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第32話 再会

「ワォン」  イプワトが吠える。ホルセムのまわりをぐるりと廻ってから、足に身をすり寄せたかと思うと、軽い足取りで数歩を駆けた。 「ワン」  立ち止まったところから振り返り、また、ひとこえ吠える。 「ついて来いと、言っているのか……?」  ホルセムは鬱金(うこん)の目を(またた)いた。 「おまえ、もしかして、トゥアルセティスの居場所を知っているのか?」  イプワトは肯定するように首を二、三度上下に振ると、闇の奥に向かって走り出した。ホルセムもまた、その背を追い掛けて駆け出した。  どこまでも闇だった。  そこでは、天も地も、すべてが曖昧だ。自分が息をしているのかすら疑わしくなってしまうほど、静まり返った世界だった。音も、何もかも吸い込み包み込むような、圧倒的な闇だけがある。  そんなどこまでも果てしない闇の底に、ひとりと一頭の姿だけが浮かび上がっている。  何も見えない。ただ、前を行くイプワトの姿だけが、闇の中で、ほんのりと光を帯びているかのようだった。  犬は山と谷の神、墓陵を司るアンプゥ神の、神聖なる化身だ。ホルセムは、導く者(イプワト)の姿を頼りに、ひたすらに走った。  どれほど駆けた頃だったろうか。 「――イプ……ワ……ト……」  遠くから、かすかに老犬を呼ぶ声が聞こえた気がした。  懐かしい声だ。その響きにホルセムの胸は締め付けられる。  間違えるはずがなかった。これはトゥアルセティスの声だ。それだけでもう、ホルセムは泣きそうになっていた。 「イプワト、どこへいったの? イプワト……」  叔父は――現世の後宮でもそんなふうにしていたことがあったように――自分の傍らからいなくなったイプワトを探しているふうな口ぶりだった。 「ワォン!」  イプワトが、トゥアルセティスの呼び声に応えるように吠える。 「ああ、イプワト……そっちにいたの」  ほっとしたような声が響いてきたのと同時に、闇の中に、ぼんやりと人影が浮かび上がってきた。  そのひともまた、ほんのりとした光を(まと)っているかのようだった。きらきらと輝く銀髪、つやめく真珠の肌。身体を包む上等の亜麻布の長衣の、胸元には木製の護符(アンク)が揺れている。  イプワトはまっしぐらにトゥアルセティスのところへと駆けて行く。わずかに腰を屈めるようにしてイプワトを受けとめる叔父の姿を見せ瞬間、ホルセムの胸に熱いものが込み上げた。 「トゥアルセティス!」  たまらなくなって、名を呼んだ。  はっとしたトゥアルセティスが顔を上げる。神秘的な〈月の眸〉がホルセムの姿を捉えた。 「ホルセム……?」  呆然と呟く叔父を、駆け寄るなり、ホルセムはイプワトごと抱き締めた。 「トゥアルセティス……トゥアルセティス……!」  堰を切ったように、ホルセムの鬱金の眸から涙があふれる。  ひれ伏して、愚かだった自分を詫びたかった。けれども、どんな言葉も喉に引っかかったようになって出てはこず、ただトゥアルセティスに縋りついて嗚咽した。 「叔父上……っ!」 「……ホルセム」  トゥアルセティスの手が静かに持ちあがり、ホルセムの赤茶けた髪をそっと梳く。子供のように泣くこちらを慰めるように、トゥアルセティスはしばらく黙ってホルセムを撫でていてくれた。  ようやくすこし落ち着いたホルセムは、きつく叔父を抱いていた腕の力をやや緩めて、改めてトゥアルセティスを見た。  神秘的な〈月の眸〉がホルセムを見返す。 「ホルセム……どうして、おまえが……おまえまで、こんなところに……?」  トゥアルセティスはホルセムの頬を両のてのひらで包み込むと、泣き出しそうに眉根を寄せた。 「わたしが死んだ後、いったい何があったというの? だって、おまえはようやく父の仇を討てて、これからきっと、すべてがうまくいくはずだったじゃないか……」  その声は、途中から、かすかにふるえて掠れはじめた。 「それなのに、どうして……どうして、おまえまでが、死後の世界にいるの? どうして?」 「トゥアルセティス……」 「わ、たし、は……おまえだけは、しあわせになれるように、と……そのために、すべて、これまですべて、そのために……なのに……結局、わたしはおまえを、守れなかった、の?」  トゥアルセティスは混乱するのか、途切れ途切れに言葉をこぼす。そのうつくしい眸の端に透明な滴が盛り上がり、白い頬をすっと伝い落ちた。 「ああ、ホルセム、ホルセム……すまない……すまない、わたしが、もっと……」  滂沱と泣き濡れる叔父を前に、ホルセムは言葉を失った。  一心にホルセムを想って、身命を(なげう)ち、あれだけのことをしてくれてなお、トゥアルセティスはまだホルセムに尽くし足りなかったと泣くのだ。胸が詰まった。  ホルセムは頬に触れるトゥアルセティスの手に、己のてのひらを重ねた。強く首を横に振ると、再びトゥアルセティスをきつく抱き締める。 「あ、あなたが、詫びる必要など……そんなものっ」  ありはしない、と、ホルセムは絞り出すように言った。 「あやまるのは、俺のほうだ……叔父上」 「ホルセム……おまえがわたしに、いったいなにを詫びるというの?」  ほんとうに不思議そうに、トゥアルセティスは言った。  ホルセムはいっそ苦しくなって、眉を顰め、くちびるを噛む。あまりにも当然のように自分を大切にしてくれるそのひとを、力いっぱい掻き抱いた。肩の辺りに顔を埋めると、また、嗚咽が漏れてしまった。 「ホルセム……どうしたの? 泣いているの?」 「……ごめん、なさい……ごめんなさい」 「どこか、苦しいの? つらい? だいじょうぶだよ、ホルセム……わたしが、ここにいるから」  トゥアルセティスはホルセムの背に腕をまわして、そこをやさしく撫で擦ってくれた。いまではもうホルセムのほうが身体つきは立派なのに、トゥアルセティスにそうされていると、まるで幼い頃に戻ったかのようだった。  そうだ、と、思う。  自分は彼のことがいっとう好きだった。彼が傍にいてくれれば、それだけで、満ち足りていた。しあわせだった。  そして、そんな自分の想いは、深層のところで、ずっと、すこしも、変わっていなかったのだ。五年前のあの日からも、変わらず、たったひとりのこの人を求めていた。渇望していた。  トゥアルセティスに、ただ傍にいてほしかった。  望みは、たった、それだけ――……いま改めて向かい合う己の心。その真実は、あまりにも単純明快で、それだけに、濁りなく純粋なものだった。  ホルセムはひとつ深呼吸をした。  そして、トゥアルセティスを真正面から見た。 「あなたを、迎えに来た」  彼の手を取る。 「俺と共に……地上へ、帰ろう」  ホルセムが請うように、けれども力強く言うと、トゥアルセティスはその〈月の眸〉を驚いたように瞠った。 「だが、ホルセム。わたしは、毒を呑んで、もう……それに、おまえだって……」  そこまで言ってから、ホルセムをじっと見詰める。その眸は、どこか頼りなげに揺れていた。 「俺は、死んでいない」  ホルセムは叔父の懸念を払拭するように短く言った。  するとトゥアルセティスは、ほう、と、心からの安堵の息を吐いた。けれどもすぐに、その胸に葉新たな疑問が浮かぶらしい。 「でも、それならば、おまえはどうしてここに……? だってここは、死後の世界ではないの? 生者(せいじゃ)のおまえが来られるはずがない」 「オサイリス神とセテス神が、力を貸してくれたんだ。あなたがいまいるここは邪神アポォピスの巣食う冥府(イメンドゥアト)死者の野(アァル)との狭間にあるのだと、神々は言っていた」 「冥府(イメンドゥアト)……」 「あなたを(さら)ったアポォピスは、あなたを喰らうことで、力を得ようとしているのだと……俺はそれを阻止するために、神々の力を借りて、ここまで来たんだ……あなたを、取り戻すために」 「わたし、を……?」 「あなたを邪神アポォピスの手から取り戻さなければ……ケメトは滅ぶ、と」  ほんとうは、ただただ、叔父を取り戻したいだけだ。彼に、ホルセムの傍らへと、再び戻ってきてほしい。ホルセムの願いは本当にそれだけだった。  けれども、自分がこれまでトゥアルセティスに為してきた仕打ちを思えば、とてもそうは言えなくて、だからホルセムは口籠りつつ建前を口にした。  トゥアルセティスがホルセムの真意を確かめようとするかのようにこちらを見詰める。神秘的な〈月の眸〉が、はたはたと瞬いた。 「けれど……おまえの傍にはもう、トゥト神の加護ある娘が別にいるはずだろう? その者を新たに王妃に据えれば、邪神の災禍(わざわい)は避けられるはずではないの?」 「あの娘は……あの娘自体が、アポォピスの罠だった。贋物だったんだ」  ホルセムが言うと、トゥアルセティスは息を呑んで目を瞠った。 「……そう」  やがて、どこか翳のある微笑みを口許に浮かべつつ、ちいさく頷く。 「おまえの言いたいことは、わかったよ」  そう、叔父は静かに言う。 「おまえにとってどれだけ不本意でも、トゥト神の加護ある者であるわたしを、おまえは傍におかなければならないんだね。そうでなければ、やはりケメトに災禍が及ぶ。――ならば、災禍が退けられるまでは、わたしはおまえの傍にいなくては、ね……」 「っ、トゥアルセティス、俺は……!」  ホルセムは首を横に振った。  不本意などではない、と、そう言いたかった。けれども、これまで相手をさんざん仇だ逆賊だと罵っておいて、いまさらどの口が、と、そう思うと、言葉を告げなかった。  ホルセムは黙りこむ。  トゥアルセティスは、ふ、と、どこか諦念を滲ませた微笑み方をした。〈月の眸〉を細めて、ホルセムを見る。 「ケメトのためにとおまえが言うなら、わたしはおまえと共に戻らなければ……だって、これでも、わたしはトゥト神の化身だもの。それに、形ばかりとはいえ、おまえの……ケメトの、王妃でもある。アポォピスを退けるためにわたしが必要だというのなら、わたしは……おまえと、行くよ」  あくまでも義務として、トゥアルセティスはホルセムと共にいくことへの納得を語った。  そのことが、ホルセムを切ない気持ちにさせた。胸が締め付けられるようだ。  けれど、ホルセムは何も言えず、ただてのひらを握りしめていた。これまでの自分の行いを思えば、ただ傍にいて欲しいだけだなどと、そんな虫のいい言葉を口にできるはずもない。帰還を請う資格など自分にはないかもしれない、と、そう思うと、くちびるはわななくばかりで、言葉は素直には喉から出てこなかった。  ぜい、と、肩で息をする。 「アポォピスを退けるためにも……」  結局、ホルセムはそう言った。 「どうか、俺と地上へ……トゥアルセティス、あなたがいなければ……」  言葉が詰まる。自分はもう、あなたなしに生きていけない、と、本当はそう続けたかった。真実をすべて吐露してしまいたかった。  けれども、眉を顰めたホルセムは、やはり今度も真情とはちがう言葉を口にした。 「あなたなしでは、ケメトは滅ぶ」  トゥアルセティスはその言葉に、静かに目を伏せた。

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