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第30話 幻影
今度もまた、目の前に映しだされたのは王宮の景色だった。
しかし、先程の穏やかな光景とは違い、そこは惨劇の場であった。
血の臭気が漂ってくるような気さえする。幻とわかっていながらも、ホルセムは顔を顰 め、思わず口許を押さえていた。
見えたのは、父王セベクヘプだった。血塗れになって倒れているのはその臣の幾人かである。中にはホルセムの知った顔もあった。
顔色を失ったトゥアルセティスが、セベクケプ王と向かい合っていた。
「兄様……なぜなのですっ!? ホルセムはあなたの血を分けた息子ではないですか! それを、それを……呪詛、するなど……」
顔を歪めたトゥアルセティスが、そう、セベクヘプを責め立てた。
「おまえに何がわかるか」
昏い眸をしたセベクヘプは、地を這うような低い声で言った。
「トゥト神の加護を受け、生まれながらに特別な存在であるおまえには、わかるわけもなかろうな……わたしのような、凡庸なものの想いなど」
「なにをおっしゃるのです、兄様……凡庸だなどと」
「わたしは凡庸だ! どうしようもなく、な。父カウラァはケメト統一を為さしめた偉大なる王として歴史に名を刻んだ。そして、我が息子ホルセムもまた、生まれたその時に太陽神ラァの神託を得ておる。いずれケメトに新たな時代を齎 し、その名は歴史に残る、とな。その間に挟まれた凡庸なるわたしは、歴史の中に埋没するのだ! この口惜しさが、わかるものか……!!」
燃え立つ眸で、セベクヘプは叫んだ。
その幻の光景を前に、ホルセムははじめて、父が自分に無関心だった、否、疎 んじてすらいた理由 の断片にふれていた。
セベクヘプは、偉大なる父王と、偉大になると予言された息子との間で、苦悶していたのだ。生まれてすぐ神から歴史に名を残すことを保証された息子に、どうしようもなく、嫉妬したのかもしれない――……思い余ってホルセムの命を奪おうとするほどに。
その、醜く捩 れて、歪 んだ感情。それをついに噴出させた王を眼前に、トゥアルセティスはくちびるを噛み、きつく眉を顰めていた。
「兄様……ホルセムにかけた呪詛を、解いてください」
「はは、は……もう、遅いわ。一度発動した魔術は、もう、どうにもならん。おまえがホルセムの傍をうかうかと離れなければ、おまえに護られているあやつを呪殺するのも、難しかっただろうが」
はははは、と、乾いた哄笑をもらすセベクヘプに、トゥアルセティスは愕然とした表情を向けた。
「そのために、わたしを王都へ……?」
「そうだ。うかつだったな、トゥアルセティス。ホルセムは死ぬ」
「そん、な……」
絞り出すような声とともに、叔父は自らの胸元に触れる。ややうつむき、衣の下にある何かを、握り締めたようだった。
場にはしばしの沈黙が落ちる。
肩を細かくふるわせていた叔父が、顔を上げた。
「――そんなことは、させない……!」
トゥアルセティスが〈月の眸〉でセベクヘプを睨み据える。
「ホルセムを殺させは、しない」
強い口調で言った刹那、髪結い紐が解け、トゥアルセティスの銀髪がふわりと波打った。蒼白い無数の光る糸のようなものが、叔父の身体を取り巻いている。ぱち、ぱちん、と、晴天に霹靂が弾けるような音が響いた。
トゥアルセティスが魔術を使おうとしている。しかもしれは、見たこともないほど強力なものだ。
力が収斂 する。
セベクヘプのほうへと向かって放たれた。
力と力とがぶつかり合い、一瞬、場が膠着する。セベクヘプの呪詛と、それを返そうとする叔父の魔術とが、烈しく鬩 ぎ合っていた。
奇妙な静寂が落ちる。そして、ぱきぃいぃん、と、硝子が割れるときのような澄んだ音が響いたかと思うと、そこにはもう、セベクヘプが血を吐いて倒れていた。
肩で息をしている叔父の身体が、ふら、と、傾く。すんでのところで堪えはしたものの、トゥアルセティスは眼前の光景を前に呆然とした表情をした。
セベクヘプのほうへ、ふらつきながら歩み寄る。
「……兄様……兄様……」
倒れてもはや動かなくなった身体に縋りつき、彼は慟哭した。
「ホルセム……ホルセム……わたし、は……」
胸元の、おそらくはホルセムが贈ったばかりの護符 を握り締めながら、トゥアルセティスは泣き濡れていた。
そこへ、メネフ将軍が駆け込んでくる。場の光景に、将軍は息を呑んだ。
「メネフ……」
トゥアルセティスが、泣き濡れた目で将軍を見る。
「王弟殿下……これは……」
惨状に言葉を失ったメネフに、トゥアルセティスは縋りついた。
「ああ、メネフ、メネフ……どうか……どうか、ホルセムを、守ってやってくれ……わたしの、かわりに。わたしはもう、あの子のそばに、いられない……あの子の、父を……殺してしまった……だから」
「王弟殿下」
「あの子を、守って……いつか……いつか、あの子自身の手で、わたしを……討たせて、やって」
「トゥアルセティスさま」
泣きながら懇願するトゥアルセティスの背を、メネフが痛ましげに撫でていた。
ホルセムは荒い呼吸をした。またしても胸が締め付けられるかのように痛んだ。
霧に映しだされている慟哭に暮れる細い身体を、ホルセムこそが、抱き締めてやりたかった。
目の前の光景が過去を映した幻であることはわかっている。それでも、駆け寄り、抱き締め、あなたは何も悪くない、と、叫びたかった。
「叔父上……」
思わず呟いている。その声を呑み込むように、白い霧が激しく逆巻き、再び光景が切り替わった。
*
書記官たちの姿が見えた。兵卒たちの姿も見えた。
ホルセムが王宮を攻め、玉座を取り戻したとき、ホルセムの軍に降った書記官や兵卒たちだった。その後、新王朝に組み込まれ、働いている者たちばかりだ。
そして、彼らの前に、トゥアルセティスが立っていた。
叔父は、静かな微笑みのようなものを口許に湛えていた。それはどこか、深い安堵の表情にも見えた。
「――時は来た」
そう、トゥアルセティスが口を開く。
「おまえたちの真の王が、いま、王宮を目指している。じきに、ここへやって来るだろう」
叔父の発する言葉から判断するに、ホルセムが王都へ攻め上がる直前の出来事と思われた。
「いいね、みな……抵抗せずに、新王の軍に降りなさい。前々から言っているとおり、おまえたちが本来仕えるべき主は、わたしではない。いまここを目指している者なのだから」
「トゥアルセティスさま」
誰かが、叔父の名を呼ぶ。その相手に、トゥアルセティスはやわらかく微笑みかけた。
「そんな顔をしなくていいんだよ。――わたしはホルセムに討たれるだろうが、すこしも悲しむ必要はないんだ。以後は、おまえたちの正しき王に仕えるように……いいね」
噛んで含めるようにそう言うと、叔父はひとりの書記官に歩み寄る。
「ホルセムはやさしい子だ。本来、戦などは望まないような……だからね、ネフェルト、おまえの運河の計画を、いつかぜひ、ホルセムに提案しておくれ。交易を以て周囲の国々と平和に付き合う、そんな世を、きっとホルセムは望むだろうから……たのむよ」
はい、と、声をふるわせつつ、涙を堪えて頷く書記官の肩に、トゥアルセティスはそっと手を載せた。
ほう、と、息を吐き、窓の外へと視線をやる。
「もうすぐ、すべてが終わる」
叔父は、いっそしみじみとした口調で、つぶやいた。
そのとき、ちいさな黒い影がトゥアルセティスの足元へと駆け寄った。イプワトだ。
イプワトは、くぅん、と、鼻を鳴らしながら、黒い毛並みの体躯をトゥアルセティスにすり寄せるようにした。まるでトゥアルセティスを慰めるかのようだった。
トゥアルセティスは屈むと、老犬の身体をやさしく抱き込んだ。
「イプワト……ホルセムがなつかしい?」
微笑みながら毛並みを撫でつつ、そんなふうに語りかける。
「もうすぐ、おまえの大好きだったホルセムが、ここへ帰ってくるんだよ。ホルセムはきっとおまえのことを覚えているから、また可愛がってくれるはずだ。――はやく、会いたいよね」
トゥアルセティスは囁くように、嘆息するように、そっと言った。それはまるで、彼自身の想いを、イプワトの想いに重ねて吐露するかのようでもあった。
イプワトが叔父の頬をぺろりと舐める。老犬の慰めに、ふ、と、笑って、トゥアルセティスはイプワトをもうひと撫でしてから立ち上がった。
「ホルセム」
〈月の眸〉を細めて、つぶやく。
「おまえももう、十八歳 か。きっと立派になっているんだろうね。――再会してすぐお別れなのは……すこし、残念だな」
すこし俯いて瞬きをするトゥアルセティスが、胸元を探るような仕草をした。きっと護符 に触れているのだ。
「……叔父上……あなたは……」
ホルセムは、離れていた五年の間もいかにトゥアルセティスが自分のことを思っていてくれたか、まざまざと思い知らされて、声をふるわせた。
叔父は、いつもずっと、ホルセムのことを考えてくれていたのだ。
見捨てられたなどと思っていた自分が、いまや、恨めしかった。ずっとずっと叔父の愛に護られ続けていながら、それを知らず、恨み、怒り、手酷い凌辱にまで及んだ愚かな自分が、憎くて憎くて、仕方がなかった。
ホルセムは悔悟に暮れ、てのひらを握りしめてうつむいた。
そして、そのとき、再び周囲の霧がゆっくりと流れて、目の前の景色が変化した。
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