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第18話 初夜の儀

 常とはちがい女官たちによって整えられた寝室は、清潔な白絹がまぶしく、かすかな香料の香りに満ちていた。鮮やかな模様が織り込まれた絨毯が敷かれ、テーブルの上には金銀の器が並んでいる。豪奢ながらも神聖さを失わないこの空間は、王と王妃の初夜のために準備されたものだった。 「……いないかと、思っていたのに」  これが、女官に手を引かれて寝所へ姿を見せたトゥアルセティスの第一声だった。  即位の儀式の最後は、新たな王と王妃との同衾である。群臣との宴のあと、女官の手によってしきたりのとおりに支度を整えられたホルセムは、決まりに従い、日がすっかり落ちた夜になってから後宮にトゥアルセティスを訪なった。  そのときはまだ、トゥアルセティスは部屋にはいなかった。代わりに、女官がひとり、テーブルの上に葡萄酒(ワイン)や果物などを用意しているところだった。 「王妃さまはただいま湯殿にてお支度の途中にございます。間もなく参られますので」  飲食物を並べ終えた女官は、ホルセムにそう言い置くと、一礼して部屋を辞していく。手持ちぶさたになったホルセムは、とりあえず椅子に腰掛けて、葡萄酒(ワイン)で喉を湿らせた。いつもの寝所が見慣れない部屋のようで、なんとなく落ち着かない気分だった。 「――ホルセム王」  やがて、部屋の外から声がかかった。 「お妃さまのご準備、整いましてございます」  そう告げる声とともに、女官の手で布扉が持ち上げられる。ホルセムは思わず立ち上がった。  女官に先導されたトゥアルセティスがそこにいる。その姿を目にしたとき、ホルセムは思わず息を呑んだ。  昼間、王妃の正装を(まと)っていたトゥアルセティスの姿も、気高く、この世のものとは思われないうつくしさだった。だが、夜は夜で、清潔さの中に深く押し込めた妖艶な気配が、それでも隠しきれずに匂い立つような、そんなうつくしさがあった。  刹那、ぼう、と、目を奪われてしまっていた。 「王は太陽神ラァの子、神の現身(うつしみ)。何事も、王のなさるとおり、その身のすべてをお任せになりますよう。王のお望みのままに、お応えなさりませ」  女官が、呪文でも唱えるかのように、滔々(とうとう)と述べ立てる。その声に、ぼんやりとしていたホルセムは我に返った。  そうだ、これは即位の儀の一環、王と王妃との初夜の儀式である。気を取り直して、ホルセムはトゥアルセティスのほうへと手を差し出した。  揺らぐ灯明のあかりの中、叔父は女官に導かれ、しずかにホルセムに歩み寄ってくる。蜻蛉(かげろう)(はね)のように透ける薄絹の衣が、その足取りにあわせて揺れ、さらさらと砂が流れるときのようなかすかな音を立てたような気がした。  相手は、ホルセムの間近で立ち止まると、神秘的な〈月の眸〉をホルセムのほうに向けた。 「……トゥアルセティス」  ホルセムは相手の名を呼ぶ。声が掠れてしまわなくて良かった、と、思った。  女官が、引いていたトゥアルセティスの手を、ホルセムの手へと預け直す。それに合わせ、トゥアルセティスがもう一歩、ホルセムのほうへと歩み寄った。  身体が近い。ふわり、と、甘い香りが(ただ)った気がした。 「神々の思し召しのままに、良き夜を過ごされますように」  そう告げると、女官たちはみな一様に、部屋を辞して行った。  ふたりきりになると、おとなしくホルセムに手を握られているトゥアルセティスは不意に、ふ、と、口許をゆるめた。 「いないかと、思っていたのに」  ようやく聞かせた声は、どこか嘆息するような調子だった。その中に混じるのは落胆の響きだろうか。ホルセムは、ちく、と、胸が痛むのを感じる。 「っ、いないほうが……あなたにとっては、良かったのだろうがな」  皮肉っぽく吐き棄てたのは、多分に強がるためだったのかもしれなかった。 「そうはいくものか」  唸るように呟き、トゥアルセティスの手を引くと、その細身を腕に抱き込んだ。  その刹那、ふわ、と、普段の相手からは感じることのない甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。トゥアルセティスは逆らわず、くたり、と、ホルセムのひきしまった逞しい身体に身を添わせた。 「……そういう意味じゃ、ないよ」  すこし笑って答えた声は、どこか舌っ足らずに聴こえる。 「王家の谷では、おまえの機嫌を損ねてしまったようだったから……だから、こないかもしれないと、思っていただけ」  他意はない、と、言って瞼を伏せたトゥアルセティスは、ほう、と、吐息した。 「大事な儀式なんだ、すっぽかしたりはしない。いっときの感情に負けてそんなことをして、もし神々の怒りでも買ったら、それで割を食うのはケメトの民なのだからな」 「そうか……」  トゥアルセティスは目を細め、また、そ、と、嘆息するようにつぶやいた。明らかに様子がいつもと違っていた。  ホルセムは、いつになく素直な様子のトゥアルセティスを、思わずじっと見詰めていた。 「どうした、ぼんやりして……つかれているの?」  見下ろすホルセムの眼差しに気付いて、トゥアルセティスが顔を上げて問う。 「おまえはいま、とても忙しいのだろうね。大河(イテロ)から東の紅き海(イメンティウ・ウル)へ運河を引く計画に手を付けたと……」 「……誰から聞いた?」  ホルセムは声を低くした。  なぜトゥアルセティスが朝の内部の動きを知っているのだろう。まさか内通者でもいるのだろうか。だとしたらそれは、かつて叔父の護衛官であったメネフ将軍だったりするのだろうか。ふたりが再び接近し、互いに親しみを取り戻すことは、まったくありえないわけではないかもしれない。  そんな根拠のない思考に沈みかけたホルセムを、トゥアルセティスの声が呼び戻した。 「アヌゥが」  叔父が口にしたのは、ウルの遠縁で、いまは自らの世話係をつとめる少年の名だ。 「ウルから聴いたと言っていたが。――わたしが知っていては、いけないことだった?」 「いや……」  一瞬、埒もない醜い嫉妬に駆られかけた己が恥ずかしく、ホルセムは言葉を濁した。  しばらくそのまま黙りこんだが、トゥアルセティスはその間、まるでホルセムの次の言葉を待つかのごとく、こちらに静かな眼差しを向けている。その眸が、五年前まで己に注がれていたものと重なって見え、ホルセムは促されるように口を開いていた。 「これからは、交易に重きをおきたいと、考えている」  途切れ途切れに言って、叔父を窺う。トゥアルセティスはまだ穏やかにホルセムを見上げていた。だからホルセムも、自然と話を続けていた。  「それを通じて、他国と(よしみ)を結んでいきたいんだ……(いくさ)をする相手としてではなく」 「そう」 「五年間、下ケメトにいたが……暮らしてみて、わかった。あの辺りは常に異国の脅威にさらされていて、小競り合いも本当に多い。祖父の時代に、下ケメトが上ケメトに呑まれたのも、続く異民族への対応で疲弊せざるを得なかったからではないのかと……そう、思ったから」  征服された当の下ケメト王家の末裔である叔父は、上ケメト王家の血筋に連なるホルセムのいまの言葉を、どう受けとめただろう。  そう考えて、ふと、ホルセムは思い至った。  思えば叔父にとって、上ケメト王家の人間は、仇のようなものだったのではないか。否、紛れもなく仇だったのではないのか――……ホルセムが父王を殺した叔父を仇と憎むように、叔父もまた自分たち上ケメトの者を憎んでいたのだろうか。  そんなふうに、いままで一度も考えたことがなかった。  トゥアルセティスからは、昏い恨みの情念など、欠片(かけら)ほども感じ取ったことがなかった。  だが、うまく隠していただけだったのだろうか。だから彼は謀反したのだろうか。 「そんな顔をしなくていい、ホルセム」  ホルセムの表情から、こちらの心の機微を呼んだらしいトゥアルセティスが言った。 「上下ケメトの統一は、神々の思し召しだ。宿命だったのだと、思っているよ。だから怨みなどない」 「だったらなぜ、あなたは……!」  背いたのだ、と、問い詰めようとしたホルセムを(かわ)すように、トゥアルセティスは話題を変えた。 「アヌゥは賢く、よく気がつく良い子だね。気立ても良いし、行動力もある。きちんと学ばせれば、きっとおまえを支える良い書記官にだってなれると思うのだが……これは、差し出口かな」  トゥアルセティスは自嘲するようにちいさく笑った。  その穏やかな調子に、ホルセムは毒気を抜かれる。奇妙な感じだった。戸惑いを覚えつつ、ホルセムは叔父の問いかけに対して、いや、と、首を振りつつ返事をした。 「……あなたがそう言うのなら、そうなんだろう。事実……あなたの臣だった者たちもみな、新王朝でよくやってくれているから」  トゥアルセティスを討つため王宮に攻め込んだ際、無抵抗で投降した書記官、衛兵。烏合の衆、我が身ばかりがかわいい忠義心のない者の寄せ集めだったのかと思っていたが、意外なほどに、彼らは優秀で、しかも忠実だった。  圧倒的に人材の足りていなかったホルセムの朝において、すでに、皆がなくてはならない存在になっている。 「そう。うまく使ってやっておくれ。みな、志高く、能力ある者ばかりだから」  その志高く能力ある者たちは、では、なぜああも易々と、主であるトゥアルセティスを見捨ててホルセムに降ったのだろう。  なにかあるのではないのか、と、ホルセムの中で頭を(もた)げかけた疑問は、けれど、トゥアルセティスが唐突にかくんと膝を折ってくずおれたことで、霧散してしまった。 「っ」  ホルセムは慌ててトゥアルセティスを抱えるようにして支えた。 「どうした?」  戸惑って問う。すると、トゥアルセティスはかすかに苦笑した。 「ん? ああ……さっき、ずいぶんと、香を嗅がされたから」 「香?」 「催淫効果のあるものだろう。わたしが寝台で、おまえに従順であるように、と……」  重たげに瞬きながら言う。もう立っていることすら出来なくなっているらしい相手は、支えたホルセムの腕に(すが)るふうになっていた。

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