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第20話 乙女

 熱に溺れ、快楽に酔い、夜明けが近づく頃になってホルセムはようやくトゥアルセティスを放してやれた。熱の余韻を引き摺ってぼんやりとする相手の前髪を梳いてみた。覗き込んだ〈月の眸〉が瞬き、何もいわずにホルセムを見返したので、思わず(まなじり)にいたわるような口づけを落としていた。  そのあとは、お互いにもう、言葉少なだった。  トゥアルセティスが嗅がされていた香の効果も、その頃にはさすがにすっかりなくなってしまっていたのだろう。互いにすこしだけ眠ったあと、夜明けの光の中、寝台から立っていくホルセムを、叔父は引きとめたりはしなかった。  窓から曙光が射し込んでいる。その光は白く、(まばゆ)く、それだけに(あかつき)の端に追いやられて(わだかま)る闇の色は濃い。   ホルセムの身体には、なお、昨夜の余韻がくすぶっている。  いつもと違う熱っぽさ、重なり合った素肌の感触、ぬくもり。触れあったくちびるのやわらかさ、あまさ。そして、ホルセムを頭を撫でてくれた指のやさしさ。  それらの鮮やかな記憶が、幼い日々のあまやかな思慕とまじりあって、ホルセムの胸を()がしていた。  胸を灼く記憶を、気を抜くと、無意識のうちに頭の中で反芻してしまっている。トゥアルセティスの眼差しも、声も、指先のぬくもりも。惑わされてはならない、忘れなければ、と、振り払おうと努めれば努めるほどに、それらは抗いがたく心の奥底に根を張っていくようだった。 「……くそっ」  寝所を出たホルセムは、回廊の柱に寄りかかり、ひとり毒づいた。爪の痕が肌に残るほどきつく、てのひらを握り込んだ。  憎んでいるはずだ。なぜなら、叔父はホルセムの父、セベクヘプ王をその手で弑した仇なのだから。幼いホルセムの思慕を裏切り、玉座を奪った簒奪者なのだから。  そんな相手の心を求め、そのぬくもりに慰めを得ることなど――……ゆるされるはずがない。  父王に顔向けができない。  頭ではわかっている。わかっているはずなのに――……自分はいったい、どうしてしまったのだろうか。  ホルセム、と、昨夜そっと自分を呼んだ声。脳裏によみがえったその声音だけで、また胸の奥が熱くなる。  うらはらに、なぜか怖いほどに満たされてしまっていたそのときの自分を思い出すと、それだけで吐き気をもよおすほどに腹の底が冷たくもなるのだった。  自分はいったい、どうしてしまったのだろうか――……これではまるで、悪い魔術にでもかかっているようだ。  否、いっそ、そうだったらいいのかもしれない。  いまのホルセムの混乱が、たとえば、叔父の持つあの〈月の眸〉の魔力に惑わされているだけだとしたら、それなら、まだ救いがあるではないか。 「……叔父上……あなたは……」  ホルセムが眉を顰め、(ひと)()ちたときだった。 「兄上」  ふいに背後から声がかかった。  はっとして振り返れば、そこには弟が立っている。そしてその隣には、白い肌に艶やかな黒髪を持つ、ひとりの少女の姿があった。 「ハクラカァ……どうした」  ホルセムは平静を装って応じた。  視線をハクラカァの隣に立つ少女のほうへと向ける。目を閉じ、顔を伏せて畏まっていた少女が(おもて)を上げたとき、ホルセムの胸は嫌な感じに拍動した。  少女の眸はかすかに蒼味を帯びた銀灰色だ。その中に、舟のような形の金の月を浮かべた、独特の虹彩――……それはまさしく、叔父がもつのとおなじ、〈月の眸〉だった。 「トゥト神の……」  ホルセムはつぶやいた。  一昨日の晩、トゥアルセティスのほかにもトゥト神の加護を受けた者を見つけた、と、そう弟は告げていた。その、娘だ。  整った容姿の、美しい少女だった。清楚でありながらも、その眸に、どこか妖艶さが(とも)って見えるのは、トゥアルセティスと共通している。  だが、不思議なことに、その眸でじっと見詰められても、ホルセムは相手にさして興味を動かされなかった。  すくなくとも、トゥアルセティスに対して感じるような渇望感は湧いてこない。むしろその舐めるような、(まと)わりつくような眼差しが、(うと)ましくさえ思えた。 「その者は何だ、ハクラカァ」  だからだろうか、次にホルセムが弟にかけた声は、ひどく冷たかった。 「兄上……」  ハクラカァが、おそらくホルセムの意図を読みかねて、戸惑っている。控え目にこちらを呼びながらも、つなぐ言葉を探し(あぐ)むふうが見て取れた。  ホルセムは眉根を寄せた。当のホルセムにだって、いま、自分で自分の心がわからない。どうして自分はこんなにも苛立っているのだろうか。 「一昨日申し上げた娘が到着しましたので、さっそくお連れしたのです。兄上、神託は、トゥト神の加護ある者を王妃にというもの……でしたら、この者こそ、真に兄上の妃となるべき者のはず。あなたの妃が、父上の仇の逆賊などであってよいはずがありません」  ハクラカァは隣の娘を指し示しつつ言った。 「言ったはずだぞ、ハクラカァ。王妃はトゥアルセティスだと」 「しかし、兄上」 「我らは昨日、太陽神ラァの前で誓いをなした。すでに神に誓ったことを、どうして、王たる俺が無碍(むげ)にできよう」  だから自分の王妃はトゥアルセティスだ。これはもう揺るがない。  否、ほんとうは、揺るがせたくないのかもしれない。トゥアルセティスはホルセムの王妃だ。裏切りの果てにその心がどこにあろうが、それでも、その確かな事実だけは、せめて手放したくないのかもしれなかった。  ホルセムの唸るような声は、弟王子を一瞬黙らせた。  〈月の眸〉を持つ少女も、かすかに息を詰めている。 「っ、用がそれだけなら、俺はもう行くぞ」  ホルセムは短く言い放って、回廊を歩み出す。 「……っ、兄上!」  ハクラカァが、こちらの背を追うように声をかけてきた。 「なぜなのです、兄上!? 逆徒を王妃とせねばならぬこと、あなたは御立腹だったのではないのですか。納得していなかったのでは?」  弟の問いが、ホルセムの胸を(えぐ)る。  そうだ、その通りだとも、と、思いつつも、いまやはっきりとそう言ってしまうことに躊躇いを感じている。そんな己への嫌悪感から、ホルセムは拳を握りしめた。 「この者がいれば、この者を王妃とすれば、それで状況は整う。神託には……神々の意思には、あくまで反することなく、トゥアルセティスを討てるようになるのですよ? 兄上だって、復讐を望んでいたはず……それなのになぜ、いまになって、その道を放棄なさろうとしているのですか!? ――まさか、兄上は……」  そこまで言ったハクラカァが、急に、声を低くした。 「まさか……情が、わいたのでは、ないでしょうね? よりによって、あの逆賊に……」  そう言われた瞬間、ホルセムは反射的に振り返る。 「馬鹿を言うなっ!」  激昂して弟を怒鳴りつけた。 「そんなわけがあるか!!」 「しょうでしょうか? むきになるのは図星だからでは?」 「っ、そんなわけは、ない」  絞り出すようにホルセムは言った。  昨夜の官能の記憶。お互いきつく抱き合って、極めた刹那。理性と欲望。憎悪と執着。  自分の中に存在している矛盾する感情を、愚かだと、恥ずべきものだと、誰よりもホルセム自身がわかっている。  そんなわけがない。  そうであってはならない。  仇敵なのだ。ずっと憎み続けていなければならない。  情など抱くわけがない。  抱いてよい、わけがない。 「そんなわけが、ない……」  ホルセムは眉を寄せ、奥歯をぎりりと食い締め、そしてゆっくりと言った。 「ただ……神に誓った以上、事はそう簡単ではないというだけのことだ」  なんとか王としての威厳を保って続ける。  弟王子はホルセムをじっと見た。冷えた碧玉の眸は、ホルセムの心根を見透かそうとしているかのようだった。 「わかりました」  ハクラカァは静かに言う。 「いったん王妃にしたからには、トゥアルセティスを廃し、新たな王妃を立てるにも、神々に申し述べる理由が必要だと? ――では、兄上。その理由さえ整えば、もう一度お考えくださいますね」  ホルセムの言葉をとらえ、ハクラカァが念を押すように迫る。  弟の刺すような視線に、ホルセムは言葉を失った。 「……下がれ」  結局、応とも否とも答えず、そう命じる。そして逃げるように(きびす)を返し、弟に背中を向けていた。  その間ずっと、黙ってハクラカァの傍に控え、ホルセムを見ていた少女の〈月の眸〉――……叔父のそれと似て、けれどもまるで違うその眼差しを、ホルセムは終始わずらわしく感じていた。  それが、背を向けたいまもまだ自分を追い、絡みついてくるような気がする。  弟の、まるで侮蔑するかのような、ひどく冷たい碧玉の眼差しも、だ。  足音も高くその場から歩み去りながらも、ホルセムの耳の奥には弟の言葉が反響していた。  情がわいたか、だと――……そんなはずはない。  考えるだけでも吐き気がした。  それなのに、否定すればするほど、胸が掻きむしられるように苦しい。  その苦悶を(あざわら)うかのように、また、昨夜の甘美で(ただ)れた記憶がよみがえった。トゥアルセティスの手指、くちびる、声。  けれども、こんなふうにそれを繰り返し思い浮かべる、それこそが罪深かった。己でもわかっていた。  いっそ、と、やはりホルセムは思う。昨夜、なぜか泣いてしまったときと同じ言葉を、くりかえす。 「神託など……最初から、なければ……」  そうだ。いっそのこと、あの日にすべてが終わればよかったのだ。そうすれば、いま、こんなにも(かつ)えた気持ちに振り回される必要などなかった。苦しむ必要などなかった――……それなら、いまからでも、叔父を討ってしまえばいいのだろうか。  ハクラカァが言っていたことを心中に反芻する。トゥト神の加護を持つ者がもし叔父以外にもみつかれば、その者を王妃にすればいい。そして、トゥアルセティスを処刑すればいい、と、弟は再会の日にはすでに、ホルセムにそう言っていた。  そして、今日ふたたびの進言。それを入れさえすれば、いまや、トゥアルセティスを逆賊として処刑することが可能だった。  それが取るべき道。  父王を殺され、玉座に奪われていたホルセムが、王位を取り戻したのちに、本来ならば最初に為していてしかるべきことだった。  だったら――……そうすることでしか、もはや、この渇きや苦しみから逃れる術はないのかもしれない。  どこかで掛け違ってしまったものを、そうして、すっかり元に戻すのだ。  その考えは、邪神の囁きのようにひどく甘美な誘惑となって、ホルセムの中に忍び込んできた。背筋を冷たいものが撫でたようで、ホルセムは、ぞく、と、震えた。

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