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第33話 脱出

「行こう」  ホルセムがトゥアルセティスの手を引いて、やって来た道を戻ろうとしかけたときだった。急に、ウゥウゥゥ、と、イプワトが低く(うな)り出した。  途端に、ずん、と、闇が重さを増す。ホルセムは咄嗟にトゥアルセティスを護るように我が腕の中に抱え込んだ。  天地すらも曖昧な空間そのものが揺れる。遠くのほうで、厚い雲の奥に轟く雷鳴にも似た不気味な音が響いた。  断続的に聞こえる音が、こちらへと次第に近づいて来る気がする。 「……アポォピス」  ホルセムは鬱金の眸で鋭く闇を睨み据える。油断なく辺りを警戒しつつ、叔父の細い身体をしっかりと抱き締めた。 「ホルセム……どうするの?」  トゥアルセティスが不安げに言う。相手は邪神だ。人間(ひと)の身でやすやすと対抗できる相手などでないことは、お互いによくわかっていた。  だが、だからといって、トゥアルセティスをみすみす渡してなるものか、と、ホルセムは腰に提げた剣アンクラトゥスの(つか)に手をかけた。 「あなたは必ず連れ帰る……何があっても」  剣を抜いたホルセムは、トゥアルセティスを背に庇うようにしながら、体勢を低くする。  次の瞬間、目の前の闇が急に濃さを増した。黒い奔流のように、どろどろと渦巻き、うねりを上げる。  塗り潰したような黒の中に、不気味に紅い光が(とも)った。蝕の日の月を思わせるそれは、邪神の目のようだ。焔のようなものがちろちろと動いているのは、どうやら舌である。  そう認識したとき、太古の闇を(こご)らせたかのような巨大な蛇の姿が、眼前に浮かび上がった。 「吾が(かて)を盗むのは何者ぞ」  地を這うような、地響きのような、低い声がする。それこそ邪神アポォピスだった――……太初の混沌ヌゥから、太陽神ラァと月神トゥトが生まれ、世界に光を点した。そのときに、その余ったところの暗闇に生じた、闇の神。  ホルセムは剣を構えた。  対峙しているだけで、威圧感にへたりこんでしまいそうだ。けれども必死に踏ん張った。自分の後ろにはトゥアルセティスがいるのだ。彼を、渡すわけにはいかない。 「神の奴隷、人間(ひと)の身で、太古の神たる吾に刃向かうか」  あはははは、と、アポォピスの哄笑が響いた。  そう思った刹那、それまで蛇の形をしていたものが、ぐにゃりと歪む。そのまま伸びたり縮んだりを繰り返したかと思うと、灰色の肌を持つ人の形をとった。 「愚かなり」  アポォピスがぴしゃりと言う。  その瞬間、目にも留まらぬ速さで、邪神はホルセムの眼前に迫った。ハッとしたがすでに遅く、剣を掲げるのも間に合わない。せめて背後の叔父を護ろうと、反射的に腕を広げた。 「ホルセム!」  トゥアルセティスが悲鳴を上げるように叫んぶ。  やられる、と、ホルセムはそう思った。  が、覚悟したはずの衝撃も痛みも襲ってはこない。それどころか、顔を苦悶に歪めて呻いているのは、邪神アポォピスのほうだった。 「忌々しい……ラァの子らめが」  そう呟く。  気づけばホルセムの前にはふたりの青年が立っていた――……否、それは二柱の神である。  薄青い肌にラピスラズリの髪をなびかせた大河神オサイリス、赤い肌に白亜の髪を持つ砂漠神セテスが、ホルセムとトゥアルセティスと邪神アポォピスとの間に割って入っている。神々は、黄金の眸と夜色の瞳とで、アポォピスを真っ直ぐに睨み据えていた。 「オサイリス神、セテス神」  ホルセムは、ほ、と、息を吐きつつ、神々の名を呼んだ。 「偉大なる太陽神ラァの子、神の化身たるケメト王。僕たちの兄弟。――よくトゥトの化身を見つけたね、えらいえらい。ここは僕たちに任せて」  オサイリスが、場違いにのんびりした口調で言った。 「おい、ぼんやりするな。アポォピスは我らが足止めしておく。その間に、おまえはとっとと葦船のところへ戻れ」  セテスのほうは、やや不快げに眉根を寄せつつ、ぶっきらぼうに言った。 「っ、行こう、トゥアルセティス」  ホルセムは神々の言葉に頷くと、再び叔父の手を引いた。  トゥアルセティスのもとへ導いてくれたときと同じように、やはりイプワトがホルセムたちの前を駆けてくれる。トゥアルセティスの手を取って、ホルセムは必死に闇の中を走った。  やがて辺りに霧の気配が漂った。すると目の前に、幻のごとく、霧に包まれた大河イテロの川面が浮かび上がった。  岸にとまった葦船が、まだ遠いものの、たしかに小さく見えている。 「もうすこしだ」  そう言ったときだった。  どぉん、と、背後から轟音が響いた。  否、それは、何かが爆ぜた衝撃そのものだったのかもしれない。  背後の闇が黒い奔流となって追いかけてくる。それはあたかも奔騰(ほんとう)する濁流となって、ホルセムとトゥアルセティスに迫った。  暗闇を連ねたようなその波が割れると、そこから、巨大な蛇の頭がずるりと現れる。アポォピスだ。冥府(イメンドゥアト)に巣食う邪神にとって、この地において、距離などはあって無きがごとしなのかもしれない。 「っ」  ホルセムは息を呑んだ。反射的にトゥアルセティスを胸に抱き込む。剣先を相手に向ける。 「人間(ひと)よ、神々の奴隷の分際で……吾のものを盗みおおせると思うな」  怒りを孕んだ低い声がした。闇そのものがでたらめに渦を巻き出し、無数の蛇のようになって、ホルセムとトゥアルセティスに絡みつき、絡め取ろうとする。 「っ、ホルセム」  トゥアルセティスがホルセムを見詰めた。 「トゥアルセティス」  あなただけは必ず守る、と、そんな決意を籠めて、ホルセムはトゥアルセティスを抱き込む腕にますます力を籠めた。 「ああもう、くそったれが。ちょこまかと動きやがって」  そのとき、毒づくセテスの声が聞こえた。 「かっかしないでよ、セテス。最初から、冥府(イメンドゥアト)じゃ僕らは不利だって、予想はついてたじゃない」  続いて、オサイリスが溜息をつくのも聞こえてくる。  はっとして顔を上げると、アポォピスを追ってきたらしい兄弟神の姿が見えた。彼らの身を包むように護る水の玉、砂の帯が、いま、ホルセムたちに絡みついていた闇を、一時振り払ってくれているようだ。それらに包み込まれて、呼吸が楽になっていた。  ホルセムは安堵の息を吐いた。  が、事態はさほど烙款的でもないらしい。 「あっちは自分の領域、存分に力を使える。対するぼくたちは力を万全には使えない。――さて、どうしようかな」 「おまえはなんでそう落ち着いてるんだ、オサイリス」 「これでもちょっとは焦ってるんだけどねぇ」  兄弟の砂漠神からの指摘に、はは、と、笑って、大河神は肩をすくめた。 「なにか、やつの気を引きつけてくれるものでもあればね」  オサイリスが顎に手を当て、思案げに言うのに、ホルセムははっとした。  横目に葦船を見る。川岸まではあとわずかの距離だ。あとほんのすこしで、トゥアルセティスを地上へと連れ戻せる。  なんとしても、いまこの腕の中にいる人だけは守りたかった。無事に、あの船まで辿りつかせたかった。  ホルセムは、鬱金の眼差しを鋭くした。 「俺が」  兄弟神に向かって、言う。 「俺が、(おとり)になる」 「おまえが? そっちの、トゥト神の化身ではなく、か?」  セテスが(いぶか)るように言って、眉間に皺を寄せた。 「叔父上に危険は冒させない」  ホルセムはきっぱりと言った。 「アポォピスの望みは、光を呑むことだと……それなら、その対象は、太陽神ラァの化身、ケメト王たる俺でもいいはずだ。――ちがいますか?」  むしろ、ホルセムのほうが、邪神にとっては都合がいい糧になりうるかもしれない。月には満ち欠けがある。だからアポォピスは、トゥアルセティスをすぐには喰らわず、満月を待っているのだろうと神々は言った。  だが、太陽ならば、どうだろう。常に光り輝く存在(もの)であれば、いますぐ喰らってしまうことが出来る。ならば、ホルセムは、十分にアポォピスの気を引くための囮たり得るはずだった。  自分がアポォピスのほうへと飛びこむ。もちろん喰われてやるつもりなどはなかった。ホルセムが喰われれば、光を取り込んだ邪神は完全な存在となって、地上(ケメト)に災いを(もたら)すだろう。そうなっては、元も子もない。  けれども、一瞬でも時間を稼がなければ、このまま事態は打開できないのだろう。それならば、と、ホルセムは決意し、トゥアルセティスの肩を掴んだ。 「俺がやつの気を逸らすから、そのあいだに、トゥアルセティスはあの船に乗ってくれ。――オサイリスさま、どうか叔父上をあの船まで無事に逃がしてください」  ホルセムは大河神に請うた。 「まあ、いいけど……セテス、じゃあ君は、ケメト王を守って。彼がアポォピスの気を引いた隙に、うまい具合になんとか攻撃するんだ。トゥトの化身を船に載せたら、僕もすぐに加勢に戻る」 「承知」  ホルセムと二柱の神々とで頷き合ったところに、しかし、トゥアルセティスが割って入った。 「っ、何を言うの、ホルセム! 神々も! 囮なら、わたしが……だって、アポォピスの狙いは、わたし……やつはもともと、わたしを喰らおうとしているのだろう? だったら……」  囮役には自分がなる、と、トゥアルセティスは畳みかけるように言った。 「だめだ。俺はもう、あなたを、すこしの危険な目にもあわせたくない」 「なにを馬鹿なことを……おまえは王なんだよ。誰よりも、己の身を優先しなければ……だから、わたしを囮にして、その間になんとか神々と共に活路を……」 「できない」 「っ、ホルセム!」 「できないよ、トゥアルセティス……もう、たくさんなんだ。もうこれ以上、あなたに犠牲を強いたくない。俺は……」  知らないところでずっと護られ続けていた。トゥアルセティスは、ホルセムのためにすべてを(なげう)ってくれていた。  だから今度はホルセムこそが、トゥアルセティスを護りたかった――……もう、一方的に護られるだけなのは、嫌なのだ。  自分で自分が許せない。  「叔父上……トゥアルセティス」  あなたを守りたいんだ、守らせて、と、そんな想いを籠めて、ホルセムはトゥアルセティスを真っ直ぐに見詰めた。彼の胸にかかる護符(アンク)を手に取り、何かを誓うように、そっとそれに口づける。 「行って、どうか」  そう短く告げると、ホルセムは(きびす)を返した。自分たちを包んでいた水と砂との結界を越えて、迫りくる闇の奔流のほうへと駆け戻る。セテス神が隣を共に駆けてくれていた。イプワトも、ホルセムの傍らを走っていた。 「ホルセム!」  トゥアルセティスがホルセムを呼ぶ声が後ろから追いかけて来る。 「こら、君はこっちだ。行くよ」  オサイリス神がトゥアルセティスを葦船まで導いてくれるはずだ。その間、なんとか時間を稼ぐ。そして、自分も離脱する。ホルセムは王権の剣アンクラトゥスを構えた。 「ホルセム……ッ!」  再び、こちらを案ずるトゥアルセティスの、悲鳴のような叫び声が響いた。  そのときだった――……唐突に、背後で、眩い銀色の光が膨らみ、弾けた。 「トゥアルセティス!」  ホルセムは思わず振り返り、はっとする。  葦船の前で、トゥアルセティスががくりと項垂れているのが見えた。

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