55 / 93
5章【真相】-5 追憶のアネモネ編
5
「今日こそは、行かないと……」
郁は、久しぶりに丘を降り、コロニーの中心である広場と住民の家々が並ぶ町に立った。
むろん、恩人である潮に礼を言うためだ。
今日は、潮が持たせてくれた清潔な衣服に身を包み、空っぽのバスケットを握りしめている。
……いつも通り、住人たちの露骨な視線を感じていたが、努めて存在を排他するように努めた。
郁は俯いて歩いた。
(潮さま……迷惑じゃないかな……)
だが、あの日、確かに潮は言ってくれた。
「お願い、俺に郁を守らせて」と実際に潮は“約束“を守ってくれている。
郁ともえぎの兄妹に安全で安心できる生活を保障して、毎日、食事を届けてくれている。
「郁、どこに行くんだ?」
背後から幼い声がした。
同じコロニーのこどもだ。
郁は、後ろを振り返らないで、ただ、歩いた。
「コロニーのお荷物の癖に、無視かよ。なあなあ、遊ぼうぜ」
こどもの言う『遊び』の内容は、主に郁に暴力を振ることである。
集団で代わる代わる蹴られたり、お腹を殴られたりする。
あの痛みを思いだして、ぞっとした。
「い、やだ……」
弱弱しい声で郁が、言う。
それは、コロニー内で、初めて郁が自身の感情を口にした瞬間だった。
「今日は……遊ばない……大事な用が……ある、から……」
やっとの思いで、郁がそう断ったときだった。
背後から髪を引っ張られ、そのまま地面に引きずり倒された。
「あ、ぐッ!」
後頭部をしたたか、打ちつけた。
ぬるり、と生暖かいものが額を伝う。
「あーあ、きれいなお洋服が台無しだなあ、郁」
別の影が郁を覗き込んで、嘲笑する。
「ていうか、郁にはこんなにきれいなもの、必要ないんじゃないのか。こいつは“汚い“んだからさ」
こどもの手がブラウスの、豪奢なフリルに伸びた。
「やめ、やめろっ!」
郁は、叫んだ。
これは、初めて家族以外から貰った贈り物だった。
それを損ねられるのは耐えられない。
「触るな!」
しかし、郁の抵抗を無視して、びっ、と布地が避ける嫌な音がした。
千切られたレースが、地面にふわりと落ち、それを別のこどもが踏みにじった。
黒ずんだレースを見て、郁が咆哮する。
「あ、ああああああああっ!」
(潮さま、に、貰った服……)
ぎっと郁は、反射的にこどもたちを睨みつけた。
ふーっ、ふーっと息を切らす。
怒りの感情を露わにした郁にこどもたちが後ずさる。
「お前、生意気なんだよ! 父ちゃんが言うんだ。郁の顔は呪われてるって」
「あそこの家族はおかしいって! それに!」
こどもが、半泣きで叫んだ。
「最近、潮さまが郁にえこひいきしているって噂になってる! 郁が潮さまを誘惑したって。潮さまのやさしさにつけこんだんだって! 郁は淫売だってみんな、言ってる!」
その言葉に、郁の中でぷつり、と何かが切れた。
気づいたら、その言葉を発した相手に掴みかかり、馬乗りになっていた。
「こいつ、やばいって、誰か止めろよ!」
輪の中で悲鳴があがる。
しかし、誰ひとりとして身動きをとろうとしなかった。
郁は、高く拳を振り上げた。
どうすれば、相手を傷つけられるか、郁は知っている。
なぜなら、常に他者にその痛みを与えられ、存在を否定されてきたからだ。
「お前なんて死んじゃえばいいんだ」
郁は平坦な声で毒を吐いた。
それにも関わらず、郁は天使のように純粋な笑顔だった。
小柄な郁が相手である――抵抗など造作ないはずなのに、そのこどもは目に大粒の涙を浮かべて、ただ震えている。
郁が無感情に手を下ろそうとした瞬間、その手を掴む人物がいた。
「郁、やめなさい」
「うしお、さま……」
潮だった。
郁の動きが制止する。
まるで、時間が止まったように錯覚した。
「潮さまぁ……郁っ、郁が、突然、掴みかかってきて、おれ、な、殴られそうに……」
慌てて、こどもは郁から身体を離すと泣きじゃくりながら、潮の元に向かった。
そのとき――広場に、パン、という高い音が響いた。
「え、え?」
頬を打たれたこどもは、茫然と立ち尽くしていた。
潮は、容赦なく、こどもを折檻した。
冷ややかな目を、こどもたちに向けたまま。
「郁に手を出すな」
低い声で、潮が『命じた』
こどもたちが息を呑む。
「次に、この子に手を出したら俺が許さない。次期長の言葉だ」
そうとだけ言うと、こどもたちから背を向けた。
そして、郁に視線をやった。
もういつもと同じ慈しみに満ちた瞳だった。
もう、こどもたちのことは一瞥たりともしようとしなかった。
わっとこどもたちが蜘蛛の子を散らしたように、走っていく。
広場には、郁と潮だけが残された。
ともだちにシェアしよう!

