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第35話 地上

 トゥトが去ると、冥府(イメンドゥアト)の時間は再び動き始めた。  闇が蜷局(とぐろ)を巻いて、吹き荒れる。その中で、ホルセムは気を失ったままのトゥアルセティスを腕に抱えて、葦船に乗り込んだ。  濃い霧に包まれ、船は河岸を密かに離れる。  岸には、月神がつくりあげたトゥアルセティスの人形(ひとがた)が残されていた。その傍らには、老犬イプワトがぴたりと寄り添っている。 「イプワト」  ホルセムは後ろ髪を引かれる思いで、その名をひっそりと呼んだ。  イプワトは呪によってすでに命が絶えている。だから、葦船に乗って一緒に地上に戻ることは出来ないのだ。  いま思えば、あの呪もまた、ハクラカァに憑りついたアポォピスによるものだったのかもしれない。幼い頃、トゥアルセティスと共に可愛がったイプワトを救えず、みすみす死なせてしまったのが悔やまれた。 「イプワト……」  ホルセムが再び呼ぶと、イプワトは、くぅん、と、鼻を鳴らして、ホルセムに応えた。白目のない、黒い眸がホルセムをじっと見ている。いいから行け、と、そう促されているようだった。 「いつかまた……死者の野(アァル)で会おう、イプワト」  ホルセムはそう言って、思い切るように(かい)をひと掻きし、大河の沖へと漕ぎ出した。  川面は相変わらず霧に覆われていた。けれども、行きとは違い、いまは何の幻もホルセムを惑わすことはない。ホルセムは、かすかに明るい気がする東岸を指して、ひたすら葦船を漕ぎ続けた。  気を失ったままのトゥアルセティスは、いま、舟底に横たわっている。時折、その白い顔を見下ろしながら、休まず櫂を動かした。必ず地上まで無事に連れて帰る。そう強く思いながら、東の岸辺を目指した。  船は水面をすべるように静かに進む。  やがて、輝くような白い光の中に、緑に覆われた黒土の大地が見えた――……地上である。  ホルセムは、そ、と、息をつく。葦船が東岸へつくと、トゥアルセティスの身体を横抱きにかかえて、黒き大地(ケメト)へと降り立った。  戻って来られた。  叔父を、地上へと取り戻したのだ。  感極まって、意識のないトゥアルセティスをきつく抱き締めつつ、ホルセムは肩をふるわせた。その時だった。 「――あぁあぁあああぁぁああぁッ!」  恐ろしい叫喚があたりに響いた。  ホルセムははっとして振り返る。するとそこには、怒りに紅い目を爛爛(らんらん)(たぎ)らせた、黒光りする大蛇の姿があった。 「こんなもの、こんなものッ、こんなものぉッ!!」  鎌首を振り立てた大蛇のほうから、何かがホルセムに向かって飛んでくる。大地に落ちたそれを見れば、木製の護符(アンク)だった。 「人間の分際で! 神の奴隷の分際で! こんなもので吾を(たばか)るとはッ!!」  どうやら()(くら)ましはすでに効力を失い、トゥアルセティスの人形(ひとがた)は、アポォピスに贋物(にせもの)であることが見破られてしまったらしい。邪神は自分が(だま)されたことを知って怒り狂い、ホルセムたちをここまで追ってきたのだった。 「っ」  ホルセムは気を失ったままのトゥアルセティスを護るように抱き直しつつ、やや体勢を低くした。 「――心配するな。ここはもう東岸だ」  すると、不意にそれまで姿を消していた砂漠神セテスの声が聞こえた。自信に満ちた、ゆったりと余裕のある声音だった。 「君はやり(おお)せたんだよ、ケメト王ホルセム」  続いて、大河神オサイリスも言った。 「ここはすでに現世、我らの領域だ」 「さて、あとひと仕事。アポォピスを冥府(イメンドゥアト)に押し戻すよ」  目の前の空間が陽炎のように揺らぎ、砂嵐と水流が渦を巻く。それが人の形に(こご)ったと思うやいなや、そこにはケメトを護る兄弟神の姿が現れていた。  彼らは互いに頷き合うと、河を背後に牙をむく大蛇と対峙する。  ホルセムはトゥアルセティスを柔かな草の生えた、安全な場所に横たえた。自分は王権の剣アンクラトゥスを抜いて、ふたりの神のもとへと駆け戻る。 「俺はケメトの王だ」  アンクラトゥスの切っ先を邪神に向けて、しっかりと剣を構えた。 「ケメトを(おび)かし、俺の大事な者を傷つけようとする者を前に、ただ護られてなどいられない」  いまや隻眼となった鬱金(うこん)の眸で、真っ直ぐに相手を睨み据えた。  そのときだった。  大地の上で、何かが強烈な光を放った。  見れば、先程アポォピスが放り棄てた護符(アンク)である。まるでちいさな太陽でもあるかのように、それは(まばゆ)く輝いていた。魔力が光の糸、帯となって、護符(アンク)の周囲に絶え間なく揺らいでいる。  ホルセムは反射的にそれに手を伸ばした。  (いにしえ)の賢者が〈魂の印〉とも呼んだ、輪のついた十字のかたち。ケメト十字。それは太陽神ラァの加護の証であり、闇の神アポォピスを退ける力を秘めるのだとも伝えられていた。楽園(アァル)へ続く扉の鍵であり、また、闇を払い身を護る(つるぎ)でもある。  ホルセムが護符(アンク)を手に取った刹那、それは姿を変えて、金色に輝く剣となった。  ホルセムは一瞬、目を瞠るが、すぐに視線を鋭くして剣の柄を強く握った。  あらためて、邪神アポォピスに対峙する。 「光、光、光、光ッ! 寄越せ、吾に寄越せぇッ!」  光を渇望し、アポォピスは荒れ狂っていた。  その姿を見ながら、ホルセムは不意に、なぜか痛ましい想いに駆られた。憐れみのような、同情のような感情が、湧き上がってくる。  何かにひたすらに焦がれる想いには、ホルセムにも覚えがあった。手を伸ばしても届かず、(かつ)え、(かわ)き、苦しくて、苦しくて、どうしようもない想いだ。  力に任せて支配してしまえば、楽になれるのではないのか。  そう思って力尽くで征服しても、けれど、望むものは遠ざかるばかりだった。  一方的な支配では、決して真実の安らぎは得られないのだ。心が満たされることは、永遠に、ない。 「闇の神アポォピス」  ホルセムは護符(アンク)が変じた黄金の剣を掲げつつ、しん、と、呼びかけた。 「太古の混沌から生った光の、さらにその余ったところに生じた神。――俺は……闇もまた、この世になくてはならないものだと思う」  光があるから闇は生じ、そして、闇があるからこそ光はなおいっそうに輝くことが出来る。それは表裏であり、切っても切り離せない存在(もの)であるはずだ。  すべてを照らし明らかにする光が人々を力強く導くとしたら、すべてを塗り潰す闇は、なにもかもを許し、包み込むことが出来るのではないだろうか。  それでもなお、世界が闇のただ一色に染め上げられることは、容認できない。光があって闇がある。闇があって光がある。その均衡こそが世界だからだ。  闇は、闇の在るべき場所に、戻ってもらわなければならない。 「俺はケメト王だ。ケメトの大地を、民を、太陽神ラァの子、神の化身として、守らなければならない。だから俺は、おまえの支配を容認できない。――そのかわり……」  ホルセムは真っ直ぐに邪神を見た。 「蝕の昼、新月の夜には、必ずおまえを祀ると約束しよう。だから……西の冥府(イメンドゥアト)へ、帰るが良い!」  王としての誓いと共に、手にした剣に力を籠めた。黄金の剣は強く輝く。辺りが眩い光によって真っ白に塗り潰された。  それはいっそ、白い闇のようですらある。  ホルセムは掲げた剣を一閃させた。オサイリス神とセテス神が、それに重ねるように魔術を操る。黄金の光に水と砂とが絡み合って、邪神アポォピスへと向かっていった。 「あぁあぁあぁああぁ!」  アポォピスが叫喚しつつ、のたうちまわる。 「吾を祀ると言ったな。忘れるな。忘れるな。吾を忘れることは許さんぞ。忘れ果てたその時には、また……!」  河の西岸へと闇が押し戻されていく。次第に小さくなるその声は、どこか、縋りつき、(こいなが)うような、痛切な響きを帯びていた。  それは、トゥアルセティスに向かって己を見ろと迫ったときの、ホルセム自身の想いと重なる。響き合う。  求め、得られず、苛立ち、傷つけた愚かな自分の行為――……忘れるものか、忘れたりしない、と、いま自分の中にある自責と慙愧(ざんき)の念もひっくるめて、ホルセムは邪神への誓いに代えた。  辺りが静まると、手に在った黄金の剣は空気に融けるように消えてしまった。  ほう、と、息を吐いたホルセムだったが、すぐに(きびす)を返して駆け出した。 「トゥアルセティス!」  草の上に横たわらせたトゥアルセティスに走り寄る。 「トゥアルセティス」  抱き上げて、その顔を覗きこむ。叔父はまだ気を失ったままだった。  否、一度ホルセムの与えた毒によって命を失った彼は、ほんとうに、生き返ることが出来るのだろうか。急に不安に襲われたホルセムは、血の気の引く思いで、トゥアルセティスを見下ろした。 「トゥアルセティス、トゥアルセティス……たのむから起きて、目をあけてくれ」  ゆさゆさ、と、揺すぶるが、反応はない。毒杯を呷った後、牢で倒れたトゥアルセティスを抱えて縋ったときのことが甦って、肚の底が冷たく冷えていった。 「血を」  ふと、後ろから声が聞こえる。振り返ると、砂漠神セテスだった。 「血は生命力(カー)だ」 「君の血を、彼に。気付け薬みたいなものだけど。それでたぶん、目を覚ますと思うよ」  オサイリスが弟神の言葉を肯定するように続けた。  ホルセムは頷くと、手元にあった王権の剣アンクラトゥスの刃で、自分の親指の皮膚を切り裂いた。血のあふれだした指の腹で、トゥアルセティスのくちびるをそっとなぞる。  しかし、しばらく相手の様子を窺っても、変化ははなかった。 「トゥアルセティス……」  呼びかけつつ、今度は傷つけた親指を、自分が口にふくんで血を舐めとった。そのまま、身体を屈めて、半身を起こさせるように抱き上げているトゥアルセティスに口づける。  舌を差し込み、ほのあたたかい相手の身体に、自分の血液を送りこむようにした。そして、幾度かそれを繰り返したときだった。  ふる、と、トゥアルセティスの白い瞼がかすかにふるえた。 「っ、トゥアルセティス……」  ホルセムが呼びかけると、ゆっくりと瞼が持ちあがる。右の片方だけになってしまった〈月の眸〉が、ぼんやりとホルセムの姿を映しだした。 「……ホルセム……おまえ、目を、どうしたの……?」  掠れた声で、トゥアルセティスは言った。持ち上げた片手をホルセムの右の頬に添えて、ひどく心配そうにする。  それを見たホルセムは、ふ、と、思わず苦笑した。 「だいじょうぶだよ。それに……目のことなら、あなたもだ」  言った途端、じん、と、瞼が熱くなった。 「あなたは、いつもそうだ。俺のことばっかり……トゥアルセティス」  万感の思いを込めて名を呼び、ホルセムは目を開けてくれたいとおしい人に、そっと口づけたのだった。

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