22 / 28

第22話 選択

「……ウル」  ホルセムは側近の名を呼んだ。 「おまえは、どう思う?」  (すが)るように、幼なじみに眼差しを向ける。 「王はあなたさまです、ホルセムさま。ですから、すべてはあなたの思し召しのままに……ただ」  ウルは正論を口にしたあと、躊躇いがちに一度黙りこんだ。 「なんだ、言え」  ホルセムが促しても、いえ、と、まだ口籠る。  しばらく言い(あぐ)んだのち、意を決したように、ウルはひとつ息をついた。 「ここしばらく、ホルセムさまずっと、どこかいつもと違われた……もちろん、激務のためも、あったのかもしれません。ですが……トゥアルセティス王妃の存在が、ホルセムさまを苦しめているのも、たしかなのではないかと」 「俺が……あいつのために苦しんでいる、だと?」  ホルセムは、ばかな、と、吐き棄てるように言った。はは、と、乾いた嗤いを漏らして見せた。  けれどもそれは、胸のうちのしくしくと痛む部分を護りたいがための、強がりだったのかもしれない。  そして、ずっと傍近くにいるウルには、ホルセムのそうした機微など、きっとお見通しなのだ。  だからこそ、相手はやや眉根を寄せて、ホルセムをじっと見据えていた。 「あなたさまがそんなふうにお酒をお過ごしになるところを……私は、初めて見ます」  指摘されて、ホルセムは黙った。  目を伏せ、爪が掌に食い込むほど強く握りしめる。 「兄上」  ハクラカァが俯くホルセムに静かに呼びかけてくる。 「〈月の眸〉には魅了の魔力が宿るとか……兄上はもしかしたら、あの男のその力に、惑わされておしまいなのではないのでしょうか。あいつは、おとなしく従順なふりをしながら、性懲りもなく、まだ何か企んでいるのかも。兄上を、魔力で惑わせて」  そう言われてホルセムは、馬鹿な、と、つぶやいた。  けれども、その声は情けなく掠れていた。  もしもそうだとしたら、トゥアルセティスは再び、ホルセムを裏切るのだろうか。そう考えるだけで、肚の底が急激に冷えていく。  五年前、あのオアシス都市で味わった絶望。信じた人に呆気なく見捨てられたと知ったときの、あの苦しみ。  胸が引き絞られるような悲しみを、ホルセムはまたしてもトゥアルセティスから与えらえることになるのだろうか。  そんなものは、耐えられない。  それならば――……今度こそは、あちらに裏切られる前に、こちらから捨ててしまえば良いのではないのか。  それは、そのときのホルセムにとって、あまりにも魅力的な誘惑だった。  もう、すべてうんざりだ。  彼から解放され、楽になりたい。 「……トゥアルセティスを……」  ホルセムは、乾いてひきつる喉から、絞り出す。 「王妃をとらえて、投獄せよ。――……いや、俺が行く」 *  王宮の廊は、夜の静けさに包まれている。松明の炎が揺らいで、石の床に長く影を落としていた。  ゆらゆらと揺らめく影が不気味に伸び縮みする中、ホルセムは後宮へと向かった。  その途中、ふと、人影が過ぎる。黒い髪に白い肌。神秘的な〈月の眸〉が、控え目ながらもじっとホルセムを見た。  神託の娘だ。そういえばまだ名も聞いていなかった。  ホルセムがいま取ろうとしている行動のその先に、この娘は、次の王妃と定められる。そう思ってもなお、相手に対して何の興味もわかなかった。 「そこで何をしている」  ホルセムは義務的に娘に問うた。 「王様……ご一緒しとうございます」  娘は、ちいさな声で、媚びるように言った。 「好きにしろ」  無関心のあまり、ホルセムは吐き棄てるように言って、娘を待つでもなく更に足を進めた。 「トゥアルセティス」  トゥアルセティスがいるはずの部屋までくると、ホルセムは中へ声をかける間もなく布扉を押し上げる。  トゥアルセティスはまだ眠ってはおらず、窓辺に腰掛けて空を眺めていた様子だった。ホルセムの突然の入室に、驚いたように目を瞠って立ち上がった。 「どうした? いったい、何が……」  トゥアルセティスは、ホルセムの尋常ならざる様子に戸惑うような声をあげる。ふたりは、いくども肌を重ねたその部屋で、いまは奇妙な距離をおいて真っ直ぐに対峙する。  すぐに、異変に気付いたらしいアヌゥが姿を見せた。 「ホルセムさま、これは……何事にございますか?」  問われて、ホルセムは眉を寄せ、こぶしを握り込んだ。喉がひりつく。この期に及んでまだ迷うか、と、己がうらめしく、情けなかった。  ちょうどそのとき、ホルセムの後ろから、神託の娘が追い付いてきた。しなをつくるようにしてホルセムの腕に触れながら、向こに立つトゥアルセティスに視線を送っている。  娘の姿を見た途端、トゥアルセティスははっと息を呑んだふうだった。  おそらく、彼女が己と同じく〈月の眸〉を持つことに気付いたのだろう。そして、賢い叔父のことなら、それだけでもうホルセムがここへ来た理由にも、大方の想像をつけたのではないかと思われた。  ああ、と、夜の静寂(しじま)の中、彼が嘆息めいた吐息をこぼしたのがわかった。  そして叔父は、そ、と、口許を微笑ませた。  すべて悟り、すべてを諦めたかのような、微笑だ。トゥアルセティスが見せたその静かで穏やかな表情が、ホルセムの胸を締め付けた。  ホルセムは黙りこんでしまった。 「わたしを、とらえるのか」  何も言えずに固まっているホルセムに代わって、トゥアルセティスが言った。 「それで、かまわないよ……おまえにふさわしい者が見つかったのなら、そのほうがいい」  抵抗はしない、と、やはりトゥアルセティスは従順でおとなしかった。 「っ、トゥアルセティスさま、なにを!?」  世話係のアヌゥのほうが、当人よりも、よほど慌てている。 「ホルセムさま、どういうことですか? だって、トゥアルセティスさまは神託の示した王妃さまで、神々の前でも王と王妃としてお誓いになりましたよね? それなのに……」  アヌゥが言い募りかけたとき、回廊をこちらへ向かってくる複数の足音が響いた。  金属がこすれ合うような音がする。武器を携えた衛兵だ。ホルセムの言葉を受けて、ウルかハクラカァかが、トゥアルセティスを捕えるため、ここへと寄越したものと思われた。 「王妃トゥアルセティスを、王命により、拘束し奉る」  部屋へ踏み入ると、先頭の兵が言った。 「そんな……!」  アヌゥは悲鳴のような声を上げたが、やはり、トゥアルセティスは落ち着きすぎるくらいに落ち着いていた。  抗う様子はない。ただ、静かにその場に(たたず)んでいる。 「アヌゥ、見てごらん……王の隣には、すでに、わたしに代わり得る者が控えている。きっとあの者こそ、真に神託の示す者……そうした者が現れた以上、わたしはもはや、単なる王殺しの逆賊なんだ。――こうなるのが……遅すぎたくらいだよ。ね……だいじょうぶだから」  そう言って、昂奮する己の世話係を静かに(なだ)める声が、かつて、まだ幼かった己に向けられていた声と重なる。ホルセムの胸は、またしても、ざわりと乱れた。  そんなこちらの真情など知らぬトゥアルセティスが、その場にゆっくりと(ひざまず)く。彼はホルセムの前に(うやうや)しく(こうべ)を垂れた。  ホルセムは動けない。  怒りでも、安堵でもない、名状しがたい感情が喉元までせり上がって、いっそ叫び出したい気分だった。  それなのに、言葉は詰まって出てはこない。  立ち尽くすホルセムに代わって、兵卒が動いた。トゥアルセティスに縄をかけ、引っ立てようとする。 「地下牢へ連れて行け」  先頭に立つ衛兵が命じ、複数の兵卒がトゥアルセティスを取り囲んだ。縄を受けて無理に歩まされる叔父は、黙ったままでホルセムとすれ違う。  その刹那、ホルセムは弾かれたように振り返っていた。 「ま、っ……」  待て、と、そう言いかけた声は、隣にいる娘に腕を引かれたことで、声になる寸前で飲み込まれた。  ホルセムは口許をてのひらで覆う。  なぜ止めようとした。だって投獄を決めたのは自分だ。舌の根も乾かぬうちになぜ、と、眉を寄せる。  しかも、当のトゥアルセティスは、静かに運命を受け入れていたふうだったではないか。  それなのに、なぜ、こんなにも後ろ髪を引かれる思いがするのか。  トゥアルセティスの背中が遠ざかって行く。  いっそ心の赴くままに、追い縋ってしまいたい。頼りない細い身体を、きつくきつく抱き締めたい。  だが、そんなことは許されない。  自分はあの男に殺された王の子として、あの男を憎んでいなければいけないのだ。  眉をひそめる。唇を噛む。  胸が痛かった。  それでも、いまこの瞬間(とき)のこの痛みに耐えさえすれば、あとはもう、心穏やかな日々が待っているはずだ。  ホルセムは己にそう言い聞かせながら、回廊を曲がったトゥアルセティスが見えなくなるまで、瞬きもせず、鬱金の眸を叔父の背に向けていた。

ともだちにシェアしよう!