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第3話 思い出

 ケメト王国の領内は、大河イテロの周囲以外のほとんどが、乾いた赤い砂漠だった。  だが、その砂漠のところどころに、奇跡のように水が沸く場所がある。オアシスだ。  貴重な水源のまわりには自然と人々が集まり、小規模ながら、うつくしい都市を形成することもあった。それがオアシス都市と呼ばれる場所で、ケメトの砂漠にもいくつかが点在していた。  砂嵐を防ぐための城壁に囲まれたオアシス都市には、椰子(やし)柘榴(ざくろ)、オリーブなどの果樹が、小さいながらも林をつくっている。そんな緑の中に、白い日干し煉瓦(れんが)の家々が、あたかも泉に寄り添うように建ち並んでいるのだ。道には、香料や染布、乾燥果実などを商う露店が出ていることもあった。  砂漠をゆく旅人や駱駝(らくだ)を連れた隊賞などが必ず立ち寄り、(いこ)う、中継地。赤茶けた不毛の砂丘の中にあって、ここだけは、さながら楽園だった。  砂漠を渡ってくる熱い風が、蒼く澄んだ泉の水面(みなも)を細かく揺らしていた。  十三歳の王太子ホルセムは、そのとき、王都から馬車で二日ほどの位置にあるオアシス都市エンアラムに滞在していた。  父であるセベクヘプ王のすすめで、ここには(アケト)第一月にやってきた。いまはもうそれからまる二月が経つが、滞在は(アケト)月が過ぎるまで。すなわち、あと二月ほどはこの地に留まる予定になっていた。  父の元から離れ、住み慣れた王都から離れ、この地に長く滞在するといっても、しかし、ホルセムはちっとも寂しくも不安でもなかった。  なぜなら、と、思いつつ、少年ホルセムはてのひらの中に隠し持った、小さな護符(アンク)を何度も確かめる。彫りあとも粗削りなものだったが、鬱金(うこん)色の眸でそれを見下ろしつつ、ふふ、と、忍び笑いを漏らした。 「叔父上!」  喜びに弾んだ声で呼んで、ホルセムは木陰にいる叔父に駆け寄った。ホルセムの声に顔をあげた相手は、こちらの姿をみとめると、口許に穏やかな笑みを浮かべる。 「ホルセム」 「トゥアルセティス!」  ホルセムは叔父の名を呼んで、その身体に抱きついた。  下セメト王家の流れを汲む叔父は、そのせいなのかどうか、がっちりした体形を誇るホルセムの父などと比べると、同じ大人かと思うくらいにひどく細い。それでもまだ十三歳のホルセムよりは背も高く、だからホルセムがトゥアルセティスに抱きつくときには、いつも、腰に腕を絡め、胸に頬を埋めるような体勢になった。  そこから、上目遣いに叔父を見上げる。  そうすると、トゥアルセティスはホルセムの赤茶の短髪に指を差し入れ、やさしく頭を撫でながら、軟らかく目を細めてホルセムを見下ろすのだ。  この瞬間を、ホルセムはいっとう愛していた。  冴えた月の光を絹糸に紡いだような長い銀髪がきらきらしている。ホルセムの姿を映して細められる眸は、蒼味を帯びた銀灰色に、金色の月を浮かべたような、神秘的な虹彩だ。  誰よりもうつくしく、やさしいトゥアルセティス。大好きな叔父だ。ホルセムは、叔父に抱きつく腕にぎゅっと力を込めた。  王弟トゥアルセティス。  下ケメト王家から上ケメト王家、否、いまや統一ケメト王家となった王族の中に迎え入れられた人物。ホルセムにとっては、七歳(ななつ)年上の、血縁関係のない叔父にあたる人。  王都を離れることに不安も不満もなかったのは、ひとえに、トゥアルセティスがホルセムに同行すると言ってくれたおかげだった。幼馴染のウルも一緒だし、うつくしくやさしい叔父と共にするオアシスでの四か月は、ホルセムにとって、むしろ嬉しいものだった。  父王は――きっと王であるがゆえに多忙なのだろう――あまりホルセムに関心を向けてはくれなかった。母はホルセムを産んで間もなく他界したと聴かされている。  そんなホルセムは、腹違いの弟妹たちがそれぞれの母に慈しまれているのを見る度に、せつない思いを味わわざるを得なかった。その寂しさに気付き、そっと手を差し伸べてホルセムを心ごと抱き締めてくれるのは、いつだってトゥアルセティスだった。  誰よりも思慕を寄せる相手と四六時中一緒にいられる。これがしあわせでなくてなんだろう、と、ホルセムは思う。 「どうしたの、慌てて」  ホルセムの頭をそっと撫で、トゥアルセティスは笑いながら問う。 「慌ててるわけじゃないけど……これを、早く叔父上に渡したくて」  そう言って、ホルセムは手の中にあった木彫りの護符(アンク)をトゥアルセティスの前に示して見せた。 「俺が彫った。はじめてだから不格好だけど、でも……トゥアルセティスに持っていてほしいんだ」  すこしだけ気恥ずかしさから躊躇った後、ホルセムは鬱金の眸で真っ直ぐにトゥアルセティスを見詰めた。 「これを、わたしに……?」  叔父は一瞬、驚いたように目を(またた)く。けれども、すぐにやわらかく微笑んで、ホルセムの手から護符(アンク)を受け取った。 「ありがとう、ホルセム。肌身離さず持っておくよ」  トゥアルセティスはそう言って、革紐が結ばれている護符(アンク)をさっそく首からかけた。 「大切にする。このこの命の限り」  目を細めて言いながら、そっと白いてのひらに包み込む。 「いや、冥府でも、か。きっと現世でも死後の世界でも、これがわたしを護ってくれるね。とても心強いよ、ホルセム」 「大袈裟だ、トゥアルセティス」  ホルセムは照れ笑いを浮かべながら言ったが、悪い気はしていなかった。  護符(アンク)は、輪のついた十字のかたちをしている。(いにしえ)の賢者が〈魂の印〉と呼んだものだ。  この形を持つ護符は、時に身を護る(つるぎ)となり、時に現世の向こうにある楽園へ続く扉の鍵にもなるのだという。太陽神ラァが愛するケメトの民に授けた加護の証であり、闇を司る邪神アポォピスを退ける力を秘めているとも伝えられていた。  ホルセムが一心に彫りあげたこの護符(アンク)が、目の前のうつくしい叔父を永遠(とこしえ)に護ってくれればいい、と、心から願う。 「それにしても」  くす、と、トゥアルセティスがちいさく笑った。 「なにやら熱中しているなと思っていたら、これだったのだね。ホルセム、おまえは王太子だ。いずれラァの現身(うつしみ)としてこの国の王になるのだから、ちゃんと武芸と勉学にも励まないと」  (たしな)めるように言われて、ホルセムは叔父から、すぃ、と、視線を逸らした。 「ちぇっ。言われなくたって、そんなのわかってるよ」 「そう? そうだね、可愛いわたしの甥のホルセム。おまえがわかっていないはずはなかったね」  トゥアルセティスは悪戯っぽく、くすくすくす、と、笑い声を立てる。 「もう! いまから戻って、ちゃんとやるって! でも、俺は……俺にとって、叔父上は、誰より、いちばん大事な人だから」  だから、その思いを、かたちにしてみたかったのだ。淡く、けれども純粋な思慕の眸をトゥアルセティスに向けると、相手はすこし困ったように微笑んだ。 「こらこら。未来の王が、軽々しくいちばんだなどと言ってはいけないよ」 「でも」 「ホルセム。おまえはきっと、太陽神ラァの加護のもと、歴史に名を残すような立派な王になる。立派な王というものは、このケメトの地を、ケメトの民を、あまねく、そして等しく愛さなければいけないんだよ」  叔父はそんなふうに、ホルセムに王者の心がまえを諭した。わかってるけど、と、ホルセムは唇を尖らせる。 「でも、俺はトゥアルセティスが大好きなんだ。叔父上のことだけ好きでいたいよ、ずっと」  そう言ったホルセムの頭を、トゥアルセティスは再びそっと撫でた。神秘的な〈月の眸〉が細められ、いつくしみを滲ませつつ、ホルセムを見詰めている。 「王に、それは許されないんだ」 「でも」  それでもまだホルセムが言い募ろうとすると、ふ、と、トゥアルセティスが口許をゆるめた。 「だったら、こうしよう、ホルセム」 「なに?」 「かわりにわたしが、ずっとおまえのことだけを好きでいるよ。おまえが一番で、おまえだけだ。――これならどう?」 「っ、ほんとに!?」  ホルセムは目を輝かせてトゥアルセティスを見上げた。このうつくしく、大好きな叔父が、自分のことだけを愛してくれる。それはとても素晴らしいことのように思えた。 「約束する。この護符(アンク)に誓うよ」  トゥアルセティスが、ホルセムから贈られた木彫りの護符(アンク)にくちびるを寄せて言う。ホルセムは、自分の胸におさまった心臓(イブ)がことこととと早鐘を打ち、頬が熱くなるのを感じていた。  そのときだった。 「――あの、王都からのお使者だという御方が」  声をかけてきたのは、世話係の少年である。その後ろには、褐色の肌、たくましい身体つきの青年が立っていて、ホルセムとトゥアルセティスの前に軽く畏まった。 「王太子殿下ならびに王弟殿下には、ご機嫌うるわしく」 「大仰な挨拶はいい、メネフ。王都で何かあったか?」  青年をメネフと呼び、そう気安い調子で語りかけたのはトゥアルセティスだった。  そういえば、と、ホルセムは青年と叔父とを交互に窺い見ながら考える。王宮で、トゥアルセティスの傍らにいるこの青年を、見かけたことがあるような気がした。たぶん彼は、トゥアルセティスの護衛をつとめる兵卒のうちのひとりなのではないだろうか。 「国王陛下が、トゥアルセティスさまをお呼び出しに。王宮へお戻りになるようにとのことでございます。オレはそれをお伝えに参りました」 「兄王が、わたしに?」 「はい。至急、と」  そう言われ、トゥアルセティスはちらりとホルセムのほうを見た。その〈月の眸〉には、困ったような、憂うような、複雑な色合いが浮かんでいる。 「叔父上……王都へ帰ってしまうのか?」  叔父がひと足先にこの地を去ってしまうかもしれないと知って、ホルセムは悲しげに相手を見上げた。トゥアルセティスは軽く屈んでホルセムと目線を合わせると、口許に穏やかな笑みを()いた。 「用が済んだら、またすぐに戻ってくるよ。そうだな、きっと、ほんの七、八日ほどのことだ」 「ほんとう……?」 「ああ、すぐに戻るよ、ホルセム。――そうだ。わたしのいない間に、ウルと一緒に剣の練習に励んでおいてはどうだい? 戻ったら、ふたりで剣舞を披露してくれると嬉しい」  叔父は、ホルセムの幼馴染の名を挙げてそう言った。自分の不在の間、ホルセムが手持無沙汰に過ごさなければならなくなることを気遣って、当面の目標をくれたわけだ。 「うん、わかった」  ホルセムはこくりと頷いた。 「いっぱい練習して、叔父上をびっくりさせてやるから!」 「それは楽しみなことだ。――きっと、すぐに戻るから」  トゥアルセティスは、やわらかな微笑みと共に、ホルセムの頭をひと撫でした。  慌ただしく準備を整えた叔父が、兵卒のメネフと共にオアシス都市エンアラムを発ったのは、その日の夕暮前のことだった。そして――……すぐに戻ると確かに約したはずのそのひとは、二度と、ホルセムのところに戻ってはこなかった。

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