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第26話 邪神

「っ……叔父上……!」  ホルセムは慌てて倒れ込んだトゥアルセティスの身体を腕に抱き上げた。だが、トゥアルセティスは目を閉じたまま、何の返事もしない。身体はくったりとして、もはや抜け殻のようだった。  腕に抱いた身体はあたたかいのに、けれども、冷えていってしまう予感に目の前が真っ暗になる。 「叔父上! トゥアルセティス!」  ホルセムは必死に呼んだ。けれども、いくら揺り動かしてみても、トゥアルセティスからは何の反応もなかった。  さらさらと砂漠の砂が手からこぼれ落ちるときのように、そのひとの命がこぼれていってしまう。冷えていく身体にぬくもりを繋ぎ止めたくて、ホルセムはトゥアルセティスの身体に(すが)りついた。 「トゥアルセティス! トゥアルセティス!」  繰り返し呼びかける。呼び続ける。 「叔父上、おじうえ……いやだ、いや……いかないで、トゥアルセティス……っ」  声が震える。ホルセムはみっともなく嗚咽しながら、トゥアルセティスの胸に顔を押し付けた。  もう一度その腕で俺を抱き締めてよ、と、(こいねが)う。  えらいね、よくできたね、と、微笑みながら褒めてほしい。その眼差しにホルセムの姿を映してほしい。  否、もう、なにもなくてもいい。  ただいかないでくれれば、それでいい。 「あぁ、あ……」  わけもなく叫びたかった。泣き喚きたかった。  ホルセムはぐちゃぐちゃに顔を歪めて、トゥアルセティスを抱き締める。  ひれ伏して詫びたい。自分の不明、愚かさ、手酷い仕打ち、すべてを曝け出して赦しを請うて、そして、もう一度、ぜんぶをやり直したかった。ふたりで、最初から、歩み直したかった。  けれども、トゥアルセティスはもう、ホルセムの名を呼んではくれない。その眸はホルセムを映さない。抱き締め、頭を撫でてくれることもない。  もう、この先ずっと、永劫に――……。 「あ、あ……トゥアルセティス……ッ」  ホルセムが物言わぬその人の身体をもう一度強く抱いたそのとき、ふと、何か硬いものに触れた。  はっとして確かめる。  それは、古びた革紐に結ばれた、素朴な木製の護符(アンク)だった。  かつてホルセムが叔父に贈ったものだ。 「……あ、あ……」  大事にする、肌身離さず持つ、と、そう言っていたトゥアルセティスの声が耳の奥に甦る。どうして、と、ホルセムは護符(アンク)を握り締めながら、絞り出すように唸った。  どうして何も言ってくれなかったのか。どうしてすべてひとりで背負おうとしたのか。どうして、と、奥歯を強く噛みしめながら、ホルセムは思った。  ホルセムが幼かったからだ。まだ力を持たなかったからだ。だから、叔父はひとりで抱え込んだ。ホルセムのために。それはわかる。わかるけれども、それでも、真実を秘め続けた叔父が恨めしかった。  否、ちがう。  恨むべきは何よりも己だ。叔父に口を噤ませた、頼りないホルセム自身だ。  己が救いようもなく愚かに思えた。  どうして自分は――……トゥアルセティスを、信じられなかったのだろう。誰よりも己を想ってくれたひとを、強い心で、信じることができなかったのだろうか。 「叔父上……トゥアルセティス……」  嗚咽が喉を塞ぐ。己の愚昧を呪わずにはいられなかった。  でも、それすら、もう遅い。意味がない。 「トゥアルセティス……」  叔父はひとりですべてを抱え込んだままで――……ホルセムの手の届かないところへ、ひとり、旅立っていってしまった。  誰かが駆けてくる足音が響いていた。メネフだろうか。もしかしたら、ウルも一緒かもしれない。アヌゥもいるだろうか。 「ホルセムさま!」 「っ、トゥアルセティスさま……」  駆けつけた者たちが、みな一様に、目の前の光景に息を呑む気配がある。  だが、そうした何もかもが、ホルセムにはもうどうでもよかった。  ホルセムはトゥアルセティスに縋りついたまま呆然としていた。鬱金(うこん)の眸からは光が消え、もはや、何も映してはいなかった。ただただ滂沱と涙が流れ落ちるばかりだ。  そうだ。もういっそ、このままこの暗い地下牢で、叔父と共に朽ち果ててしまえればいいのだ。  そう思ったときだった。  ごぉおぉおぉ、と、重い音が地底から響いた。大地が揺れる。 「っ、なんだ!?」  牢に集った者たちは、突然の揺れに、それぞれに動揺を見せた。  その刹那、不意に、場違いに甲高い笑い声が牢の中に響き渡った。  かと思うと、それまで不気味に沈黙していた弟王子ハクラカァの身体から、しゅぅうぅう、と、音を立てて黒い靄が吹き出してくる。  それは牢に満ち、ぐるぐると蛇のごとくに蜷局(とぐろ)を巻いてのたうち、やがて(こご)って、ひとつの形を取る。  灰色の肌の男だった。うねるように波打つ長い黒髪は蛇のようで、暗く紅い目をしていた。  息を呑み、ハクラカァのほうを見ると、弟王子はいつの間にかその場に倒れ込んでいる。  その傍らに立っていたはずの〈月の眸〉を持つ娘もまた、その場にへたりこみ、ただ(おび)えた表情をしていた。どこか妖艶だった雰囲気は、もはや、まるでない。まだまだ幼さを残した少女にしか見えなくなっている彼女は、驚いたことに、その眸にも変化を来たしていた。  トゥアルセティスと同じく、蒼灰色に金色の月を浮かべたような神秘的な虹彩だったはずが、いまや単に灰色の眸になっている。 「これ、は……?」  愕然としたホルセムが呟くと、影のような男がにたりと(わら)った。唇の隙間に、蛇のような舌がのぞいた気がした。 「(われ)は、アポォピス」  男は高らかにのたまった。  そして、倒れたハクラカァのほうへと一瞥をくれると、にた、と、笑う。 「その者の肉体を、しばし、()が器として借りていた。娘にも目晦ましのまじないを少々、な……欲しいものが、あったゆえ」  邪神の名を名乗った灰色の男が、一歩、また一歩と、ホルセムのほうへ近づいてくる。長い爪を持つ手が伸びてきたかと思うと、その刹那、ホルセムは空気の塊のようなものに弾き飛ばされていた。 「ホルセムさまっ!」  メネフが駆け寄り、ホルセムを助け起こす。すぐにこちらの前に立って剣を抜き、将軍はホルセムを庇った。  だが、アポォピスを名乗る男は、こちらには見向きもしなかった。  その紅い眸が一心に見詰めるのは、ただひとり――……トゥアルセティスである。  気づいた瞬間、ホルセムは立ち上がり、トゥアルセティスに駆け寄ろうとした。しかし再び邪神の力に阻まれる。見えない壁のようなものに、弾き飛ばされてしまう。 「トゥアルセティス!」  ホルセムは叫ぶが、邪神はにたりと笑って、トゥアルセティスの身体を空に浮かび上がらせた。そのまま横抱きにすると、さら、と、トゥアルセティスの頬を撫でる。 「うるわしき月神の化身……これでようやく、冥府(イメンドゥアト)まで伴える」  うっとりと言いながら、アポォピスはトゥアルセティスに頬擦りした。ホルセムは歯噛みする。 「吾のものだ」  そう宣告した邪神は、あははははは、と、高らかな哄笑を牢に響き渡らせる。  同時に、何もない空間に亀裂が走った。その向こうには、昏い昏い闇がぽっかりと口を開けている。  灰色の男は、トゥアルセティスを抱えたまま、裂け目へと足を踏み入れた。 「トゥアルセティス――……っ」  ホルセムは必死に手を伸ばす。だが、その指先は空を掻くだけだ。  叔父の身を抱いた邪神は、裂け目の奥へと沈んでいく。すぐにその姿は闇に呑まれるように消えうせ、そして、亀裂もまた融けるように見えなくなった。  最後に響いたのは、(あざわら)う声だけだ。  そして、牢には、ホルセムの慟哭だけが残された。 *  時を同じくして、天空に異変が起きていた。どぉおぉん、と、突き上げるような大地の揺れがあったあと、急激に、ケメトの空を厚い雲が覆ったのだ。  昼であるはずなのに太陽の光がかき消され、大地を、大河を、砂漠を、薄闇が呑み込もうとしていた。  地上の人々は空を見上げ、不安げに表情を曇らせる。突然の地震に引き続いて広がった闇の侵食という光景に、ケメトの地は、一気に混乱と恐怖とに包み込まれようとしていた。

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