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第10話 稽古

 その日、ひととおりの政務を終えたホルセムは、部屋を出る前にメネフ将軍に声をかけた。 「将軍、よければ手合せを願えないか」  ホルセムが言うと、将軍は、おや、と、いう顔をする。 「もちろんオレはかまいませんが。最近はご政務ばかりでお忙しいですし、さては身体を動かしたくてうずうずなさっておられたとか?」  気心の知れた年若き将軍は、ちらりと悪戯っぽく笑った。  メネフはホルセムにとって、信頼できる片腕であり、そして自分を導いてくれた恩人でもある。  五年前、もしもいち早く王都を脱出したメネフがホルセムを下ケメトへ落ち延びさせてくれていなかったら、あるいはホルセムは、トゥアルセティスが差し向けた追っ手に討たれていたかもしれなかった。その後だって、メネフがいなければ、生き延び、軍を起こし、いまこうして王座を奪還することなど不可能だったろう。  同時にメネフは、ホルセムの剣の腕を鍛え上げてくれた師でもあるのだ。  トゥアルセティスを打ち倒し、父王の仇をとる。その思いを胸に、何度も何度もメネフにかかっていった日のことを、ホルセムは思い出した。 「まあ、そんなところだ。そういう将軍だって、身体がなまってきているのでは?」 「オレは新しく編成した軍の練兵がありますしね。そうでもないですよ。ただ、王のお望みとあれば、喜んでお相手いたしましょう。――手加減しませんよ?」  メネフは、ふ、と、目を細めて笑った。 「望むところだ」  ホルセムは笑って言って、ふたりはそろって中庭に出た。  ふと奥の後宮のほうへ視線をやる。  ホルセムは、あの日からしばらく、トゥアルセティスのもとを訪れていなかった。  どうしようもない苛立ちが腹で蜷局(とぐろ)を巻いている。  だが、いまのそれは、己自身へのものだ。  父の仇、なにがあっても許せない相手であるはずのトゥアルセティスに、ホルセムは先日、(すが)るような想いを抱いてしまった。慰めを求めてしまった。その事実が、胸の奥で(くすぶ)り続けていた。  逆賊に抱き締められたいと望むなど――……父王への裏切りに等しい。  一瞬でも、気の迷いでも、そんな想いを抱いてしまった己の弱さを思うと、ホルセムの心は苛々と煮え立つばかりだった。  どうにも消えてくれないどうしようもない苛立ちを発散させたくて、今日はメネフに手合せを願い出たのだ。無心で剣を合わせているときは、何もかも忘れることができるのではないだろうか。 「さて……久々にお手並み拝見といかせてもらいましょうか、ホルセムさま」  メネフが言って、剣を構える。 「本気でいくからな」  ホルセムもまた剣の柄に手をかけると、体勢を低くした。  その刹那、さぁん、と、熱い風が中庭を吹き抜ける。剣と剣とがぶつかる、重たい音が響き、じぃん、と、腕が痺れるような衝撃があった。  一撃を防がれたところから、刃をすべらし、身体を捻って、ホルセムは二撃目を繰りだした。二合、三合と打ち合う。踏み込み、切り返し、時には引いて相手を誘いこみながら、また攻勢に転じる。  そして何度か刃が交わった後、ついに、カァン、と、鈍い音とともに、メネフの剣が弾け飛んだ。一本、取った。  ホルセムは肩で息をした。 「お見事」  将軍は満足げに笑って言った。 「ずいぶん腕をあげられましたね」  その一言に、ホルセムは口元をほころばせた。 「将軍の指導が良かったのだろう」 「いえいえ、オレなどは微力にすぎません。ひとえにホルセムさまの努力の賜物(たまもの)でしょうよ」  メネフはそう言って、肩をすくめる。手加減はしないと口では言っていながらも、目の前の相手は涼しい顔をしていて、その息はすこしも乱れてはいなかった。  メネフは軍属だ。ホルセムとは鍛え方が違うし、鍛えてきた年数ももちろん違う。いまの手合せはおそらく、よくて七割程度の力加減で相手をしてくれたのだろう。それでも、五年前には三割しか力を出していない将軍相手に手も足も出なかったことを思えば、自分は成長したと言って良いはずだった。  そう考えると、すこし気分が晴れた。ホルセムは久方ぶりに屈託なく笑う。  しかし、その気分は長くは続かなかった。 「――トゥアルセティスさまは……お元気、ですか」  不意に投げかけられたメネフからの問いに、ホルセムは表情を凍りつかせた。 「なぜ……そんなことを聞く?」  眉をひそめ、将軍を睨み据える。問い返す声音は、無意識に、低く唸るようなそれになっていた。 「いえ。ただ……王のお苛立ちの原因はそのお方かと、僭越ながら、推察いたしまして」  困ったように片眉を下げたメネフが躊躇いながら言う。ホルセムは押し黙った。剣を強く握り締め、眉を顰める。  そんなこちらを見て、相手は、ふう、と、ちいさく嘆息をもらした。 「神々も……酷なことをなさるものだ」  独白のような言葉に、ホルセムはちらりとメネフのほうを見た。相手はさまざまな感情を()い交ぜにしたかのごとき複雑な表情で、遠い虚空を見遣っていた。  神託によってホルセムの王妃と定められたトゥアルセティス。父王の仇。神託さえばければ、王宮に攻め上った日に、ホルセムはトゥアルセティスを斬っていただろう。  もしそうできていたなら、いまのように、わけのわからない感情に(さいな)まれることなどなかったはずだ。  ホルセムは奥歯を食い締めた。 「おまえ、も……」  かろうじて声を搾り出す。 「トゥアルセティスはおまえにとっても、かつて仕え、そして決別した相手だったな。そんな相手を、いまや再び、主の伴侶として仰がねばならぬとは……皮肉なことだ」  敢えて側近にそんなふうに同情を寄せてみるのは、己の胸をちりちりと焼け焦がすような思いを誤魔化したかったからだ。 「……そう、ですね……たしかに」  わずかの沈黙のあと、メネフは短く答えた。取り落とした剣を拾うためにうつむいた顔に、複雑な影が滲んでいる。 「トゥアルセティスさまは、うつくしく、かしこく、おやさしくて……身命を()して仕えて悔いない、オレにとっては、そんな相手でしたよ」  将軍は静かな声で言った。 「そんなふうに思う相手と敵対することになって……将軍は、つらくはなかったのか?」  ホルセムは若き将の表情を窺う。自分がトゥアルセティスに見捨てられたと知って怒りと恨みに呑みこまれたとき、メネフもまた同じような感情を味わっていたのだろうか。  メネフはホルセムをみて、ちらりと笑った。それはどこか自嘲めいた笑みだった。 「そりゃあ、つらかったですとも。でも、オレには……果たすべき使命がありましたからね」 「使命?」 「ええ。いつか王位を取り戻すとのそきまで、あなた様をお守りし、支えるという……それがあったから、なんとか(こら)えられたんでしょう」 「俺が、叔父を打ち倒し、父の仇を討つことを目標に、今日(こんにち)までを堪えたように、か」 「……そうですね。そういう意味では、オレとホルセムさまはすこし似ているのかもしれません」  苦笑とともに将軍は続けた。 「オレはトゥアルセティスさまの護衛を勤めておりましたから……よく、覚えていますよ。王がまだ幼かった頃、当時の王弟殿下に、ずいぶんと(なつ)いておられたこと」  そう言われ、ホルセムは刹那、胸を抉られるような気持ちになった。  幼い日の、淡い憧れ。その純粋な思慕と、いまの(ただ)れきった関係。  いまのトゥアルセティスは、否、五年前から叔父は、ホルセムにとって仇になった。敵だ。恨み、憎むべき相手である。  そうでなければならない。父王にも申し訳が立たない。  それなのに、幼い日々のうつくしくあまい思い出が、胸の奥底で(うず)くのだ。  ホルセムは唇を噛み、きつくこぶしを握りしめていた。

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