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第15話 即位式前夜

 イプワトが死者の国へ旅立ってから数日が経った。  明日はもう即位式という日の夜半、しかし王宮は、晴れの儀式を前にしているとは思えないほどにひっそりと静まり返っていた。  ホルセムは自室にいた。夏の太陽が沈んでからもうずいぶん時が経つが、まだこの部屋の灯火は消されてはいない。寝台に腰掛け、月のない夜空をぼんやりと眺めていた。  気が付くと、己のくちびるに触れている。  あの日、腕の中に抱き込んだトゥアルセティスに、ホルセムは口づけをした。幾度も身体を重ねてはいたが、叔父のくちびるに触れるのは、あの時がはじめてだった。  どうしてあんなことをしてしまったのだろうか。ホルセム自身、自分の行動の理由をはかりかねていた。  冷たくなったイプワトの体躯を黙って撫でさする叔父のうつむき加減の表情。それが、ひどく心細そうに見えた。悲しげな表情をするトゥアルセティスを前に憐れを催し、その憐憫が、ホルセムにああした行動を取らせたのは確かだ。  けれども、そんな自身の心の動きは、ホルセムには信じ難いものだった。  相手はトゥアルセティスなのだ。ホルセムにとって憎むべき相手で、同情を寄せてやる義理など、本来ならば欠片(かけら)ほどもないはずだった。  それでも、口づけてしまった。  叔父のくちびるのやわらかくあたたかな感触がふいに思い出される。ほんのすこし触れあっただけの、ひどくつたなく、ぎこちない接吻だった。  それを、この数日のホルセムは繰り返し思い起こしては、人知れず――自分ですら半ば意識しないままに――せつない溜め息をこぼしていた。  今宵も寝つけそうにない。だが、あの日以来、トゥアルセティスに会いに後宮に行く気分にもなれなかった。  否、顔を見たい気持ちと、いま叔父と対面しては何かが決定的に変わってしまうかもしれないという奇妙な恐怖とが、ホルセムの中で激しく(せめ)ぎ合っているのだ。  それでも、明日は即位式である。いつまでもトゥアルセティスと顔を合わせないままでいることなど出来はしない。  そうとわかっていても、なお、柄にもなく怖気づいている自分がいるのも事実だった。  ホルセムは、ふう、と、息をつく。  葡萄酒(ワイン)でも呑むか、と、頭を掻きつつ、立ち上がった。そのときだった。 「――ホルセムさま」  部屋の外から呼びかけられる。聞き慣れた、幼馴染の側近の声だった。 「ウルか。どうした、こんな刻限に」  明日の即位式のことで何か火急の用件でもあったのだろうか。ホルセムはウルに応じつつ、入り口のほうへ歩み寄った。 「兄上、夜分に申し訳ありません」  今度聴こえてきたのはハクラカァの声である。どうやらウルとともに、弟王子もまたそこにいるらしかった。  ホルセムは部屋の入り口にかかった厚手の布の扉を持ち上げ、ふたりを部屋に招き入れた。 「お起こしいたしましたか?」 「いや……まだ起きていた」  寝付けなかった理由は黙ったまま、ホルセムは首を振った。 「それより、どうしたのだ? ふたり揃って」  そう問うと、ハクラカァが碧玉の眸を真っ直ぐにホルセムに向ける。 「お喜びください、兄上。僕の遣わした者が、トゥト神の加護を受けた娘を見い出したとのことです」  弟王子はいかにもうれしそうに眸を輝かせていた。 「な、に……」  ホルセムは言葉を失った。  トゥト神の加護ある者が、トゥアルセティスの他にも発見された。これまで、神託が示すホルセムの王妃たる資格を持つ者は、トゥアルセティスのみと思われていた。が、そうではなく、別にも存在していたのだ。   王妃がトゥアルセティスである必要がなくなった。それはすなわち、叔父を生かしておく必然性がなくなったということだった。  心置きなく、父王の仇として、トゥアルセティスを処罰できる。  それは、待ち望んだ、喜ばしい報せのはずだった。  それなのに――……ハクラカァの言葉はホルセムに喜びを(もたら)さなかった。むしろ、都合の悪い事実を突き付けられたときのように、腹の底が冷えた気がした。 「そう、か……」  応じる声色にも戸惑いの色が滲む。 「ホルセムさま?」  さすがにウルは長くホルセムの傍にいるだけあって、こちらの様子がおかしいことに気が付いたようだ。気遣わしげに名を呼ばれたが、ホルセムは、なんでもない、と、(かぶり)を振った。  ハクラカァは更に話を続ける。 「いま急ぎ王宮に向かっているとのことで、早ければ明後日あたりにも到着するでしょう。――おそらく、その者こそが、真に兄上の王妃となるべき者のはず……逆賊トゥアルセティスなどではなく」  ハクラカァは最後、憎々しげに叔父の名を口にした。 「ホルセムさま。いまからでも、王妃としてお立てになる相手をトゥアルセティスさまからその娘へとお改めになりますか? そうなると、明日の即位式はいったん延期ということになりますが」  どうやらそれを訊ねるため、ウルも共にやってきたということであるらしかった。  トゥト神の加護ある者を王妃に、と、そう神託があったからこそ、弑逆と簒奪の咎人であるにも関わらず、神託の指す唯一の存在であるトゥアルセティスがホルセムの王妃と定められた。神の言葉を(たまわ)ったのでなければありえない判断だった。  だったら、条件に合う者が他に現れたいま、そちらに鞍替えするのが当然だ。  トゥアルセティスは、この世の誰よりも、ホルセムの隣に立つのにふさわしくない相手なのだ。父の仇。王位を盗んだ者。他の誰であっても、トゥアルセティスよりはましだと言えた。  だから、ウルの提案は正しい。  即位式はまだ済んでいない。いまでもすでにホルセムは王、トゥアルセティスは王妃と見做されてはいるが、それは正式のものではなかった。  ラァ神殿での儀式を経て、正式にトゥアルセティスを王妃に立てる前ならば、まだ、相手を差し替えることは可能かもしれない。  しかし、ホルセムは即答できなかった。 「……即位式は、もう明日だ」  むしろ、まるで提案を容れずにすむ言い訳を必死で探すかのように、ウルとハクラカァから視線を逸らし、言葉を濁すように言った。 「儀式の日取りは、ラァ神官が占って決定した、いわば神々との約束……動かすべきでは、ない」  呟くように言った声は、みっともなく掠れていた。 「ですが、兄上!」  ハクラカァはすぐには引き下がらなかった。けれどもホルセムは、もうこれ以上は聞かないとばかりに、弟王子に背を向けた。 「ふたりとも、もう下がれ。――予定通り、明日はトゥアルセティスと共に即位式に臨む」  そう言い残すと、困惑する様子のウル、まだ納得しないふうのハクラカァを置いて、ホルセムは部屋の奥へと戻ったのだった。

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