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第13話 呪

「即位式の衣装あわせに、王妃さまもご同席いただきたいのですが」  よろしいですかと確認してくるウルの声に、ついぼんやりしていたホルセムは我に返った。  ホルセムの側近の書記官として、ウルはいま様々なことを取り仕切るようになっている。間近に迫った即位式の準備もそのひとつだった。  そういえば即位式の段取りについて話をしていたのだった、と、ホルセムは額を押さえて軽く溜め息をついた。 「ああ……必要な者を後宮に寄越してくれ。あれには俺から言っておく」 「では、明日の午後にでも」 「わかった」  そう応じて、ホルセムは再び大きく息を吐いた。 「お疲れですか」  ウルが気遣うように言った。 「いや」  ホルセムは(かぶり)を振ったが、それがそのまま言葉のとおりではないことなど、目の前の相手だって十分に承知のはずだった。  一都市に潜伏する反乱軍の長だったときと、国全体を動かす立場とでは、まるで違う。当然のことだ。けれども、それはホルセムが果たさねばならない使命だと自覚していたし、だからこそ、殊更に疲れたなどとは思わなかった。  それでも、心身への負担は確実に蓄積しているのだろう。それが時おり、表に出てしまうことがある。情けないなと思いながら、ホルセムはウルを見返した。 「みなよくやってくれているんだ。王たる俺が弱音を吐いてなどいられない。――だろ?」  ぼんやりしていたのは見なかったことにしてくれ、と、ホルセムはちいさく笑って言った。  それとも、ただ純粋に国の政にあたるだけなら、ここまで突かれたりはしないものだろうか。消えない心の混乱を抱えるホルセムは、眉を顰めて思う。わけのわからない苛立ちが募り、ここのところ、ホルセムをひどく疲弊させていた。  憎むべき相手を生かしておかなければならない、その心的負担のせいだ、と、自分自身に言い聞かせてはいても、胸のうちの靄は晴れない。  昨夜も、腹に蜷局(とぐろ)を巻く暗い感情に押し流されるように、激情にまかせトゥアルセティスを責め立てた。意味もなく激昂し、込み上げる怒りに任せて、抱いた。  トゥアルセティスはいつものように、最後には、気を失うように眠りについた。蒼褪めた頬には涙の痕があった。  思い出すと、胸の奥がひりひりと痛む。  自己嫌悪が渦のように押し寄せていた。 「――ホルセムさま」  そのとき、部屋の入り口から控え目にホルセムを呼ぶ声が聞こえる。 「アヌゥ、どうした?」  先に声をかけたのはウルだ。アヌゥはウルの遠縁の少年で、ふたりはもとより親しく気心の知れた間柄だ。 「えっと、ちょっと、ご相談がありまして……トゥアルセティスさまのお部屋に、呪師(いしゃ)を寄越してくださらないか、と」  アヌゥの口から呪師(いしゃ)という言葉が出た瞬間、ホルセムは血の気が引くのを感じた。 「トゥアルセティスに何かあったのか!?」  思わず席を立って、アヌゥに詰め寄っている。  人の身体を診る者には二種あって、外傷などに手当てを施すのを瘍医といい、原因のわからない痛みや苦しみに対処する者を呪師といった。それを呼べと言うことは、トゥアルセティスが倒れでもしたのかもしれない。 「いえ、王妃さまではなくて……イプワトが」 「イプワト?」  出てきた老犬の名に、ホルセムは目を(またた)いた。 「はい。昨日から苦しそうにしていて……それで、トゥアルセティスさまは、つききりで看病を」  昨日からということは、昨夜ホルセムが部屋を訪ったときもすでに、トゥアルセティスはイプワトを看ていたということだ。だから深更だというのにまだ起きていたのかもしれない。  そのときに言えばよいものを、と、ホルセムは唇を噛んだ。  だが、あの状態の自分に対してそんなことを言うような余地は、果たしてあっただろうか。もしかすると、トゥアルセティスは言いかけていたのかもしれない。だったら、聞こうとしなかったのはホルセムだ。  再び自己嫌悪の想いが湧く。 「ホルセムさまにお願いして、呪師(いしゃ)を呼ぶようはからっていただいては、と、何度か申し上げたのですが、王妃さまは、多忙な王の手を煩わすわけにはいかないからと、首を横に振るばかりで……ですが、お食事や休憩も(かえり)みられないあのご様子では、今度は、王妃さまもお倒れになりかねません。お身体のことが心配で、その、僭越ながら、ぼくがお願いにあがった次第というか」  すみません、と、アヌゥは申し訳なさそうに身を縮めた。 「いい。よく報せた」  ホルセムが言うと、少年は、ほ、と、息をつく。 「ウル、呪師をひとり、後宮へ手配してくれ」  側近に命じ、ウルが頷いたのをたしかめると、ホルセム自身は部屋を出る。 「後宮へ?」 「ああ。すこし、様子を見てくる」  べつに呪師さえ向かわせればホルセムが訪ねずともよいことはわかっていた。が、なんとなく、放ってはおけない気がする。 「イプワトは……王宮で長く飼われてきた、王の犬だからな」  誰にともなく言い訳するようにぼそりと呟き、ホルセムは後宮へと向かった。 *    ホルセムが訪ねたとき、トゥアルセティスは奥の居間にいた。敷き布の上に伏せたイプワトの傍について、その背をゆっくりといたわるように撫でてやっている。 「トゥアルセティス」  ホルセムが声をかけてようやく、叔父はこちらの存在に気付いたらしい。はっと振り向くと、驚いたように〈月の眸〉を瞬いた。 「ホルセム、どうして……」 「そんなことより、イプワトはどうしたのだ」  ホルセムはそちらへと近づいた。  イプワトはたしかに老犬だ。だが、昨日中庭で見たときは、こんなにも弱った様子ではなかったはずだった。  それがいまや、毛並みも荒れ、呼吸も弱々しく、いまにもいのちの(ともしび)が消えてしまいそうになっている。  そのイプワトに付き添うトゥアルセティスの表情にも、焦燥が色濃くあらわれていた。 「呪師(いしゃ)を呼んだ。間もなくやってくるはずだ」  自分もイプワトの毛並みを撫でやったホルセムが言うと、トゥアルセティスが目を瞠る。 「なんだ? 俺がイプワトを案じてはおかしいか?」 「いや……」  トゥアルセティスは慌てたように(かぶり)を振った。 「……ありがとう、ホルセム」  薄いくちびるからそんな言葉が漏れたとき、ホルセムは我が耳を疑った。  トゥアルセティスを見詰める。叔父の眼差しはすでにイプワトのほうへと戻されていたが、ホルセムはしばし、無言で相手の言葉を噛みしめていた。  いま、トゥアルセティスはホルセムに謝辞を述べた。たったそれだけのことなのに、胸の奥に点ったこのぬくみはなんだろう。ずっと失くしたと思っていた大切なたからものを、自分のすぐ傍らにふいに見つけたときのような、そんななんともいえない気分だった。  沈黙がまるで重くない。  イプワトを撫で続けるトゥアルセティスの傍らで、ホルセムも再び老犬の毛並みに触れた。 「ホルセムさま、トゥアルセティスさま」  ホルセムを追うように後宮に戻ってきていたらしいアヌゥが声をかけてくる。 「お呪師(いしゃ)さまがいらしてくださいました」  部屋の入り口には初老の男が立っている。ホルセムは男を迎え入れた。 「診てやってくれ。イプワトは、セベルヘプ王の時代から王宮で飼われている、神聖な犬なのだ」  トゥアルセティスも請うような表情を呪師に向けている。男は頷いて、イプワトの傍へ寄った。 「これは……」  しばらくイプワトの躰の何ヶ所かにてのひらを当てていた呪師が、やがて重々しく口を開いた。 「どうなのだ?」 「単なる病ではないやもしれませぬ」 「どういうことだ?」 「正体はつかめませぬ。ですが……何か悪い呪に()てられた痕跡を感じまする。犬はアンプゥ神の化身とされる神聖な生き物ですゆえ……あるいは、王や王妃に向けられた呪を、この犬が身代わりとなって受けたということなのやもしれませぬが……」 「呪……」  つぶやいたのはトゥアルセティスだった。その顔からは血の気が引いているように見える。 「お心当たりでもおありですかな?」  呪師が言った。トゥアルセティスはしばし黙りこんでいたが、叔父の表情を見れば、何か心に懸かるものがあることは容易に察せられる。 「まさか……アポォピスなのか」  思い当たって、そう口にしたのはホルセムだ。トゥアルセティスがはっとしたように顔をあげたから、どうやら、叔父が案じるのもその邪神のことのようだった。  そもそもトゥアルセティスがホルセムの王妃とされたのは、そうしなければ邪神アポォピスの災禍がふりかかるという神託のためだったのだ。神託の告げる災厄が具体的にはいったいどのような形をとるのかはわからない。だが、知らないところで、その影はすでに自分たちの傍近くまで迫ってきているのかもしれなかった。 「イプワトを救う手だては?」  ホルセムが呪師に尋ねると、男は沈んだ表情で首を横に振った。 「降りかかった呪を解くには、術者に返すのが最も有効……なれど、ひと口にそう申しましても、容易なことではございませぬ。まずもって、呪の正体がはっきりせぬことには……むずかしゅうございましょう」  男は首を横に振った。目下、取れる手はないということだった。 「っ、なんとかならぬのか!?」 「申し訳ございませぬ、王。術者をつきとめ呪を返すには、もはや時間が……」  それまでイプワトのいのちは持たないだろうというのが、その呪師の見立てであった。 「それに、わたくし程度の力では、とても……」  呪師はそうも付け足した。  かけられた呪を返すことなど、並大抵の者に出来る技ではなかった。高位の神官か、あるいは魔術を操る王族でもなければ、無理な芸当だろう。  だから、目の前の呪師の腕が悪いわけではないし、そのことは頭では理解できていたのだが、それでもホルセムは、くそ、と、思わず毒づいていた。 「ホルセム」  トゥアルセティスが窘めるようにこちらの名を呼ぶ。 「仕方のないことだ……手を尽くしてくれて、感謝する」  呪師に向かってそう言う叔父の表情は、けれども、悲しみの影が濃かった。ホルセムにはそれがやるせなかった。

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