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第8話 老犬*

 その日、政務にひと段落をつけたのは、太陽が中天をとうに過ぎ、もうかなり西に傾いた頃だった。  弟との再会という嬉しいことがあった。それにも関わらず、ホルセムは何となく浮かない気分を引き摺ったままでいた。それもこれも、元凶はすべて、トゥアルセティスである。  玉座の間から離れたホルセムの足は、無意識に後宮のある方へと向いていた。  後宮まで続いている回廊をひとり歩む。途中に中庭があって、そこには、石を敷き詰めてつくられた池があった。  王都までは、大河イテロから引かれた地下水路を通って水が供給されている。汲み上げられた水を満々とたたえ、まだ蒼い空の下で、池は澄みわたっていた。傾きかけた陽を反射し、水面がきらきらと輝いている。  (アケト)の季節は陽が長い。太陽神ラァの恵みをいっぱいに注がれて、水辺には緑が繁茂する時期でもあった。池のまわりに植えられた木々の緑は濃く、花々も鮮やかな色に咲き誇っていた。  そのうつくしい光景に、ホルセムは目を細める。  が、次の刹那には、まるで棘でも刺さったかのように、ちくん、と、ちいさく胸が痛むのを感じた。  蒼く澄んだ水を湛える泉。その水辺での、完璧にうつくしいひと時。そして、その後の残酷な瓦解。絶望――……五年前、まだ伸びきらない幼い心に刻まれた傷は深かった。  それもこれも、すべての元凶はトゥアルセティスだ。  彼に向ける、様々な感情が綯い交ぜになった気持ち。それはまるで亡霊のようにホルセムに憑りついている。そして、実体のない亡霊であるがゆえに、簡単に振り払うこともできないまま、ホルセムを苛み続ける厄介な存在であった。 「くそっ」  それでもなぜか叔父のもとへと足を向けている己の不可解さに舌打ちをしたそのとき、ホルセムはふと、回廊の煉瓦造りの柱の後ろに、黒い影が潜んでいるのに気がついた。  はっとして、身構える。  王宮の最深部のこと、敵の侵入があるなどとはそうそう考えられなかったが、万一ということもあった。もちろん――……身近なものの裏切り、ということもある。  そんな考えが頭に過ぎったとき、ホルセムは反射的に腰に佩いた剣に手をかけていた。ぎりり、と、必要以上にきつく柄を握りしめる。 「誰だ」  ホルセムは低く誰何(すいか)した。 「姿を見せるがいい」  まさかトゥアルセティスの手の者か、と、そう思うと、怒りが燃え立ち、声は喉に引っかかったように掠れた。  が、次の瞬間、ホルセムの目の前に飛び出したのは、こちらが予想だにしなかったものだった。  黒い毛並みの犬である。  立派な体躯をしているが、毛艶はおとろえてしまっているから、たぶんそれなりの老犬だ。尾は長く、耳がぴんと立っていた。  その犬が、うれしそうに尾を振りながら、まっしぐらにホルセムのほうへと駆けてくるではないか。  ホルセムの足元まで辿り着くと、伸び上がってこちらにそばえつき、ぶんぶんと尾を振り立てた。 「おまえ、まさか……イプワト、なのか……?」  ホルセムが名を呼ぶと、老犬はハッハと舌を出して息をしながら、穏やかな眼差しでホルセムを見上げた。 「イプワト!」  ホルセムは屈むと、黒犬の頭を撫でる。 「おまえ、無事だったのだな」  感極まるように言って、その身体を抱き上げた。ふたつめの嬉しい再会だった。  あたたかい。毛並みに顔を埋めると、陽向のような匂いがする。そのぬくみ、においは、覚えのある懐かしいものだ。  ホルセムの脳裡に、幼い日の記憶が甦ってくる。  ケメトでは、犬は神聖な生き物として尊ばれていた。山と谷の神、ひいては墓陵を守護するとされる神アンプゥの化身で、死後の世界で人を正しい道に導いてくれる存在だと考えられていたからだ。  そして、イプワトは、父王セベクヘプの即位に際して臣下から献上されたのだという犬だった。  だが、セベクヘプは、イプワトに対して特段の興味を示さなかった。神聖な存在として王宮で飼い、臣下に世話をさせてはいたものの、それだけだ。  その点、むしろホルセムのほうが、イプワトを可愛がっていただろう。  王宮の庭で、子犬と無邪気に戯れた。笑い声をあげて、転げまわった。そして、そんな時に自分の傍らにいたのはいつだって――……。 「イプワト、イプワト……どこ?」  ふいに、老犬を探す声が聞こえてきて、思考に沈みかけていたホルセムははっと我に返った。 「まったくもう、いきなり走り出して……」  文句をこぼす声のするほうを見れば、正面にはトゥアルセティスの世話につけた少年、アヌゥの姿がある。 「あ」  アヌゥは驚いたような顔をした。ホルセムが日もまだ高い刻限に後宮へ渡るのはこれがはじめてだったから、当然の反応かもしれない。 「ホルセム王……」  何やら困った表情になった少年が、気まずそうに後ろを振り返ったときだった。 「アヌゥ、イプワトはいた?」  少年を追うように、トゥアルセティスが姿を見せた。  トゥアルセティスは、イプワトを抱いて立つホルセムを見とめると、はっと立ち止った。おかげで、間にアヌゥを挟んで、互いに見合う恰好になる。  ホルセムもトゥアルセティスも、しばし、無言だった。  まるで時が停止したかのようだ。その、何とも気まずい場の空気を動かしたのは、老犬イプワトだった。  ホルセムの腕の中で、イプワトがわずかに身を捩るようにしてもがいた。ワン、ワンワン、と、吠えたてる。  どうやら降ろしてほしいらしいと悟ったホルセムがイプワトを解放すると、老犬は迷わずトゥアルセティスに駆け寄った。  トゥアルセティスは身を屈めてイプワトを抱きとめると、その背をゆっくりと撫でた。イプワトは心地よさそうに目を細めている。ゆったりと長い尾を振っている。 「その、犬……」  ホルセムは呟くように言った。 「えっと、これはですね、ホルセム王……イプワトはセベクヘプ王の時代から王宮にいる犬だそうで、その、トゥアルセティスさまが、ずっと世話をされてきたらしいんです。王宮の混乱でしばらく姿が見えなくなっていたみたいなんですけど、三日くらい前に戻ってきて、それで……」  しどろもどろにアヌゥが説明する。勝手に犬など飼って、と、ホルセムが腹を立てると思ったのかもしれなかった。  その間も、トゥアルセティスは無言でイプワトの背を静かに撫で続けていた。 「その犬……処分、しなかったのか?」  ホルセムはトゥアルセティスに問いかけた。  すると、トゥアルセティスは顔を上げる。それまで老犬に向けられていた眼差しが、真っ直ぐにホルセムを見た。神秘的な、魅惑の力があるともいう〈月の眸〉が、ホルセムの姿を映している。 「……処分?」  はたはた、と、瞬いて、トゥアルセティスは問いを返してきた。 「っ、だから! きさまは、我が父を殺し、王位を奪った。イプワトは、おまえが弑した王の飼い犬だったんだ。簒奪の折に、そいつも処分していて、おかしくはなかったろう!?」  吐き棄てるように言って、ホルセムはトゥアルセティスの答えを待つ。なぜか、審判を待つような気分だった。  幼い日、ホルセムが可愛がっていた犬。そして、ホルセムがイプワトと遊ぶ傍らには、いつだって穏やかに笑む叔父の姿があった。  だから情があった、と、もしもトゥアルセティスが答えたならば、ホルセムはどうするだろうか。  相手の言葉を待つ時間が、永遠のように長く感じた。喉が鳴る。自分がなぜか緊張に似たものを覚えていることをホルセムが自覚しかけた、そのときだった。 「犬は……神聖な生き物だから」  叔父が寄越したのは、ホルセムが期待してような、血の通った答えではなかった。その刹那に胸に過ぎったのは――……落胆、だろうか。  まさか、だ。トゥアルセティスの言葉ひとつで自分が気落ちするなど、あるわけがない。否、あってはならないことだった。  はは、と、ホルセムは自嘲めいたちいさな笑いを漏らした。 「それに……この子には、何の罪もないから。――それを、わざわざ命を奪う必要があった?」 「っ、それは……!」  言いよどむホルセムに、トゥアルセティスは、ひた、と、眼差しを向けた。 「ホルセム……おまえは、イプワトを処分するつもりなのか……?」  どこか憂わしげに、不安げに、そう問いかけられる。 「っ」  ホルセムは思わず、トゥアルセティスから顔を背けていた。あやうく、魅了の魔術にかかるところだったのかもしれない。そんなことを考えつつ、きつく拳を握り込んだ。 「い、犬は神聖だし、加えてイプワトに罪はない。……きさまが言ったんだ!」  そう吐き棄てるように言うと、相手が、ほ、と、息を吐いたのがわかった。 「はっ」  ホルセムは、己の中にある奇妙な感情を誤魔化すように、敢えて嘲るように低く笑った。 「きさまには、その犬だけというわけだな」  ホルセムが言うと、発言の意図を読みかねるのか、トゥアルセティスは(いぶか)しげにホルセムを見る。無言の眼差しに苛々しながら、ホルセムはトゥアルセティスに歩み寄った。 「きさまのの配下たちは、みな、新王である俺に従順だ。つまり、みな、おまえをさっさと見限った。残ったのが犬一匹とは、ずいぶんとお粗末なことだ」  はは、と、どこか虚勢をはるように笑ってやる。  トゥアルセティスは感情を窺わせない無表情のまま、ゆっくりと立ちあがった。 「そう……みんな、おまえに仕えているんだね。――余計な血が流れずに済んで、よかった」  その静かな声音が、かえってホルセムには癇に障った。 「っ、きさまはいったい、なにを企んでいるんだ……!?」  ついつい、怒声とともに腕を伸ばしていた。叔父の細い手首を掴む。 「っ、ホルセム!? いきなりいったい、何なんだ。わたしは、なにも」  驚くトゥアルセティスの腕を引いて、ホルセムは後宮の一室、いつもトゥアルセティスと同衾する部屋へ向かう。扉をくぐるなり、叔父の身体を寝台に組み伏せた。 「本当に、もう何もたくらんでいないのか?」  組み敷いた身体を見下ろして、問う。 「ほんとうに、俺を(あざむ)いていないのか?」  ホルセムが重ねて尋ねると、トゥアルセティスはふと、気まずそうに視線を逸らした。何も答えないままに〈月の眸〉を伏せてしまう姿に、ホルセムの腹立ちはますます募る。 「きさまは、この期に及んで……!」  ホルセムは声を荒らげ、トゥアルセティスの身体を乱暴に裏返した。うつぶせにさせ圧し掛かると、両腕をひとまとめに片手で抑え込み、長衣をたくしあげる。 「っ、何を……? ま、まだ、明るい、のに……」 「はっ、それがどうした?」 「ホルセム……っ!」 「明るいと困るか、叔父上? そんなに隠したいものでも? もしかして、そのうつくしい顔に欺瞞(ぎまん)が浮かぶのを俺に見られたくないのか? なあ、俺を裏切った、トゥアルセティス」  (さげす)むように口にしつつ、ホルセムは顕わにした白い臀部を撫でる。傍の香油の壺を手に取って、秘められた莟にとろりと垂らした。 「っ、ぅ」  指で軽く塗りこめる。昨晩もホルセムを迎え入れていたそこは、最初こそ固く窄んでいても、すぐに(ほころ)んで、ひくつくようにホルセムの指を()んだ。  指を増やして、押し広げるようにする。窓から射し込む夕刻近い陽の光のもとで、肉の色が生々しくもあざやかだった。  こく、と、無意識に喉が鳴る。 「まる見えだな。それにひくついている。実にいやらしく、浅ましい眺めだ」  自分の中から込み上げた渇望を誤魔化すかのように、あえて相手を嘲笑した。  そして、相手の細い腰に、己の腰のものを押し付けるようにした。

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