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第27話 失意
ケメトから太陽が消えた。
昼になっても空は重く冷たく曇ったまま、まるで東雲 か薄暮 のようである。そんな日が続く中、ゆったりと流れるはずの大河イテロは波立ち、砂漠を渡る風は赤い砂を巻き込みながら烈しく渦を巻いた。
人々はざわめきたち、ある者は不安げに、ある者は恐怖を浮かべ、そして誰もかれもが縋るようにケメトの地を守護する神々に祈りを捧げた。
神官たちもまた神々の意思を聞こうと神殿に集い、祭壇に捧げ物を積み上げて、連日、一心に祭事を執り行い続けていた。
「――……ホルセムさま」
アヌゥが控え目に声をかけてくる。ホルセムは濁った力ない眼差しを、トゥアルセティスの世話係にあてていた少年に向けた。返事はしない。そんな気力はなかった。
「ホルセムさま……!」
アヌゥは、今度はもうすこしだけ語気を強め、請うような目でホルセムを見た。
「太陽が隠れて、民はみな、怯 えています。このままでは……」
そこで、少年は言葉を切る。いまや誰もいない寝台に凭 れかかって動かないホルセムを前に、アヌゥはくちびるを噛み、泣きそうに眉根を寄せた。
それでも、ホルセムはただ緩慢に瞬きするばかりだ。
答えないホルセムに、やがて、アヌゥが諦めたように辞していく気配がした。
あの悲劇の日から、数日が経つ。
書記官のウルや将軍のメネフは、ケメトを突如として襲った異常事態への対処のため、きっと今頃は各所を駆けずり回っていることだろう。他の書記官や兵卒、あるいは神官たちだって、皆がそうしているはずだった。
それなのに、王であるホルセムだけが、後宮の、トゥアルセティスを囲っていた部屋で、無気力に虚空を眺めるばかりでいる。
「叔父上……」
掠れた声で、ぽつ、と、つぶやいた。けれども、主のいない部屋の中に、その声は虚しく響くばかりだった。
寝台を探っても、そこにはもはや、求める人のぬくもりは欠片 も残されてはいない。ホルセムは苦しげに眉根を寄せて、深くうつむいた。
弟王子ハクラカァは、ホルセムのもとへと馳せ戻ったその日のことすら、何も覚えてはいなかった。つまりは、そのときすでに、アポォピスに憑かれていたということなのだろう。
同じく、〈月の眸〉を持つかに見えていた娘も、王宮に上がる直前からの記憶をまるで有してはいなかった。こちらも、最初から邪神アポォピスによって仕組まれた細工だったようだ。
ふたりはいま、王宮の奥に見張りつきで留め置かれている。が、本人たちに覚えがない以上、最終的に、厳しい処断にはならないものと思われた。
怨むべきは――……彼らではない。
もしかしたら、邪神アポォピスですら、ないのかもしれない。
トゥアルセティスに毒杯を与え、冥府送りにしたのは、他ならぬホルセム自身だ。アポォピスに憑りつかれたハクラカァに唆 されてのこととはいえ、最終決断を下したのは、紛れもなく自分であった。
そのことが、いま、ホルセムをひどく打ちのめしていた。
「トゥアルセティス……」
どうして叔父を信じられなかったのだろう。トゥアルセティスのやさしさも、かしこさも、ホルセムは十分に知っていたはずだ。それなのに、彼がホルセムに惜しみなく注いでくれた慈愛を、どうして簡単に、嘘いつわりだったのだと決めつけてしまったのだろうか。
誰に何と言われようと、信じ貫 けばよかった。たとえそれが難しかったとしても、再会のあと、トゥアルセティスを問い詰めてみることくらい、いくらでもできたはずだ。
そうすれば、取り返しのつかない事態になるよりも前に、真実にたどりつけたかもしれない。
けれどもホルセムはそうしなかった。
否、そうはできなかった。それはひとえに、自分の臆病な心のせいだった。
五年前、叔父に見捨てられたのだと絶望した。そのときの心の傷はあまりに深く、二度は堪えられないと思った。期待して再び拒まれ、裏切られて、それで傷つくくらいなら、最初から期待などしなければいいのだ。そんな怯懦 が、ホルセムの目を曇らせた。
目を凝 らせばちゃんと見えていたかもしれないトゥアルセティスの真実から、ホルセムを遠ざけたもの――……それは、己自身の弱さ、愚かさだ。
すべては、ホルセムのせい。だから、誰よりも怨めしいのは、自分だった。
ホルセムが弱かったから、愚かだったから、そのせいで、トゥアルセティスは死者の国へ行ってしまった。
傷つくことくらい、なんだったというのだ。
失うくらいなら、永遠に手の届かないところへ行かせてしまうくらいなら、全身傷だらけになってでも、真正面から彼と向き合えばよかった。裏切りの痛みなど、この喪失の痛みに比べたら、何ほどのものだっただろう。
毒を呷って倒れ込んだトゥアルセティスの身体。冷えゆくその身を抱き上げたときの、絶望。倒れる直前、叔父の眸は最後にホルセムを映していた。こちらを向いて、穏やかに微笑んでいた。
――おまえはきっと、太陽神ラァの加護のもと、歴史に名を残すような立派な王になる。
いつか叔父がホルセムにくれた言葉が脳裏によみがえる。はは、と、ホルセムは乾いた笑いを漏らした。
「かいかぶりだ、叔父上……あなたは、見誤った」
漏れるのは自嘲ばかりだ。ホルセムは肩をふるわせながら、くちびるを噛んだ。
こんなにも弱く愚かなホルセムのために、トゥアルセティスが献身する必要などなかったのだ。一身を擲 ってまで護ってもらう価値など、自分にあるとは思えなかった。
ホルセムのことなど捨て置いて自分のために生きれば良かったのに、と、そう思うと、嗚咽が漏れた。止まらない涙を拭いもせず、ホルセムは力の入らない手足を、ただただその場に投げ出していた。
どれだけの間、そうしていただろうか。
ふいに、室内に熱い風が吹きつけた。
「――はっ、太陽神ラァの子が、情けないものだな」
嘲 りを隠さず、吐き棄てるような調子の声がどこからともなく響いてくる。
砂の匂いが室内に満ちた。どこからともなく現れた赤い砂が渦を巻き、竜巻のように立ちあがる。そしてその熱砂は、やがて人の形を成した。
ホルセムは目を瞠った。
「愚か者めが……せっかくのラァの忠告を無駄にするとは」
ホルセムの目の前に唐突に現れた男は、歯噛みするように言った。
白亜のように眩しい白髪、砂漠の砂のような赤みを帯びた肌を持つ男だった。眸は黒く、静寂が満ちる砂漠の夜を思わせる。しなやかに引き締まった体躯を包むのは上等の亜麻布で、身を飾る装飾具は象牙や銀などで出来ていた。
そして、その男のまわりを、無数の砂が帯のようになって取り巻いていた。
人間 でないことは、ひと目見れば明らかだ。
「セテス神……」
顔を上げたホルセムは、砂漠神の名を呆然と呟いていた。
「いかにも」
男は尊大な調子で言って、ふん、と、鼻を鳴らす。
ホルセムは、ああ、と、嘆息するような吐息をもらした。
こうして神が直接に姿を現すほどのことを、自分は仕出かしたということなのかもしれない。太陽神ラァの子とされる砂漠の神は、いま、ホルセムを罰するために、わざわざ顕現したのだろうか。
一歩、また一歩と、セテスがホルセムのほうへと近づいてくる。至近距離に立って、夜のごとき眸でこちらを見下ろすと、躊躇うことなくホルセムの首に手をかけた。
そのまま、ぐ、と、力を籠める。
「まんまとアポォピスに惑わされ、トゥト神の加護を自ら手放すとは……己の愚昧 を思い知れ」
砂漠の神は低く唸るような声でホルセムを責めつつ、こちらの首を締め上げた。
息が詰まる。が、ホルセムは抵抗せず、我が首を締め上げるセテスに、されるがままになっていた。
己が愚かであることなど、誰よりも、ホルセムが一番よくわかっていた。このまま神罰を受けるなら、それでもかまわない。否、むしろそのほうがいい。そう思うと、口許には自嘲めいた笑みさえもが浮かんでいた。
「はっ……そのうえ、この腑抜けたさまか!」
ち、と、いかにも不愉快そうに、セテスは舌打ちした。
「――まあまあ……ちょっと落ち着きなよ、セテス」
そのとき、ふいに違う声が割って入った。
次に部屋に渦を巻いたのは、大量の水である。やはり竜巻のように立ちあがった水の柱が人の形となったとき、そこには、優美な微笑を浮かべる青年の姿があった。
透き通るような薄青の肌、ラピスラズリのごとき藍色の髪。眸は輝く黄金の色である。翡翠のビーズを連ねた腕輪や胸飾りが、彼の歩みに合わせて、シャラシャラと涼しげな音を立てた。
青年のまわりの空間には、大小の水球がふわりふわりと浮かんで揺蕩 っている。こちらもやはり人間 でないことは明白だった。
おそらくは、大河神オサイリスだろう。
「セテス、ほら、放しておあげ。ケメトの王は太陽神ラァの子、ぼくたちにとって兄弟みたいなものじゃないか」
ね、と、穏やかに笑いながら、青年はセテスの腕にそっと触れた。砂漠神は、ち、と、舌打ちしつつも、言われた通り、ホルセムの首を絞めていた手を離した。
「オサイリス……おまえは甘い」
眉を顰め、大河神に文句を言う。
オサイリスは、くすん、と、肩をすくめた。
「そうでもないよ。ケメトに危機を呼び込んだ責任を、彼には、ちゃんととってもらわないと、ね。――楽な方法でなくてさ」
にこ、と、笑いつつ、オサイリスは言う。口調はやわらかく、表情は穏やかだったが、ホルセムに向けられた眸はぞっとするほどに冷たいものだった。
「罰なら、いくらでも……」
ホルセムは太陽神ラァの第一、第二の子とされる兄弟神を前に、力なく言った。
「罰、ね……残念ながら、ぼくたちは君に神罰を下しに来たわけじゃない。そんなことをしたところで、ケメトの現状は変わらないからね。無意味なことはしないよ」
オサイリスは、さら、と、ホルセムの頬を撫でる。その手はひんやりと冷たく、背筋がぞわりとした。
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