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第29話 葦船

 ホルセムは、二柱(ふたはしら)の神と共に、数日のあいだ籠っていたトゥアルセティスの部屋から出た。 「君は王で太陽神ラァの現身だから、ぼくたちを知覚できるけどね。普通の人間には、ぼくたちは見えないよ」  大河神オサイリスが言う通り、部屋を出たホルセムに駆け寄ってきたアヌゥも、その後に駆け付けたウルやメネフも、ホルセムの傍らに立つ兄弟神の存在にはまるで気が付いていないようだった。 「冥府(イメンドゥアト)へ、トゥアルセティスを取り戻しに行く」  ホルセムは側近たちに端的に告げた。 「邪神アポォピスの災いからケメトを救うにはそれしか方策がないと……これは、神々の導きだ」  ホルセムが真剣な顔でそう言うと、最初こそ驚いたふうを見せていた皆もまた真摯な表情になり、反対することなくホルセムを送り出してくれた。  王権の剣アンクラトゥスを提げ、ホルセムは大河イテロの東の岸辺に立った。  オサイリスが複雑な呪文を唱えると、目の前の水面に一艘の葦船(あしぶね)が浮かぶ。 「この船で西岸へ……渡った先が、太陽と月の沈むところ、狭間に在る闇の世界、西の冥府(イメンドゥアト)だよ」  オサイリスがイテロの向こう岸を指しつつ言った。  その言葉を耳にしつつ、ホルセムは船の縁に手をかける。乗りこもうとして、一瞬だけ、足を止めた。  大河イテロが年毎に氾濫して作り出す豊かな緑地を振り返る。もしかしたら、これが地上世界の見納めになるのかもしれなかった。  感慨はあったが、しかし、恐怖はなかった。  自分のためにすべてを犠牲にしてくれていたトゥアルセティスを取り戻すためなら、自分もまた何もかもを投げ出す覚悟で挑む。ホルセムははっきりとした決意を胸に、葦船に乗りこんだ。 「西の岸辺まで、とにかく迷わずに辿り着くんだよ、ケメト王」  オサイリスが黄金の眸で真っ直ぐにホルセムを見詰めながら、言い聞かせるように言った。 「心を強く持て。途中で惑えば、おまえの魂は世界の狭間から抜けられず、永遠にそこで彷徨(さまよ)うことになる。そして、おまえの失敗はまた、ケメトの滅亡をも意味する」  セテスの言葉にホルセムが頷くと、その刹那、砂漠神が呪文を唱えた。  巻き起こったのは砂漠に吹くのと同じ熱い風だ。それがホルセムの載った葦船を岸辺から押し出した。  ホルセムは真っ直ぐに西を見据える。果てしなく見える川面の向こう岸に、トゥアルセティスがいるはずなのだ。  ふたりの神に見送られながら、ホルセムは沖へと漕ぎ出した。  途端に、水面(みなも)から白い霧が湧き立ち、周囲をすっかり覆ってしまう。視界が奪われ、周りの景色はまったく見えなくなった。  白い霧は静かに広がり、世界の輪郭を呑みこんでいく。  やがて波の音も、風の息吹も遠のき、かわりに己の胸の鼓動だけがやけに鮮明に響いてくるような気がしてきた。  ふいに、霧の向こうに、柔らかな光が灯った。  目を凝らすと、そこにぼんやりとした景色が浮かんでくる。ホルセムは息を呑んだ。  映し出されているのは、まだ幼い少年だった頃のトゥアルセティスのようだった。うつくしい銀髪はまだ肩のあたりで切りそろえられており、頬には少年らしいまるみがある。  場所はおそらく王宮だった。幼いトゥアルセティスは、神秘的な〈月の眸〉で寝台の上の何かを覗き込んでいるらしい。  よく見ると、寝台にいるのは、産まれて間もない赤子だった。あれは自分だ、と、ホルセムは直感した。  傍らに立つ立派な体躯を持つ老年の男は、きっとホルセムの祖父、カウラァ王であろう。隣の女性は、おそらくはトゥアルセティスの母である下ケメトの王女だ。面差しが、どこかトゥアルセティスと似通っている。  そんな判断をしつつ、ホルセムは霧に映しだされる幻影に見入った。 「――先程、ラァ神官が神託を聞いた」  カウラァ王が言った。 「この子供は、ケメトに新たな時代を(もたら)し、歴史に名を残す偉大な王になるだろう、と」  その口調は重々しく、けれども、喜ぶべき神託の内容に似つかわしくない深い憂慮を滲ませている。 「トゥアルセティス」  王の傍らの女性は、静かな声で少年を呼んだ。すると、それまで一心に赤子に見入っていた少年トゥアルセティスが、彼女のほうを振り向いた。 「お母様」 「なにか、見えるの?」 「はい。この子が立派な王になった姿が見えました……大きくなったわたしは、その隣に」  トゥアルセティスは大きな眸を瞬かせながら言った。  王女は、そ、と、微笑む。 「そう……(こよみ)の神、時を司る神でもあられるトゥトの加護の証を持つ者。〈月の眸〉であなたが見た光景です、それはきっといずれやってくる未来なのでしょう」 「トゥアルセティスよ」  今度はカウラァ王が呼びかける。 「憐れにも、この子は母を失ってしまった。そして、父の愛もまた、十分には得られぬやもしれん。そして、わしも……この子が長じるまでは、この寿命は、とてももつまい」 「父様……」 「ラァの神託を得た王子の傍らに、トゥトの加護を持つ王子がいる……これはきっと、神々の思し召しなのだ。――トゥアルセティスよ。母に代わり、父に代わり、そしてこの祖父にかわって、どうかおまえが、この子を守ってやっておくれ」  カウラァは、皺深い手をトゥアルセティスの頭に載せた。 「トゥアルセティス、あなたはその身を、この子の護符(アンク)となすのです。この子を、あなたが守ってあげるのよ」  下ケメト王女は、白いてのひらを、トゥアルセティスの頬に添わせた。  義父と母から揃ってそう頼まれた少年トゥアルセティスは、けれども戸惑うふうもなく、こく、と、ひとつ頷いた。 「はい、父様、母様」  うつくしい眸をきらきらと輝かせながら言って、トゥアルセティスは赤子のちいさな手に自分のてのひらを重ねる。まだ開いたばかりの鬱金(うこん)の眸を覗き込みながら、ふわり、と、微笑んだ。 「おまえのことは、わたしが守るよ……ホルセム」  それは、ホルセムが生まれてすぐの光景だった。  胸の奥が熱く、また同時に、(きし)むように痛かった。トゥアルセティスは、ほんとうにホルセムの生涯の最初から、ずっとホルセムを守り続けてきてくれたのだ。あらためて、それを思った。瞼がじんと熱を持った。  景色が切り替わった。

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