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第14話 口づけ

 呪師が下がったあとも、ホルセムはその日、そのままトゥアルセティスと共にイプワトの看病を続けた。苦しそうにしているイプワトをただ見ていることしか出来ないのが口惜しかった。 「〈スゥヌゥ〉」  イプワトの身を撫でてやりながら、ホルセムは時折、癒しの魔術を使った。悪呪の前に効き目はわずかだとしても、そうしてやらずにはいられなかった。  ホルセムが呪文を唱えると、わずかの間、イプワトの呼吸は落ち着いた。真っ黒な目が、ホルセムを見て、トゥアルセティスを見た。 「イプワト、だいじょうぶだ……わたしはここにいる。おまえと一緒にいるよ」  イプワトが目を開け自分を見るときには、トゥアルセティスはイプワトの前肢を握るようにしながら、そう繰り返し言っていた。  それを見たホルセムの脳裡には、幼い日、熱を出したホルセムの傍に叔父が付き添ってくれたときのことが甦った。そのときのトゥアルセティスも、いまイプワトにそうするのと同じように、ホルセムの手をしっかり握ってくれていたように思う。だいじょうぶ、わたしが傍にいる、と、やさしく囁きかけてくれる声や、手のぬくもりが、とても、心強かったのだ。  いったい――……トゥアルセティスの本質はどこにあるのだろう。  ホルセムの中で、疑問が頭を(もた)げていた。  トゥアルセティスはホルセムの父王を弑し、玉座を奪った――……でも、ほんとうに、彼はそんなことをしたのだろうか。  否、それは紛れもなく事実のはずだ。何人もの証人がいる。実際、当時王宮にいたはずの弟ハクラカァも、トゥアルセティスを父王の仇と呼んだのだ。  でも、と、ホルセムは、静かで慈愛に満ちた眼差しをイプワトに向け続けているトゥアルセティスを窺い見ながら、思った。 「イプワト」  空白の五年。思えばこの老犬は、ホルセムがトゥアルセティスと離れていた五年の間も、トゥアルセティスの傍らにずっといたはずだ。イプワトならば、ホルセムが見失ってしまったトゥアルセティスの真実の姿を知っているのだろうか。  そんなことを考えたときだった。  ワォン、と、ホルセムに応えるかのように、イプワトがひと声吠えた。  ホルセムははっとする。  そして、表情を(ほころ)ばせた。 「イプワト、おまえ……良くなったのか」  いつの間にか、夜は明けていたらしい。曙光の中、イプワトは立ち上がって、嬉しそうに尾を振っていた。  子供のころに一緒に遊んだときのように、ホルセムのまわりをぐるりと駆け回ると、いきなり元気に駆け出していく。力強いその走りにほっとしたホルセムが後を追うと、イプワトが向かう先には、穏やかに微笑むトゥアルセティスの姿があった。 「トゥアルセティス!」  ホルセムは、かつてのように何の(てら)いも屈託もなく、叔父の名を呼んだ。 「イプワトの呪が解けたみたいだ! よかった! だって……こいつがいなくなったら、叔父上はきっと、すごく寂しいだろう?」  イプワトが、屈んで待ち構えるトゥアルセティスの腕の中に飛び込んでいく。ホルセムも追いついて、衝動のまま、イプワトごと叔父を抱き締めた。  あたたかい。陽向(ひなた)の匂いがする。  なんてしあわせなのだろう。 「トゥアルセティス! イプワト!」  この時間が永遠に続けばいい。  そう、これからも自分たちがずっと一緒にいられれば――……そう、祈るように、願うように思ったときだった。ホルセムは、はっと、目を覚ました。 「ゆめ……」  いつの間にか微睡(まどろ)んでしまっていたらしい。横を見ると、そこにはイプワトの傍らで静かに祈るトゥアルセティスの姿があった。 「トゥアルセティス……?」  呼びかけると、目を閉じていた叔父の瞼がそっと持ちあがって、〈月の眸〉がホルセムに向けられた。 「イプワトは……?」 「夜明けの頃に……息を、引き取ったよ。おまえの癒しの魔術のおかげで、最後は、眠るみたいに穏やかに旅立った。――……ありがとう」  トゥアルセティスの声は、囁くように静かだった。  ホルセムは言葉を失い、呆然とする。 「俺は、なにも……」  結局、何も出来なかったに等しい。それなのに自分に告げられた感謝の言葉が胸に沁みた。  ホルセムはイプワトの躰に触れた。すでに冷たく、硬くなりはじめている。その事実が切なく、悲しみが胸に迫った。 「イプワトは……ミイラ職人に、預けよう」  ホルセムは言った。いまの自分がせめてしてやれることは、もう、それくらいしかなかった。  ケメト人は、肉体の死を経て、魂が新たな世界へ旅立つのだと信じている。だが、死者の国に生まれ変わるためには、生前の肉体が失われてはならなかった。  そのために、人も、動物も、死後はミイラにしてその身体を保存する。それをなす専門家がミイラ職人だ。 「……いいのか?」  トゥアルセティスが驚いたように目を瞬く。逆徒であった自分の飼い犬をホルセムがそんなふうに大事に扱ってくれるとは想像しなかったのかもしれない。 「イプワトは王の犬……当然だ」  ホルセムは言い訳するように小声で言った。 「ありがとう……ホルセム」  トゥアルセティスも、掠れるような小声で言う。もう冷たくなっているイプワトの体躯を、それでも、ずっといとおしげに撫で続けていた。 「イプワトは賢く、忠義に厚い犬だ。死後の世界(あちら)でもきっと幸せになってくれるはず」  願うように口にする。そのうつむきがちの顔には、それでも、隠しようもない悲しみと寂しさとが滲んでいた。  それに気付いたとき、ホルセムは思わず、トゥアルセティスのほうに腕を伸ばしていた。  気づけば、相手の細い身体をそっと抱き締めている。  思い出の最後で叔父に抱きついたとき、ホルセムの身長は、まだトゥアルセティスよりずいぶんと低かった。だから、トゥアルセティスを抱き締めても、相手の胸に頬をつけるような恰好になった。  だが、いまはちがう。逞しくなったホルセムの腕はトゥアルセティスの身体を包み込むことができる。いまではもう、この胸に相手をすっかり抱き込むことが出来るのだ。  ホルセムは腕に包み込んだトゥアルセティスを見下ろした。  こちらを見上げた眸の中に寂しげに揺れる影を見たとき、ふいに、なぐさめたいと思った。不思議な衝動だった。  それでも、その思いは抗いがたくふくらみ、気づくとホルセムは、相手のくちびるに己のくちびるをそっと寄せていた。  ふれるだけの、やさしい口づけ。あたたかくやわらかなくちびるの感触が、ホルセムを切ない気持ちにさせる。 「……ホルセム……?」  くちびるを離すと、トゥアルセティスは(いぶか)るようにこちらを呼ぶ。  その瞬間、はっと我に返ったホルセムは、弾かれたように相手から離れ、そのまま逃げるように部屋を出た。

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