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第34話 形代

「トゥアルセティス……ッ!」  ホルセムは叔父の異変を感じ取って、思わず叫ぶように声をあげた。  トゥアルセティスは立ってはいるものの、その手はだらりと垂れている。まるで糸でつられた傀儡(にんぎょう)のような姿に、ホルセムは血の気が引くのを感じた。 「トゥアルセティス!」  再び叫ぶ。  だが、その瞬間、ホルセムは周囲がいやに静まっていることに気が付いた。  アポォピスはどうした、と、あたりに視線を巡らせると、烈しく渦を巻いていたはずの闇が、いまは、ぴたりと動きをとめているではないか。 「これ、は……?」  ホルセムはつぶやいた。 「トゥト」  砂漠神セテスが、信じられないというふうに呆然と口にしたのは、太初の混沌から生じたとされる月神の名だった。 「あの者の身を形代(かたしろ)に、トゥトが降臨している」  そう言われ、ホルセムは再びトゥアルセティスへと視線を向ける。  いつしかトゥアルセティスは顔を上げていた。神秘的な〈月の眸〉は前を向いている。けれども、凍ったように表情のないその姿は、いつものトゥアルセティスとはまるで違っていた。  叔父の傍らでは、大河神オサイリスが膝をついて(かしこ)まっていた。 「トゥト、神……?」  兄弟神の言葉と態度とを前に、ホルセムは信じ難いながらも、その神の名を口にした。 「行こう」  セテスがホルセムを促す。 「でも」  いまは何故かアポォピスは静かだが、このまま放っておけるわけもない。ホルセムが戸惑って砂漠神を窺うと、セテスは、心配ない、と、息を吐いた。 「トゥトは(こよみ)を司る神……時間は彼の管轄だ。たぶんいま、彼は冥府(イメンドゥアト)時間(とき)に干渉している」  だからこそのこの静かさだろう、と、セテスは説明した。 「それじゃあ……」  その間に葦船に乗り込み、イテロの東岸へと渡ってしまえばいいのではないだろうか。ホルセムが言うと、たしかにな、と、砂漠神は頷いた。 「――それがね……彼は、このままでは葦船には乗れないんだって。乗っても東岸には上がれないって、トゥトが言うんだ」  ホルセムとセテスが合流したところで、立ち上がったオサイリスが困ったように眉根を下げた。 「っ、なぜ……?」  ホルセムが問うと、その問いには、トゥアルセティスであっていまはトゥアルセティスでないものの口から答えが返った。  トゥト神だという相手は、我が胸に手を当てるようにしながら、こと、と、小首を傾げる。瞼を半分伏せたような半眼でいるのが、彼の表情から感情を読みにくくさせていた。 「なぜといって、この者の命の(ともしび)は一度消え、そのうえでアポォピスに冥府(イメンドゥアト)に連れ込まれておるからだの。有態(ありてい)に申せば、いまこの者は、アポォピスの所有……冥府(イメンドゥアト)の領域に属する存在(もの)。よって、主の許しなく勝手に冥府(ここ)から出せはせぬ、と、理屈としてはそういうところかの」  起伏の少ない平坦な声が滔々と述べた。 「なんだよ、その理屈は……あんたならなんとかできないのか?」 「相変わらずの口の利き方だの、セテス。わたしはそなたらの父と同格の神、ヌゥの他には並ぶものなき至尊の存在ぞ? もっと丁寧にしゃべらぬか」  トゥアルセティスの身体を借りているトゥト神は、冷たい眸で砂漠神を見た。 「まことにすみません、うちの愚弟が。あとで父神ラァに言いつけておきますのでご容赦を」  オサイリスが慌てて間に入って仲裁すると、しかしそれまで冷えた表情をしていたトゥトは、その次の瞬間には、実にけろっとした顔をしていた。 「まあ別にたいして気にしてはおらんのだがの。格など割とどうでも良いし」 「あはは、左様ですか。さすがトゥト、いつも気紛れなことで……此度の急なご降臨にもたいそう驚かされました。というか、来るならもっと早くお越しいただきたかったです」 「オサイリスよ、そなたも相変わらず大概(たいがい)だの」  トゥトはたいした感慨もなさそうに口にしつつ、くつ、と、ひとつかすかに喉を鳴らして笑った。  トゥアルセティスが見せることのない表情、彼の口からは聞くことのない声音に戸惑いつつも、ホルセムはじっと息を凝らすようにして、トゥト神とラァの子の兄弟神の遣り取りを見守っていた。トゥアルセティスをこの地から救い出す手立ては、と、すこし焦れたときだ。 「――さて、と。そこの、ケメト王よ」  呼びかけられ、はっとする。 「わたしは知恵の神でもある。そう呼ばれる者として、ひとつ、そなたに知恵と力を貸してやろうかと思うが、いかがかの」  トゥトは〈月の眸〉を細めつつ、起伏の少ない声でそう言った。 「知恵と、力を……?」  ホルセムは鸚鵡返しに呟いた。 「そう。申した通り、いま冥府(イメンドゥアト)に属する存在(もの)であるこの者は、このままでは、地上へ戻ることかなわぬ。かといって、アポォピスがこの者を連れ出すことを素直に許すわけもない。そこで、だ……ここはひとつ、あやつの目を(くら)まして、誤魔化してしまうのが手っ取り早かろう」 「誤魔化すとは、いったい……?」  わけがわからず、ホルセムが問うと、ふ、と、月神は妖艶に笑う。 「この者の身代わりを用意する。それをこの者だと誤認させるというのは、どうかの」 「そんなことが可能か?」  セテスが口を挟む。 「短時間なら、の。――あるものは、なくなっていない。そこにあるのだから、なくなっているはずがないの。なくなるはずのないものが、なくなることはありえないのだから、そこにある以上、誰が何を咎められようか」  まるで謎かけのようなことをトゥト言った。セテスはわけがわからないというふうに凛々しい眉根を寄せたが、いっぽうで、オサイリスは得心したように顎に手を当て、ふむ、と、頷いた。 「なるほど……アポォピスが身代わりを彼だと思い込めば、本物の彼のほうは、冥府(イメンドゥアト)からはみ出した存在になる。それで地上に連れだせる、と」 「おそらくはな」  トゥトが短く答えた。 「よくわからんが、あんたが出来ると言うならそれはそれでいいとして……肝心の身代わりはどうする? 代わりにケメト王を置いていったりすれば、本末顛倒だろう」  セテスが疑問を呈すると、トゥトは、こと、と、小首をかしげた。その動きに合わせて、銀の髪がさらりと揺れる。 「身代わりは……なにも人である必要はないかの」 「とはいえ、それなりに人に似たものである必要はあるのでは? 大河(イテロ)を渡りきるくらいまではアポォピスの目を(あざむ)けるようなものでないと、意味がない……ですよね?」 「まあ、そうだの。――だが、それも……何とかなると思う」  トゥトは言って、自らの胸元に右の手を当てた。 「いったいどうするおつもりですか、トゥト」   オサイリスが訊ねるのには答えず、しばらく目を閉じている。  トゥト神の右手はいま、ちょうどトゥアルセティスの首にかかった木製の護符(アンク)の上にあった。それにてのひらを重ねるような形である。  それから、彼は左の手をゆっくりと持ち上げ、何かを確かめるように、するすると肚のあたりをふた撫でした。  目を細め、口の端を引き上げる。 「この者の身体の中に……そなたの血と精とが交じっているな、ケメト王」  言われたホルセムは、はっと息を呑んだ。すべてを見透かすような〈月の眸〉を前に、言葉を失う。  たしかにホルセムは、トゥアルセティスに自らの血を呑ませたことがあった。そしてまた、彼の身のうちで吐精した夜だって、幾度もある。  罪を見咎められるようで居た堪れない。ホルセムはカッと頬を赤くすると、黙ったままで、うつむいた。 「そう恥じ入らずともよかろうに。使えそうだから使うぞというだけのことだ」 「つか、う……?」 「うむ。――この護符(アンク)を核となる心臓(イブ)として、血は生命力(カー)に、精は(バー)に」  トゥトが呪文を唱えるように流れる口調で口にする。すると、トゥアルセティスの身体のうちから無数の蒼銀に輝く光の糸のようなものが現れ、胸元の護符(アンク)(まゆ)のように包んでいった。  やがて目の前にトゥアルセティスにそっくりの人形(ひとがた)が姿を現す。それは瞼をおろしたままで、中空に浮かび上がっていた。  その身体に、トゥトが手を伸ばした。 「急(ごしら)えにしては上出来かの」  つくった人形の頬を撫でつつ、目を細める。 「お見事です、トゥト。――ですが、目が……」 「目が開いてないんじゃ、こいつが贋物だと、アポォピスにすぐ露見しないか?」  オサイリスとセテスとが指摘し、トゥトは、ふむ、と、唸った。 「アポォピスから逃れるためだ。この先、視野を失うくらいのことは、堪えてもらうかの」  そうあっさりと言うと、トゥトは今度は、己の――すなわち、トゥアルセティスの――目許に手をやった。 「っ、待ってくれ!」  ホルセムは慌てて月神を止めた。トゥトがトゥアルセティスの眼球を抜いて、人形に嵌め込もうとしていることに気付いたからだった。 「使うなら、俺の目を」  いくら助かるためといえども、出来ればトゥアルセティスの身体を傷つけたくはない。ホルセムの申し出に、トゥアルセティスの姿を借りたトゥト神は、こと、と、首を傾けた。 「まあ、わたしはどちらでもよいが」  軽い調子で言って、そのままホルセムの目に手を伸ばしたトゥトを、今度は砂漠神セテスが止めた。 「ケメト王、おまえが視力を失うのは、この先の統治を考えるといただけない」 「だが……では、どうしろと……!?」  やはりトゥアルセティスの目を(えぐ)るべきだというのか。そんなのは嫌だ、と、ホルセムが眉根を寄せつつセテスを睨んだとき、それなら、と、オサイリスが口を挟んだ。 「半分ずつに……右目と左目、お互いから、ひとつずつ取る。――それなら、君も妥協できる?」 「だが……」  それでも、トゥアルセティスを傷つけることにはなる。ホルセムはすぐには(うべな)えなかった。  オサイリスが、ふう、と、息を吐いた。 「君が完全に視力を失うことを、彼は望む? 望まないんじゃない? あとで泣かれても知らないよ、ぼくたちは」  大河のゆったりとした流れのように穏やかでやわらかな声に、諭される。 「おまえがトゥトの化身を傷つけたくないと思うのと、同じだろうに。ならば、半々の痛み分けで、お互い譲歩しろ」  セテスもまたぶっきらぼうに言った。  ホルセムは兄弟神の言葉を噛みしめる。しばらくのち、しぶしぶながらも頷いた。  それを受け、トゥトの手が改めて、ホルセムへと伸びてきた。右目を白いてのひらにふさがれる。それと同時に、月神はトゥアルセティスの左目をも、てのひらで覆っていた。  熱い。目の奥が燃えるようだ。  そう思ったときにはもう、ホルセムは右の視野を欠いていた。同じように、目の前のトゥアルセティスも隻眼となってしまっている。  その姿は痛ましい。けれども、彼を地上へ連れ戻すため、と、ホルセムはくちびるを噛み、てのひらを握り込んだ。  宙に浮かんでいる人形(ひとがた)の瞼がゆっくりと開く――……右に鬱金の眸、左に〈月の眸〉。 「これならよいかの」  トゥトは片方だけになった〈月の眸〉を細めつつ、ひとつ、息を吐いた。 「とはいえわたしには、ラァのように、(レン)を与えて新たな存在(もの)を創造するまでの力はない。これはあくまでも目晦ましの人形にすぎぬ。アポォピスの目を晦ませられるのもわずかの間であろうから、あとは、機を逸せずに地上へ戻ることだ」  そういうや否や、その身体が、かくん、と、力なく崩れ落ちた。  どうやらトゥト神がトゥアルセティスの身体から唐突に去ったものらしい。ホルセムは慌ててトゥアルセティスの細い身体を抱きとめた。

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