93 / 93
幕間 ひとりぼっちの狼と望月の出会い①
ふと、歌が聴こえてきた。
「……夢見るシャンソン人形か」
――文明が崩壊する以前の話だ。
今はもうない国。
かつての歌姫の少女が、モノクロームの映像の中で披露していた。
勤めている貸本屋で流れていたが、映像の中で少女はニコニコと笑っていた。
さて、郁が、望月とアネモネの日常を観察するのは、もう日常になってしまった。
「誰がこんな覗きみたいなこと……」
八つ当たりだとは思いつつも、望月にそう毒づく。
まあ、本人は郁に私生活を観察されているなど知らないだろうし、彼が覗き魔なのには変わりがないが。
……結構な時間が経ったが、相変わらず、ふたりの関係は進展する様子がなかった。
少女には可哀そうだが、相手はあの望月なので仕方がないだろう、と郁は思いつつ、なんとも言えない感情でふたりを眺め続けた。
ある日、アネモネは、望月に『夢見るシャンソン人形』の歌を披露していた。
なかなかに少女は歌が上手く、旋律が耳に心地いい。
郁が少女の歌に聞き入っていると旋律が止まった。
歌が終わったのだろう。
望月とアネモネが何回か、囁きを交わした後、その声が耳に届いた。
「――人間が愚かだという象徴の歌」とあの純粋なアネモネが言ったのだ。
「え、」
郁と望月は同時に声をあげた。
あの少女から、こんなに嫌悪に満ちた言葉を聞いたのは初めてのことだった。
「観客が喜んでいるのは、少女の歌に感動したからじゃないの。人形じみた女の子が、愛想を振りまいて、歌うことを滑稽だってみんなで笑うの。女の子だけがそれを知らない。ただ、ニコニコして歌うだけ」
……それは、この歌の本質をついたものではある。
何せ、この歌は、少女を人形に見立ててつくられた皮肉 である。
文明崩壊前のことだから、正確なところは分からないが、少女は歌の意味を知らずに、純粋に歌ったらしい。
あどけない少女の顔にニコニコとした無垢な笑顔を浮かべて。
また、他の曲にはあきらかに性的な文脈を含んだ悪趣味な歌もあった。
その様子を見た観客たちは、何も知らない少女の笑みに拍手したと店主から聞かされた。
それを聞いて、胸が重たくなったことを思いだす。
郁がそんな考えに耽っていると、彼女は唐突に、不吉なことを言った。
「……嵐が来るの」
「……今晩。これはもう決まっているの」
(嵐? 太古の森に嵐が来るなんて、ここ数十年はなかったはずだが)
郁は小首を傾げた。
「お願い。もち、わたしをひとりにしないで……」
そうねだる少女の声はいやに甘ったるかった。
郁は、ふと、かつて、家に漂っていた熟柿の匂いを思いだした。
ともだちにシェアしよう!

