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第31話 冥府

 ホルセムは息を呑んだ。  見えたのは、冷たく暗い牢だった。そこにトゥアルセティスがいる。叔父の前には、弟王子ハクラカァと、〈月の眸〉を持つ少女とが立っていた。  ハクラカァの手には小さな壺と杯とがある。壺の中味は王家の毒だ。それを知っているホルセムは、目も耳も塞いでしまいたかった。  いまから展開されようとしているのは、まさに自分が(たまわ)った毒杯をトゥアルセティスが呷る、そのときの光景だ。 「兄王が、これを」  ハクラカァは言って、毒入りの杯をトゥアルセティスに差しだした。 「……そう」  トゥアルセティスは静かに瞬き、その杯を受け取った。 「何か言い残すことは?」  ハクラカァが、一応聞いておいてやろうとでもいわんばかりに、冷たい声音で言い放った。アポォピスに憑りつかれていたからなのかもしれないが、その眼差しも、冷酷極まるものだった。  トゥアルセティスは杯の中味に視線を落としてから、何を思うのか、ふ、と、口許をゆるめる。王から毒杯を賜った者とは思えない、あまりにも穏やかな表情だった。  それだけに、ホルセムは彼を見ているのがつらく、眉根を寄せて思わず顔を背けてしまっていた。 「――ホルセムは……」  トゥアルセティスが口にして、はっとする。  こんな極限の瞬間ですら、叔父の心のうちにあるのはホルセムのことばかりだったのだ、と、やはりそれを思い知らされる。後悔が募った。泣き喚きたい。ホルセムはくちびるを噛んだ。 「ホルセムは……父の仇であるわたしがこの世から消えて、あの子も、すこしは、心慰められてくれればいいのだが。予定していたよりも、すこし、遅くなってしまったけれど」  ほう、と、叔父はちいさく息をついた。  トゥアルセティスはほんとうに、ホルセムが王宮に攻め上がったあの夜に、玉座の間でホルセムの手にかかって死ぬつもりでいたのだろう。そのせつない覚悟に、ホルセムの胸は錐で刺されたように痛んだ。 「わたしを妃として遇さねばならなかった今日までの時間……あの子にとっては不本意で、くやしく、辛いばかりだったろうけれども……わたしにとっては、悪いことばかりでも、なかった。あの子の即位式を、この目で見られるなんて、思っていなかったし……王の正装を(まと)ったあの子は、とても(まぶ)しかった。王家の谷では、つい、感極まって泣いてしまって……あの子を、不快にさせてしまったみたいだけれど」  そのときのことを思い出すのか、〈月の眸〉を細めたトゥアルセティスは、静かに静かに笑っている。あの日の涙がそんな意味だったなんて、と、ホルセムは目を瞠った。  いますぐこの霧の中に飛び込んでいって、トゥアルセティスを抱き締めたい。そう思うのとはうらはらに、自分にはそんな資格などないような気がして、てのひらを握り込んだ。 「つらつらと、要らぬことを」  ハクラカァが不愉快そうに鼻頭に皺を寄せて言った。 「ああ……そうだね、すまない。そなたにとっても、わたしは父親の仇だ……」  トゥアルセティスはまた、ほう、と、息を吐いた。 「でも、あと、ひとつだけ……」 「なんだ?」  ハクラカァが鼻白む。トゥアルセティスは、今度は、〈月の眸〉を持つ少女のほうへと眼差しを向けた。 「あなたが……ホルセムの、次の妃になるんだね」 「はい」 「どうか、あの子をよろしく頼むよ……ああ見えて、さびしがりやなところがある子なんだ。かわいそうに、ずっと肉親の情というものに縁が薄かったし、しかもたったの十三歳で過酷な運命に身をさらすことになってしまって……でも、王になったからには、誰も彼もに弱いところなど見せられないと思うから……あの子を、支えてやってほしい。あの子が心安らげる場所を、つくってやってほしいんだ……どうか」 「はい。精いっぱい、つとめます」 「そう……ありがとう」  少女が(うべな)うのを見て、トゥアルセティスは安心したように吐息した。 「叔父上……トゥアルセティス……ごめんなさい」  ホルセムは葦船の上で身体を丸めて嗚咽した。 「ごめんなさい……ごめんなさい」  こんなにも全身全霊で自分を想っていてくれたひとを、信じることができなかった。それが、自分の犯した最も重い罪に思えた。  誰よりも自分を大切にしてくれていたひとを、恨み、憎んだ。手酷く辱めてしまった。そのうえ、最後は、ただ自分が苦しみから逃れたいばかりに、自らの手で死地へと追いやってしまった。 「ごめん、なさい……トゥアルセティス」  ホルセムの懺悔の嗚咽は、過去の幻であるトゥアルセティスに届くわけもない。それでも、ホルセムはしばらく、その言葉しか知らないかのようにトゥアルセティスを呼んでは、(むせ)び泣きながら詫び続けた。 「……ホルセム」  どれだけ経っただろう。ふと、トゥアルセティスが自分を呼ぶ声がする。  はっと顔を上げると、静かに微笑んだままの叔父がちょうど、首にかけた革紐を手繰るようにして、衣の下から木製の護符(アンク)を取り出したところだった。  てのひらに載せ、慈悲に満ちた眼差しで、それを見詰める。そっとくちびるを寄せると、再び、大事そうに衣の下に仕舞い込む。  そして、叔父は改めて毒杯を見た。  ゆっくりと持ち上げ、くちびるをつける。躊躇いのない動きだった。  さっと血の気が引く。この光景は過去を映しているだけのもの。いまさら止められるわけもないとわかっていながら、それでも、ホルセムは衝動を止められなかった。 「っ、やめろ……!」  そう叫んだホルセムは思わず、葦船から霧の中へと足を踏み出そうとしていた。ぐら、と、葦船が揺れる。  その刹那、辺りを包む白い霧が突然荒れ狂い、音も形も、すべてをでたらめにに掻き混ぜたように、光景が歪んだ。呑みこまれそうになる。  迷わず西岸へ、と、そう言ったオサイリス神の言葉が脳裏をかすめる。  心を強く持て、と、セテス神に言われた言葉もまた耳に甦った。  けれども、上下もわからぬ混濁の中で、すでにホルセムは足元を見失っていた。身体がふわりと浮くような錯覚に襲われ、ただ、後悔と悲しみだけが胸の内を支配している。  西はどちらだろう――……そこにトゥアルセティスがいるはずなのに。  行かなければ、と、思う。  それなのに、自分などが行ってもいいのだろうか、そんな資格があるのか、と、弱気が首を(もた)げた。  心が昏く沈みかけた、そのときだ。 「――ッ、ワン!」  短く鋭い鳴き声が、霧を裂いて響いた。 「ワォン、ワンッ」  懐かしい響きだ。それはホルセムを叱咤激励するように、濃い霧の中から聴こえ続けた。 「……イプワト?」  間違いない。ホルセムが幼い頃、トゥアルセティスとともに可愛がっていた王家の犬の鳴き声だ。  けれども、イプワトは先頃死んでしまい、死者の国へと旅立ったはずだった。 「イプワト」  顔を上げたホルセムは、それでも老犬の名を呼ばわってみた。すると、それまで不確かだった足元を、再びしっかりと踏みしめられるようになる。 「イプワト、イプワト……どこだ?」  ホルセムは辺りを見回した。声が聞こえる方角を見定めようとする。 「ワンッ!」  ホルセムを呼ぶようにイプワトがまた吠えた。あちらか、と、声の出所に検討をつけつつ、そういえば、かの老犬を間に、再開後のホルセムとトゥアルセティスはほんのすこしだけ心を寄り添い合わせる時を過ごせたのだということを、ホルセムは思い出していた。  トゥアルセティスを慰めたくて、抱き締め、口づけた。そのときの感触が、ぬくもりが、ふと、頭の中に甦ってくる。  その刹那だった。  ホルセムは深い霧の向こうに光る獣の目を見た気がした。 「イプワト!」  ホルセムが力いっぱいに呼んだとき、さぁあぁん、と、唐突に霧が晴れた。  そこにはもう間近に岸が見えている。  ぴんと立った耳、長い尾、立派な体躯を持つ黒い犬が、主を待つように岸辺で待ち構えていた。 「ここが……西の冥府(イメンドゥアト)」  ホルセムはつぶやいた。そうだと応えるかのように、イプワトが、ワン、と、鳴いた。 「イプワト、おまえは……」  弱りかけたホルセムの心を、イプワトが呼び戻してくれた。そして、霧の中に彷徨いかけたホルセムを、この岸辺まで導いてくれたのに違いなかった。 「おまえはほんとうに、賢い犬だ、イプワト……トゥアルセティスの、言う通り」  葦船から岸辺に降り立ったホルセムは、老犬の頭をやさしく撫でた。  自分とトゥアルセティスを結ぶものは、まだ、たしかに存在している。  だからきっと、辿り着ける――……彼を、この手に取り戻すのだ。なんとしてでも。 「トゥアルセティス……待っていてくれ」  ホルセムはつぶやくと、向こうに広がる深い闇を鬱金の眸で強く見据えた。

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