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5章【真相】-5 追憶のアネモネ編

「郁、痛かっただろう。すまない」 「いえ、こんなの、たいした怪我じゃあ……」  ぽたぽたと額から鮮血が滴っている。  ふと、視線をやると潮からもらったきれいな服はところどころが破れ、土と血で汚れていた。 「それよりも……潮さまにもらった大切な……服……が……ごめんなさい、」 「服なんていい。それより……」  潮が郁の額に、真っ白な綿のハンカチをあてがった。 (ハンカチまで汚れてしまう……) 「ねえ、郁、あいつらどうしようか」  潮が、囁いてきた。  静かな問いでは、ある。  どのような感情の機微かは分からない。  だが、その目がぎらぎらと光っているのを郁は見てしまった。 「大丈夫です……だって……」  郁は、そこで言葉を切った。 「……郁は、怪我をしただろう?」  穏やかな声色で潮が確認してくる。 ……もう普段と同じ温厚な潮の姿だった。 「だけど、おれには……もえぎがいて……潮さまもいるから……だいじょうぶ。潮さまが守って……くれました……」  口にして、郁は、唇に触れた。  この胸に広がるほわほわとした感情をどう言葉にしていいのか、分からなかったのだ。  郁が、知らないことだった。 「いたぁ……」  遅れて、郁が顔をしかめる。  どうやら、そこも切ったらしく、ぴりっとした痛みが走った。  今日は、どうやってもえぎに言い訳をしよう……そう郁が考えあぐねていたときだ。  熱いものが唇に触れた。  間近に潮の顔がある。  潮が、郁にキスをしたのだと他人事のように気づいた。 「その、つい、そういう気分になって……ごめん……」 「どうして、潮さまが、謝るんです……? それにそういう気分ってどういう……んっ!」  今度は、腕を掴まれて、もう一回キスをされた。  キスは、血の味がした。 「愛おしくて、好きで好きでたまらないのが抑えられないこと、かな」 (潮さまが、おれをすき……?)  郁は、触れられた唇を抑えた。  そこが、怪我ではない――別の熱を帯びている。 「でも、おれ、育ちが卑しいって……汚いって……」  ぎゅうっと潮が小さな郁に縋ってきた。 「そんなこと、関係ない……愛している、は自分の意思じゃ、止められないんだよ……」  はあ、と湿っぽい呼気を洩らして、潮が問う。 「郁は? 郁は、俺のことを好き? 愛してる?」 「……だれかをちゃんと愛したことがないから、わからない、けど……潮さまは……すき、です……」  郁は、潮に抱きすくめられたまま、そう答えた。  それは、素直な郁の気持ちだった。  どう言葉にしていいか分からないからこそ、有り体に口にした。  ふふっと潮は笑い、郁の顔を見下ろした。  その目がいやに甘い。  郁はドキッとした。 「じゃあ、おれと郁は両想いってことだね。恋人ってところかな」 「恋人……」  絵本の中でしか知らない感情だ。  確かに、絵本の中の王子さまとお姫さまは、甘美なキスを交わして、永遠の愛を誓う。  そして、ハッピーエンドを迎えた。  郁の心臓大きく脈打った。 (おれは、潮さまを愛しているってこと……)  ばつが悪そうに、潮が頬を掻いた。 「郁には早かったかなぁ。本当は、大切にしたかったのに……おれ、余裕ないなぁ……」 「ううん」  郁は、首を振った。 「おれも、潮さまが……すき、です……あいして、います……」  郁は、美貌をふにゃりと緩めて、きれいで尊い愛の告白をした。  すると、潮が再び、郁を抱きしめた。 「あの、どうして、抱きしめるんですか……おれ、時々、潮さまの行動がわからない、です……」 「そりゃあ……好きな子に振り向いてもらったら、オスなら嬉しいだろう? そんなことも郁は知らないの?」  潮が、笑うように、言うので郁の頬がかっと熱を持つ。 (また、好きって言われた……ていうか、おれのこと好きだったの? いつから?) 「あーあ、フリーズしてるねえ。とりあえず、郁、帰って手当をしよう」 「はい……」  頭の中が、初めての恋でいっぱいで、熟考せずに返事をしてしまった。  そんな郁を目にして、潮が、愛おしそうに目を細める。 「それから、恋人なんだから、敬語と潮さまって呼ぶのは禁止。潮って呼んで」 「え、ええ……?」  つい、気の抜けた返事をしてしまう。  だって、潮はコロニーの次期の長であり、自分は忌み嫌われる卑賎の育ちなのだ。  立場がまるで、違う。 「じゃないと拗ねる」  まるで、こどものような口吻だ。  どこか、もえぎと重なってしまい、郁は、ふふっと笑った。 「意外とこどもっぽいんですね……」 「だろう、そうじゃなくて、おれの名前を呼んで、郁」  一瞬、郁は迷ったが、それから、そっと「潮、」と呟いた。  その名前は特別な響きで、大切な宝物をもらったような気持ちになった。 (そっか、これがすき、ってことなんだ……)  郁はそう納得した。 「とりあえず、屋敷に帰ろう、ね?」 「うん……潮……」  どちらともなく、手を繋いで、屋敷への道を歩く。 「それと恋人同士なのは、おれと郁だけの秘密だからね……」  小さく、潮がそう明かしてきた。  ふたりだけの、秘密。  それは、いっそう甘ったるくて、禁忌の約束に思えた。  ぱっと郁は明るい笑顔を見せた。 「うん。約束だよ」  郁と潮は、小指と小指を絡めて、秘密の共犯者となった。  

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