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第11話 剣舞
血を分けた肉親とのあたたかな思い出が、ホルセムにはほとんどない。
上下ケメトを統一した偉大なる祖父、カウラァ王は、統一から数年後、死者の国へと旅立っていた。ホルセムがまだ物心つくかつかぬかの頃である。だから、ホルセムは、祖父の姿をおぼろげにしか覚えていない。
その後を継いだ父、ケベクセプ王は、嫡長子であるホルセムにあまり関心を払わなかった。冷遇されていたとも思わないが、やさしくされた記憶もない。
ホルセムが物心つくころには、すでに父は、王という存在になっていた。太陽神ラァの子、その現身 である、何者にも代えがたい絶対的な存在である。
ホルセムは、父王の己への無関心を、国主であるとはそういうことだ、と、そんなふうに己に言い聞かせて呑み込んでいた。
それでも、もし母さえ存命であったならば、ホルセムのさびしさもすこしは癒されていたのだろうか。しかし、王たる父に代わってホルセムをやさしく抱き締め、慈しんでくれたかもしれない母は、ホルセムを産むときに亡くなっていた。
そんな中で、ホルセムのことを誰よりも気にかけ、いつもやさしい眼差しを注いでくれていたのは、血の繋がらない、七歳 年上の叔父のトゥアルセティスだけだったのだ。
懐なつくなというほうが、無理だ。
慕うなというほうが、おかしい。
うつくしく聡明で、なによりやさしかった、自慢の叔父。
母のいないホルセムのもとに、叔父はいつしか足しげく通い、遊びや稽古事などの相手をしてくれるようになった。
あれは、ホルセムが何歳 くらいのときだったろうか。すくなくとも六歳 、七歳 の頃にはもう、そうだったように思う。
もしかしたら、その頃、トゥアルセティスも実母――カウラァ王の妻として、子連れながらも後宮に迎えられた下ケメトの王女――を失くしたからだったのだろうか。あるいは叔父もまた、上ケメト王家の中でひとりになり、心細い想いをしていたのかもしれない。
「ホルセム。おまえの武芸の腕は、みるみる上達するね」
新たに剣撃の型を覚えたり、弓を引いて矢を的に中ててみせたりすれば、トゥアルセティスは微笑んでホルセムを褒めてくれた。その笑顔が見たくて、あたたかなてのひらに頭を撫でてほしくて、だからホルセムは鍛錬に力を入れた。
「でも、勉学も怠ってはいけないよ。おまえはいずれ王になるんだから」
トゥアルセティスは、どちらかといえば武にばかり熱心になりがちなホルセムを、そう嗜 めもした。
「だったら、トゥアルセティスが教えてよ。そしたら俺、もっと頑張れる」
そんなふうに答えたのは、いったい、いつのことだったろう。
盤上遊戯 の相手をしてもらったこともある。果物の皮を手ずから剥いて、ホルセムに食べさせてくれたこともあった。あのとき口にした、甘酸っぱい葡萄の味。
ふたりで過ごすとき、叔父の神秘的な〈月の眸〉は、ホルセムだけに向けられていた。トゥアルセティスの眼差しを独占できる幸福――……あのころの叔父の眸はいつもしずかで、どこまでもやさしかった。
五年前まで叔父と共にした、さまざまな時間。思い出すと胸が詰まった。締め付けられるかのようだ。
しばし回想に耽っていたホルセムは、ふと、手元の剣に視線を落とした。
そういえばトゥアルセティスは、別れる前の最後の会話で、ホルセムに剣舞を見せてくれと言っていたのではなかったか。叔父にそれを披露し、褒めてもらう日を想像しながら、十三歳のホルセムは一心に練習に励んでいた。
けれども、その約束を果たす日はやってこなかったのだ。
ふ、と、自嘲めいた笑みを浮かぶ。
気紛れを起こして、ホルセムはゆっくりと剣を掲げた。
幼いころ必死で覚え、何度も何度もなぞった振りつけ。ついぞ、見てもらう機会のなかった剣舞。それを、ゆるやかに、ひとり舞う。
切先が空を薙ぎ、腰布の上につけた長い前垂れが翻 る。胸飾りが、ちりちり、と、かすかに澄んだ音を立てた。
いまのホルセムの舞には、子供の頃のような稚拙さはもうない。まばゆい陽光の下、蜂蜜色の肌のしなやかな肉体が剣を自在に操って舞い踊るさまは、華麗で、優美だった。
しばらく無心で舞い、最後にすっと剣を鞘に収める。
ふう、と、ひと息ついて、顔を上げたときだ。回廊の奥に、思わぬ人影を見つけ、ホルセムは言葉を失った。
柱のところに、トゥアルセティスが立っている。叔父は、まるで五年の時を巻き戻したかのように、おだやかに自分を見つめていた。
胸の奥に、刹那、ほんのりとぬくもりが点ったような気がした。
幼かった頃、何かが出来るようになるたびに嬉々として叔父に見せて、あたたかな称賛をもらった。そのときの気持ちに似ている。
あるいはこれは、そんなかつてが再現されることへの、はかなく淡い期待なのだろうか。
けれども、その熱はすぐに冷える運命だった。
トゥアルセティスはホルセムと目が合うと即座に――こちらを見詰めていたと思ったのは幻だったかと疑いたくなるほど、そっけなく――ホルセムから視線を逸らしてしまった。
「っ、そんなところで何をしている? ……トゥアルセティス」
突き放されたような切なさを覚えたホルセムの声は、低く冷たい。
ホルセムはトゥアルセティスの足元を見た。そこには、黒い老犬イプワトの姿がある。
ということは、どうせまたイプワトが駆け出したのを追ってここまで出てきただけなのだろう――……決して、ホルセムが剣舞をまうのに気が付いて、それを見にきたわけではない。
そんなわけはなかったのに、なにを愚かに期待など持ってしまったのだろうか。いまホルセムの胸のうちにあるのは、多分に己への苛立ちも含まれていた。
「なぜ黙る? 答えろ」
それでも、腹の内のわけのわからない怒りを、いまのホルセムは目の前のトゥアルセティスにぶつけることしかできなかった。
「きさまは……っ」
トゥアルセティスに歩み寄り、更に相手を責める言葉を吐き出そうとしたときだ。
「――兄上」
ふいに静かな声が割って入った。
はっとして振り返ると、そこにはいつの間にか弟王子が立っている。
「……ハクラカァ」
ホルセムは弟の名をつぶやいた。声をかけられるまで相手の気配をまるで感じなかったのもあって、一瞬、驚いた。おかげで、それまでトゥアルセティスに向けようとしていた怒りも形 をひそめてしまったほどだ。
メネフ将軍もハクラカァの登場に虚を突かれたのか、わずかに目を瞠っていた。
そして、トゥアルセティスの表情もまた、刹那、蒼褪めるように固まった。
いったいなぜそんな反応をするのか、と、ホルセムが訝 りかけたそのときだ。
突然、ウゥウ、と、低い唸り声が足元から聞こえてくる。イプワトだった。続けて老犬は、毛を逆立て、牙を剥き、ハクラカァに向かって激しく吠え立てはじめた。
「どうしたのだ、イプワト?」
ホルセムが犬を制そうとしたその刹那、ハクラカァが見下すような鋭い視線をイプワトに投げつける。
「そこの簒奪者の飼い犬か。はっ、さすが躾 がなっていないな。いや、飼い主同様に王族に牙を剥くんだから、むしろよく躾けられているというべきなのかな」
ハクラカァは厭味を口にする。その口調はひどく冷たかった。
イプワトはそれでもまだハクラカァに向かって敵意を剥き出し、唸っている。が、ハクラカァがもう一度ぎろりとイプワトを睨み据えたとき、はっとしたトゥアルセティスが、庇うようにイプワトの身体を抱き上げた。
「これはわたしの犬ではなく、ケベクセプ王の時代から王宮で飼われている、王のもの」
そう、言い訳でもするような口調で言う。
「ハクラカァ」
ホルセムは、今度はトゥアルセティスをもきつく睨み据えた弟王子の名を呼んだ。
「たしかにイプワトは、父王に献上された犬だ。いまは、父の後を継いだ俺が飼い主ということになるだろう」
トゥアルセティスとハクラカァとの間に入り、そう口にする。
だがそうしながら、自分はなぜトゥアルセティスを庇うような行動をとってしまっているのか、と、一瞬にして己の行動に眉を寄せた。
犬はそもそも神聖な生き物であり、またイプワトに罪があるわけもない。だから、そんな老犬にまで刺々しい敵意を向ける弟を、宥めただけのことだ。
自分に、そう、言い訳する。
ハクラカァは、眉間に皺を寄せ、ふう、と、これみよがしな溜め息をついた。
「兄上がそうおっしゃるなら、仕方がありません。でも……父上の仇といつまでも同じ空気を吸っていたくはない。兄上だってそうでしょう? もう行きましょう。気分が悪い」
舌打ちするような調子で言いながら促され、ホルセムはちらりとトゥアルセティスを窺い見た。イプワトを抱いたトゥアルセティスは、相変わらず、ホルセムから視線を逸らしていた。
いつもと同じような叔父の頑 なな様子を目にしたホルセムは、突き放されたような気分になる。
「………そうだな、行こう」
叔父上も俺と同じ空間にいるのを好まないようだからとの皮肉は、けれども、喉の奥に引っかかったように、言葉になって出てはこなかった。
だが、そのほうがかえってよかったのかもしれない。そのセリフは、もし口にしていれば、負け惜しみのように響いたのかもしれなかった。
苛立ちと、やるせないような気持ちとが綯い交ぜになり、なんとなく後ろ髪を引かれるような感覚を覚えつつも、静かに踵 を返す。
弟王子と共に中庭を後にするホルセムに、メネフもまた従った。が、その場を去ろうとする刹那、将軍がトゥアルセティスに視線をやり、軽く目礼のような仕草をしたのが、ホルセムの視界の端に映った。
一瞬ふたりが互いに目を見交わしたように見えたその光景が、ホルセムの胸をちりりと焼いた。
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