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5章【真相】-5 追憶のアネモネ編

5 「今日こそは、行かないと……」  郁は、久しぶりに丘を降り、コロニーの中心である広場と住民の家々が並ぶ町に立った。  むろん、恩人である潮に礼を言うためだ。  今日は、潮が持たせてくれた清潔な衣服に身を包み、空っぽのバスケットを握りしめている。  ……いつも通り、住人たちの露骨な視線を感じていたが、努めて存在を排他するように努めた。  郁は俯いて歩いた。 (潮さま……迷惑じゃないかな……)  だが、あの日、確かに潮は言ってくれた。 「お願い、俺に郁を守らせて」と実際に潮は“約束“を守ってくれている。  郁ともえぎの兄妹に安全で安心できる生活を保障して、毎日、食事を届けてくれている。 「郁、どこに行くんだ?」  背後から幼い声がした。  同じコロニーのこどもだ。  郁は、後ろを振り返らないで、ただ、歩いた。 「コロニーのお荷物の癖に、無視かよ。なあなあ、遊ぼうぜ」  こどもの言う『遊び』の内容は、主に郁に暴力を振ることである。  集団で代わる代わる蹴られたり、お腹を殴られたりする。  あの痛みを思いだして、ぞっとした。 「い、やだ……」  弱弱しい声で郁が、言う。  それは、コロニー内で、初めて郁が自身の感情を口にした瞬間だった。 「今日は……遊ばない……大事な用が……ある、から……」  やっとの思いで、郁がそう断ったときだった。  背後から髪を引っ張られ、そのまま地面に引きずり倒された。 「あ、ぐッ!」  後頭部をしたたか、打ちつけた。  ぬるり、と生暖かいものが額を伝う。 「あーあ、きれいなお洋服が台無しだなあ、郁」  別の影が郁を覗き込んで、嘲笑する。 「ていうか、郁にはこんなにきれいなもの、必要ないんじゃないのか。こいつは“汚い“んだからさ」  こどもの手がブラウスの、豪奢なフリルに伸びた。 「やめ、やめろっ!」  郁は、叫んだ。  これは、初めて家族以外から貰った贈り物だった。  それを損ねられるのは耐えられない。 「触るな!」  しかし、郁の抵抗を無視して、びっ、と布地が避ける嫌な音がした。  千切られたレースが、地面にふわりと落ち、それを別のこどもが踏みにじった。  黒ずんだレースを見て、郁が咆哮する。 「あ、ああああああああっ!」 (潮さま、に、貰った服……)  ぎっと郁は、反射的にこどもたちを睨みつけた。  ふーっ、ふーっと息を切らす。  怒りの感情を露わにした郁にこどもたちが後ずさる。 「お前、生意気なんだよ! 父ちゃんが言うんだ。郁の顔は呪われてるって」 「あそこの家族はおかしいって! それに!」  こどもが、半泣きで叫んだ。 「最近、潮さまが郁にえこひいきしているって噂になってる! 郁が潮さまを誘惑したって。潮さまのやさしさにつけこんだんだって! 郁は淫売だってみんな、言ってる!」  その言葉に、郁の中でぷつり、と何かが切れた。  気づいたら、その言葉を発した相手に掴みかかり、馬乗りになっていた。 「こいつ、やばいって、誰か止めろよ!」  輪の中で悲鳴があがる。  しかし、誰ひとりとして身動きをとろうとしなかった。  郁は、高く拳を振り上げた。  どうすれば、相手を傷つけられるか、郁は知っている。  なぜなら、常に他者にその痛みを与えられ、存在を否定されてきたからだ。 「お前なんて死んじゃえばいいんだ」  郁は平坦な声で毒を吐いた。  それにも関わらず、郁は天使のように純粋な笑顔だった。  小柄な郁が相手である――抵抗など造作ないはずなのに、そのこどもは目に大粒の涙を浮かべて、ただ震えている。  郁が無感情に手を下ろそうとした瞬間、その手を掴む人物がいた。 「郁、やめなさい」 「うしお、さま……」  潮だった。  郁の動きが制止する。  まるで、時間が止まったように錯覚した。 「潮さまぁ……郁っ、郁が、突然、掴みかかってきて、おれ、な、殴られそうに……」  慌てて、こどもは郁から身体を離すと泣きじゃくりながら、潮の元に向かった。 そのとき――広場に、パン、という高い音が響いた。 「え、え?」  頬を打たれたこどもは、茫然と立ち尽くしていた。  潮は、容赦なく、こどもを折檻した。  冷ややかな目を、こどもたちに向けたまま。 「郁に手を出すな」  低い声で、潮が『命じた』  こどもたちが息を呑む。 「次に、この子に手を出したら俺が許さない。次期長の言葉だ」  そうとだけ言うと、こどもたちから背を向けた。  そして、郁に視線をやった。  もういつもと同じ慈しみに満ちた瞳だった。  もう、こどもたちのことは一瞥たりともしようとしなかった。  わっとこどもたちが蜘蛛の子を散らしたように、走っていく。  広場には、郁と潮だけが残された。

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