言葉はまぎれもなく、幼い郁の真実であり――彼がこの地獄のような場所に存在している唯一の理由なのだろう。  カチッカチッと古びた時計が、時を刻む音だけがする。 「郁っ!」  潮が、せつなそうに郁の名前を呼び、その小柄な身体を抱きしめた。 「辛い思いをさせて申し訳ない!」 「どうして、潮さまが謝る……んですか……?」  いよいよ、郁は潮の感情の機微に困惑しているようだ。  ただ、青年の腕の中で大きな目を瞬かせていた。 「このコロニーの権力者は、おれの父だ。おれは、次期の権力者なのに、何もできない……今のこの場所の現状は……あまりにも……惨い……」  惨い、と潮は言った。  それは、終末世界の影響によるメスの減少、生活的な困窮を指しているのではない。  コロニーの住人たちによる『郁の一家への迫害』を指しているのだろう。 「……そんなこと、潮さまに言わせたくありません」  郁は、目の前の潮の腕に視線を落とした。  小枝のような郁の細腕とはちがう――大人のオスの腕だ。  郁は、逡巡した。  それは触れていいのか、悩んでいるようでもあった。  ややあって、郁は潮の手をとった。 「潮さまはもえぎに良くしてくれています。もえぎの兄であるおれにも、だから」  郁が不器用に微笑んだ。 「潮さまは、おれにとって恩人です。もえぎとおれの命を救ってくれたから」  続けて頭を下げる。 「まだ、こどもだからできることは少ないとは思います。ただ、このご恩は必ず――」 「いいんだ。恩だとか、婚姻関係とかそんなことは関係ない……!」  やさしい質の青年なのだろう。  潮が押し殺した叫びを洩らす。 「こどもは安全に保護されて、慈しまれるべきなのに……こんな、」  うっ、うっと潮が、滂沱と涙を流す。 「潮さま……泣かないでください……おれには、よくわからないけど、絶対に潮さまが悪いことではないはずです……」 「郁、」  嗚咽の合間に、潮が郁を見上げた。  アレキサンドライトの瞳が細められる。  彼は微かな笑みを浮かべていた。  まるで、もえぎにそうするように――幼いながらも潮を安心させるように。  それから、ゆっくりと青年の黒髪を撫でた。  わああ、と潮が声をあげて咽び泣く。  郁は、ただ、その髪を撫でている。  窓からやわらかな陽光が差し込み――。  ただ、青年の髪を愛撫する彼の顔は、聖母のように美しかった。  

ともだちにシェアしよう!