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5章【真相】-3 追憶のアネモネ編
郁は、ぼんやりとベッドの上にいた。
上体を起こして、窓の外を見ているようだ。
望月を通り越して、黒狼のコロニーを、あるいはどこか遠くを眺めているようなふうでもあった。
軽い扉のノックの音。
「郁」
潮だった。
「潮さま」
やはり、こどもの郁も多弁ではないらしい。
潮は、そんな気難しいこどもの扱いを知っているのか、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「ここの生活はどう?」
「……潮さまには、とても良くしていただいています。こんなおれなんかに」
「そうじゃなくて、落ち着く? 正直、くつろげているのかなって」
郁が黙した。
なんと言えば、目上の青年に対して失礼にならないのか、こちらもこちらで考えているらしかった。
「コロニーの次期長って堅苦しい肩書きはあるけど、おれだってようやく、3桁を生きたくらいの亜人種だから、まだ若いよ。といっても郁から見たらおじさんかな?」
「いえ……その、上手く言えない、けど……」
郁が、伺うように潮を見た。
「おれに……ちゃんとした兄さんがいたらこんな感じなのかなって」
先ほどの出来事があってか――潮は、『薫』の名前を出さない。
「おれ、家族ってよく分からない」
ぽつぽつと郁が話し始めた。
あるいは、独り言なのかもしれない。
「父さんはやさしかったけど、ある日、急におかしくなった。気づいたら、事故で……母さんも……でも、急に父さんと……あいつを……ヒステリックに非難した後、急にいなくなっちゃった……おれの家、どんどん、変になってる……」
こどもが語る身の上は、あまりにも残酷だった。
「今は、おれともえぎだけで……おれが、もえぎを守らなきゃいけないから」
「もえぎが、ただひとりの家族だから、」
郁がゆっくりと口を閉じた。
最後に語った言葉はまぎれもなく、幼い郁の真実であり――彼がこの地獄のような場所に存在している唯一の理由なのだろう。
カチッカチッと古びた時計が、時を刻む音だけがする。
「郁っ!」
潮が、せつなそうに郁の名前を呼び、その小柄な身体を抱きしめた。
「辛い思いをさせて申し訳ない!」
「どうして、潮さまが謝る……んですか……?」
いよいよ、郁は潮の感情の機微に困惑しているようだ。
ただ、青年の腕の中で大きな目を瞬かせていた。
「このコロニーの権力者は、おれの父だ。おれは、次期の権力者なのに、何もできない……今のこの場所の現状は……あまりにも……惨い……」
惨い、と潮は言った。
それは、終末世界の影響によるメスの減少、生活的な困窮を指しているのではない。
コロニーの住人たちによる『郁の一家への迫害』を指しているのだろう。
「……そんなこと、潮さまに言わせたくありません」
郁は、目の前の潮の腕に視線を落とした。
小枝のような郁の細腕とはちがう――大人のオスの腕だ。
郁は、逡巡した。
それは触れていいのか、悩んでいるようでもあった。
ややあって、郁は潮の手をとった。
「潮さまはもえぎに良くしてくれています。もえぎの兄であるおれにも、だから」
郁が不器用に微笑んだ。
「潮さまは、おれにとって恩人です。もえぎとおれの命を救ってくれたから」
続けて頭を下げる。
「まだ、こどもだからできることは少ないとは思います。ただ、このご恩は必ず――」
「いいんだ。恩だとか、婚姻関係とかそんなことは関係ない……!」
やさしい質の青年なのだろう。
潮が押し殺した叫びを洩らす。
「こどもは安全に保護されて、慈しまれるべきなのに……こんな、」
うっ、うっと潮が、滂沱と涙を流す。
「潮さま……泣かないでください……おれには、よくわからないけど、絶対に潮さまが悪いことではないはずです……」
「郁、」
嗚咽の合間に、潮が郁を見上げた。
アレキサンドライトの瞳が細められる。
彼は微かな笑みを浮かべていた。
まるで、もえぎにそうするように――幼いながらも潮を安心させるように。
それから、ゆっくりと青年の黒髪を撫でた。
わああ、と潮が声をあげて咽び泣く。
郁は、ただ、その髪を撫でている。
窓からやわらかな陽光が差し込み――。
ただ、青年の髪を愛撫する彼の顔は、聖母のように美しかった。
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